あす目が覚めてひとりだとして


 雲がゆっくりと流れている。
 バウッツェルの弾力あるからだにも似て見える分厚い雲が、地上では感じられない天の風に乗り、わたりどりポケモンたちと共に異国の空へと旅立っては、日光の手でこちらに別れの挨拶を送っている。この朗らかで穏やかな、およそ何気のない午後の幸福を、ウドは両の手のひらで享受していた。そしてそこには、昼食の器という最も分かり易い幸せの象徴が、湯気を立てて載っかっている。
「いやあ、ウドさんの料理はいつ食べても美味しいですねえ!」
 とは、食事を共にしているマルバが発したものである。そんなしみじみと染み渡るような言葉の響きにウドははたと目を上げると、彼のことを見て「おかわり、まだありますよ」と笑った。当然ながら、マルバは嬉々としてその誘いに乗ってウドのお手製ブブールをもう一杯おかわりしたし、また、心躍るこの流れに彼のバウッツェルが便乗しないわけもなかった。
「でも、先生の作ってくださるお料理も美味しいですよ」がつがつとブブールにとりくむバウッツェルを眺めながら、ウドが微笑む。
「そうですか? それは嬉しいなあ!」バウッツェルに負けない食べっぷりを見せ付けつつ、相手の言葉にマルバはにっこりした。「だけど、やっぱりウドさんには敵いませんよ。たぶん、年季が違うでしょう?」
「ね、年季……そんな大層なものではないですけど……」
 マルバの真っ直ぐこちらに向かってくる笑顔を受け、彼女はその名状しがたい眩しさに何度か瞬きしたが、それでも胸にせり上がる気恥ずかしさのために不本意ながらも視線を逸らさずにはいられなかった。思えば、このように自分の料理を手放しに美味しいと喜んで褒めてくれる相手は、マルバが初めてだったかもしれない。彼女のブブールは今も湯気の中で、ライス本来の甘味とジンジャーのわずかな辛味が織り成す非常に食欲をそそる香りを立ち上らせており、口に含めばそれは粥の旨味はもちろん、隠し味に絞ったノメルのみが爽やかに口内を駆け抜けただろうが、けれども今のウドにはどうしてもその味を上手く感じることができなかった。
「……父が」木の匙で意味もなく粥を掬ったり混ぜたりしながら、ウドが小さく呟く。
「うん?」
「その、……父が、ワタシの作った料理だったら多少食欲が湧くみたいで、それで、よく料理を作っていたんです」
「お父上?」
「あっ、何か病気だとか、そういうわけではないんですけど!」心配そうな表情を浮かべるマルバに、彼女は慌てて顔の前で手を振った。「ただ……なんというか、事情があって……あまり元気が出ないみたいで、ずっと。でも、父もお仕事がある身ですから、ちゃんと食べないと身体を壊してしまうと思って……」
「……お父上はどんなお仕事をされてるの?」
「村長をしています。主にムラの政を取り仕切っていて、近辺の村里との取引や、遺跡での祭祀、ムラの備蓄管理や安全管理……それから、モリビトへの仕事の指示役なんかも担っていて」
「モリビト……前にも言っていたね」マルバは馴染みのない単語をくり返すとき特有の、まるで舌の上で言葉が引っ掛かっているかのようなたどたどしい発音をした。
「モリビト、イッシュ地方にはいらっしゃいませんか?」ぱちりと瞬いたウドは、異国への好奇心を隠せない表情をする。それから、マルバがまなざしで頷いたのを目にすると、ふむ、と下唇を触り、少しばかり遠くへと自身の視線をやった。「モリビトというのは、エニシデシア様の御子とされる特別なポケモンを守護する役目を担った方々のことで……バハギアに八人いらっしゃる、とても強いポケモンつか──トレーナーたちです。御子のお世話以外にも、棲み処周辺の警備や治安維持などの御役目も担っているので、つど父がそれぞれに指示を出しているみたいです」
「なるほど。ウドさんも向いていそうだね」話を聞いて、マルバがぽつりと零した。
「えっ?」
「もちろん、モリビトにさ」そう微笑む彼の辰砂には、どことなくいたずらっぽい輝きがある。「じつは、そうだったりして?」
「まっ、まさか! そんな、恐れ多い……」
「でも、強いでしょう? ポケモン」
「え? あ……」
