祈るために瞼は白いの


「ウドさんはここが好き?」
 マルバがそのようなことを問うたのは、バハギアの西端に位置する冀望の花園、