 そんなマルバの言葉に困惑して、ウドは辺りを見回した。そこには、彼女と彼女の料理が入っている鍋をぐるりと取り囲むようにして、てもちポケモンたちが思い思いの時間を過ごしている。
 ウドにはチコリータのチコさん≠含め、計六体のてもちポケモンがいる。その中の一体──マルバ曰く、他の地方では存在しないらしいバハギア特有の姿をしたマンムーは、猛々しい毛並みを持ち、その一部分は炎のごとく揺らめいて、それはさながら長い前髪のようだったが、彼はその毛先にブブールが引っ付くのにも構わず黙々と食事を続けているし、ウドのてもちの中で最年長かつご長寿のジーランスは、とうに食事を終えて悠々自適に──そう表現するには起きているのか眠っているのかよく分からなかったが──辺りを漂っている。
 そんなジーランスのすぐそばには二体の竜が控えており、その片方であるジオドラコは、自身の巨躯に見合わず食事はゆっくりと味わいながらとりくむ派で、反面もう片方の竜であるドラパルトは、ツノのドラメシヤも含めて、尋常ではない早食いの達人だった。早食いが健康に良くないことは、他のポケモンたちの様子からドラパルトも薄々勘付いてはいたが、彼は他者に先手を取られたり横取りをされるのがすこぶる嫌いだった上、そもそももう霊の仲間なので自らの健康状態を気にする必要もなく、基本的には好き勝手やっているのだった。
 更に、火にかけた鍋のそばでは、またしてもマルバ曰くバハギア地方特有の見目をしているというメラルバが安心した表情で休んでいる。星明かりを背負ったような姿をしているこの地方のメラルバは基本的に大人しい性質で、一日の九割を眠って過ごす。そのため、自ら進んで食事を摂ることもほとんどなかったが、見かねたウドが口元に木匙を持っていくと、そこに載ったブブールをもぐもぐやっていたので、彼女のメラルバは比較的よく食べる方の個体と言えた。ちなみに、ウドのチコリータに関しては、彼女のすぐ真隣を陣取って、大盛りによそってもらった粥を満足げに食べていた。当然と言えば当然だが。
 彼らはいつだって強かで、そして自由だった。こうして外に在るときはもちろん、ボールに在るときだってそれは変わらなかった。彼らはいついかなるときも、そばにいてくれた。ときわたりの旅人と戦ったときでさえ、ここにいる皆と一緒だった……当時行方不明だったチコリータを除いて。
 彼らの姿を一通り見渡したウドは、マルバから発せられた先の問いかけに対し、さほどの迷いは生まれなかった。
「あの……は、はい」
 おずおずとした、けれども揺らぎない相手の目を見て、マルバは面白げに声を上げた。「アハハ、うん──いいね、ウドさんってほんとうに!」
「えっ、ええっと……」褒められている意味が分からず、ウドは首を傾げながらとりあえず微笑んだ。「それなら、その……勝負、しますか?」
「うん、うん、それもいいね。次のムラが見えてきたら、そこでやりましょうか」
 ウドの提案に、マルバがそうにこにこと返事をしたので、彼女はほっとしてようやく自身のブブールに手を付けはじめる。
 二人が出会ってから、三か月近くの時が流れていた。
 彼女らはバハギア地方に存在する八つの祈りの家の内、すでにその半分を巡礼し終えていたが、ウド一人のときよりはずっとゆっくりとした足取りで、未だ共に旅を続けていた。マルバはウドの怪我が完治して、どれほどの月日が流れても尚、別れの言葉を切り出すことはなかった上、巡礼だけでなく彼女が訪れた村里で行う奉仕活動──マルバには修道女か尼僧の行う慈善活動の一環に映っただろうが──にも喜んで手を貸し、汗水垂らして働きに働きまくっていた。そのため、訪れた村里の人々との関係は良好なものを築けることが多く、ムラ一つに二週間以上滞在することも少なくはなかった。そのようにして、マルバはウドの生活に大いに貢献していたが、それでもあくまで彼女自身の心を尊重していたため、ウドが居心地悪そうにしていればすぐにムラを旅立ったし、そんな彼女の身の上について何か深く詮索するようなことも決して口にはしなかった。
 ウドは何も言えなかった。彼の優しさに甘んじて、別れを促すこともできず、だからといって引き止める言葉も発する勇気もなく、そしてもちろん、自分の犯した罪について語ることもできなかった。マルバへの恋心を自覚してからというもの、彼と同じ時間を共にすることはウドにとってこの上ない喜びであったが、それと同時に、マルバの柔らかで大きな優しさに触れるたび、ウドは彼の心に入り込み、何か盗みを働こうとしている泥棒のような気分にもなった。だから、言わなければ。今日こそ。今日こそ……
「ウドさんはチコリータ──さん、とほんとうに仲が良いですねえ」以前チコリータと気安く呼んだら痛い目に遭ったマルバが、さしずめ貴婦人に呼びかけるときに発する、敬いを込めた声音でふとそのように言った。「まるで姉妹みたいだ」
「姉妹?」先ほどとは別の理由で粥の味を感じられなくなっていたウドが、そんな相手の発言に目を丸くした。
「うん。チコリータさんがお姉さんで、ウドさんが妹さん……って感じかな?」
「ワ、ワタシが妹?」ウドは困惑したが、膝のチコリータが当然であるという表情を浮かべていたので、つられて少しだけ笑った。「でも……はい、そうかもしれません。離れていた時期もあったけど、チコさんとは幼い頃から一緒だから」
 そうしてウドはごくごく自然な息継ぎで、自分とチコリータが出会った日のこと、それからこれまでのふたりの歩みを──つまるところ、彼女の背負う十字架のすべてをマルバに語って聞かせようと試みたが、しかしいつも通り、唇から零れたのはただ力のない吐息ばかりだった。それを語るには……再び穴の淵に立ち、絶望を覗き込もうとするには、今日という日の太陽は些かあたたかく、空は青すぎた。そして、その穴の奥底に隠されている闇の塊をすっかりそのまま発するには、ウドの喉は未だ細かった。
「この子は……ワタシが悲しかったときにそばにいてくれたんです。誰よりも……」ゆえに、ウドが言葉にできたのはこれだけだった。「だから、やっぱり。お姉さんって感じですね!」
 彼女は頷きながらそう笑って、思い出したかのように手元のブブールを一気に自分の喉へと詰め込んだ。それからしばらくして食事の後片付けを終えてしまうと、ウドとマルバのポケモンたちは再び各々の自由時間を謳歌しはじめ、そんな彼らを眺めるマルバもまた、穏やかでゆったりとした昼下がりを楽しんでいるように見えた。ウドは、暖色の日差しを浴びて柔らかく発光しているマルバの横顔を眺めながら、少しごつごつとした感触をしている自らのボールを手の中で転がした。
 そして、ウドの様子を目に留めたマルバが、不意にその顔をこちらへと向ける。「そういえば、前から少し気になっていたんだけど……ウドさんのボールって、ちょっと珍しい感じがするね」
「え、……え!」この指摘に、ウドはどきりとした。「やっぱり、分かっちゃいますか? へ、変ですかっ?」
「もちろん、変なんかじゃありませんよ。もしかして、何か特別なものなのかな? バハギアの特産品だとか?」
「い、いえ、そのう……じ、じつはこのボール、ワタシの手作りでして……」
「手作り!」マルバはなんだか嬉しそうな声を上げた。
「な……なんと言いますか、父が、ポケモンの扱いにはかなり厳しい人で……ワタシには特に。なので、悪いことですけど……こっそり、気付かれないようにするには一体どうしたらいいのかと考えて……」ウドは目を伏せ、懺悔する囚人のごとく両手の手首同士を擦り合わせる。「先生の持ってる、それ──モンスターボールというものが存在することは知っていたんですけど、手に入れるのが難しくて。でも、調べたら家の木に成ってるぼんぐりで作ることができると分かったので、それを採ってきて、本の挿絵を参考に見よう見まねで……」
「何か素敵な装飾もされているよね。これも?」
「はい、ワタシが彫りました。バハギアの伝統的な図柄で、ガムラン紋様と呼ばれています。楽器やお守りにもこの紋様が使われているんですよ」言いながら、ウドは自身が着る服の、ボールと同じような模様が描かれている一部分を摘まみ上げてみせた。「ただ、ボールに関してはほんとうに拙い出来なので、それで野生のポケモンを捕まえることはできませんでした」
「うん? どういうことだい?」
「えっと、このボールに入っているのは、ワタシがボールを作る以前からワタシの友だちでいてくれているポケモンだけで……みんな、自分からこの中に入ってくれているんです」
「つまり……ボールの機能ではなく、自分の意思でからだを縮めてボールの中に収まっているってこと?」
「はい、そうなります」
「君たちは互いに互いのことをほんとうにたいせつに思っているんですね」
 そうマルバは微笑んだが、反対にウドはその顔に暗い影を落とした。
「でも、ワタシ、……いけないことをしました……」
「そうかもしれない。だけど、そうまでして一緒にいたかったんでしょう。君も、君のポケモンたちも」彼の瞳はあくまで穏やかな色のままであった。「それに、大抵の子どもは親の言いつけを破るものでしょう? 僕だって、今まで何回破ってきたか分からないよ」
 マルバはそう言って朗らかに笑ってみせたが、太陽の日差しとは異なって、俯くウドの顔を無理やりに暴くようなことはしなかった。ただ彼は、自らがこれまで破ってきた親の言いつけ──暗くなる前に家に帰ること、おやつは一日一つまでであること、危ない場所には決して立ち入らないこと──を、まるで階段を一つ飛ばしで上るような気軽さでこちらに語って聞かせるばかりだった。彼はいつだってそうだった。彼の心はいつだって風のように軽やかで、空のように広く、そして海みたいに深い優しさを持つものだった。しかし、それをなんと表現すればいいのか、ウドには分からなかった。
「先生は……不思議な人ですね」だから、彼女はそう言うほかなかった。「ポケモンみたいに優しくて……」
 そんな相手の言葉に、マルバは面白げに笑ってみせる。「ポケモンみたい、は初めて言われたなあ。でも、ウドさんにそう言われるのはなんだか嬉しいですね」
「みんな、優しい。先生も、ポケモンたちも……なのに……」
 ウドは手の中のボールを見た。そこに在るのは出来の悪い、使い古されて傷だらけのボールだった。そうなのだ。自分はいつだって、自分自身のことしか考えていなかった。今も。これまでも。
「あの、先生?」ふと、ウドが顔を上げる。
「うん?」
「モンスターボールの構造、分かりますか?」
「構造?」
「もし、分かるなら……教えていただきたいんです。ワタシ、今までずっと、みんなに負担を強いてきましたから。もっとちゃんとしたボールを作って、少しでも快適な場所で過ごしてほしいって……先生と話していて、そう思ったんです」
「専門ではありませんが……まあ、でも、なんとかなるでしょう。分かりました! それでは早速、ウドさんのもちものと僕のもちものを合わせて試してみましょう」マルバは安請け合いとも取れるいつもの調子でそう言ってのけたが、不意にウドへと向けたまなざしは真剣そのものであった。「だけど、新しくボールを作るのではなくて、今のボールを改良する方向でいきましょう。慣れ親しんだボールの方がポケモンたちも安心するでしょうし……何よりこのボールには、ウドさんの愛情がしっかりと刻まれていますからね」
「愛情……」ウドがオウムがえしをする。
「そう、愛情です」彼はこの上なく優しい微笑みを以て、迷わずそう言ってみせた。「愛がなければ、一人でここまでのものを作り上げることはできませんよ」
 ウドはようやく目を上げ、マルバのことを見た。そこには辰砂の赤が、こちらの心臓の色を写し取ったように二つ、輝いていた。いつもと変わらない、マルバの瞳の色。決心はつかない。けれども、鼓動はたったいま生まれたかのように聞こえた。
「……先生」
「ん?」
「ありがとう……」
 やがて日が暮れると、心臓の音は打って変わったみたいに静かになったにもかかわらず、ウドは眠ることができなかった。辺りは生温い暗やみに包まれていた。とうに夜半は過ぎ、視界は暗く、身の回りの物体はどれも色を持たない黒の塊としか認識できないほどだった。彼女はマルバが自分のために手に入れてくれた、以前使っていたものよりもずっと分厚い毛布の中に身を隠して、その隙間から彼と一緒に改良した六つのボールを見るともなく見ていた。チコリータはボールに入るのを嫌うため、すぐそばですやすやと寝息を立てている。
 マルバはウドの背中側で眠っており、疲れているのだろう、それは静かなものだった。彼女は眠れない頭をそっと毛布から出して、人ひとり分の隙間を空けた先で眠っているマルバのことを見た。闇に呑まれて、姿形が分からない。
 ウドは再び相手に背を向けると、少し瞼を閉じた。暗かったので、目を開ける。それでもまだ暗い。チコリータはどこだろう? 手を伸ばすが、掴んだのは空だった。チコリータがいない。いない。いない。いないいないいない。何故。何故? 何故! 無我夢中で走った。母に助けを求めるが、彼女ももういなかった。父に許しを請うが、彼に声は届かない。神に希うにも、神はそこにいなかった。わたしには見えなかった。在るのは、空の台座だけ。ならば。ならば、なんでもよかった。チコリータに再び会わせてくれるのならば、それが天の使いでも、地獄の魔の手でもなんだって構わなかった。自分がどれだけ穢れた存在になろうともどうだってよかった。それ以外にたいせつなものなんて、わたしにはなかった。誰もわたしの言葉に耳を傾けなかった。誰もわたしの宝物を認めようとしなかった。父でさえ、家族を、家族と呼んでくれなかった。わたしの家族に、石を投げられた日だってあった! だから。だから、一人でやるしかなかった。広く美しい空の下、一人、洞穴の闇をもがき続けた。十年。一人。十年。構わなかった。家族が……チコリータが戻るなら。一生ひとりだって、構わなかった。
 瞬間、横たわっている地面がすっかりなくなる感覚がして、変な音の呼吸と共に目が覚める。夢を見ていた? いや違う。現実だ。紛れもなく現実……
 結果、チコリータは戻った。わたしの力ではないけれど、わたしのところに戻ってきてくれた。事実だ。わたしはそのために、罪を犯した。それも事実だ。それらはすべて過ぎたことで、覆すことのできない真実だった。ここにチコリータがいて、わたしは罪を償いながら生きる。チコリータがいる。いてくれる。それだけでいい。それだけいいと、あんなに思っていたのに。
 涙の流れる意味が分からない。嬉しさのために泣くべきなのに、これがそれ以外の感情で流れていることだけは確かだった。頭が痛い。全部過去だ。誰もわたしの言葉に耳を傾けなかったことも。誰もわたしの宝物を認めようとしなかったことも。父でさえ、家族を、家族と呼んでくれなかったことも。わたしの家族に、石を投げられた日があったことも。この十年は全部過去だ。覆らない。変えようがない。どうしようもない。わたしは結局、わたしのことばかりだ。どうしても涙が止まらない。胃の中の腐ったものを吐き戻すときのような、酷い声が出そうになる。目を瞑る。身体を縮めて、丸くする。多少ましだ。まだ頭が痛い。眠らなければ。眠らなければ、働けない。罪を償えない。
 冷えた瞼を擦り、目を開ける。毛布の隙間から、六つの丸い塊が見える。ウドがほとんど無意識にその中の一つへと手を伸ばそうとしたとき、けれどもそれよりも早く何かあたたかいものに包まれる感触がして、ウドは息を止めた。なんだろう、と思うことはなかった。振り向かずとも分かった。これは体温だった。大きくて優しい、マルバの。
 ウドの胸は高鳴らなかった。代わりに、堪えようとしていた涙が再び溢れ出していた。好いた相手に抱き締められて彼女がまずはじめに感じたのは、深い悲しみだった。これまで感じてきた悲しみのすべてが、マルバの体温のあたたかさによって外へと止め処なく流れ出していくのをウドは感じていた。彼女は泣いた。膝を抱いて泣きじゃくる幼子のように、けれども声を殺して泣いた。声を上げて泣いて、彼が離れていくのが怖かった。しがみついて泣いて、彼が去っていくのが怖かった。だから、動かなかった。動けなかった。朝になったら遠ざかっていくあたたかさを背に感じながら、ウドは自分の心臓を握り締めていた。
 彼女は自分の中から溢れ出す悲しみの波の底で、一つの決心をした。それはもう一つの悲しみでもあった。ウドはうっすらと瞼を開ける。この夜が開けたら。明日。朝になったら、全部言うのだ。この人に、全部、何もかも。それがどんなにおそろしくても、どんなに悲しい結末になるとしても、言うのだ、必ず。この人に。この、優しい人に。この人がくれたあたたかさのおかげで、もう、冷たい風も大丈夫だから。
 それでも、今だけは。
 そんなことを考えて、彼女はその濡れた瞼をそっと下ろした。



20240212 執筆
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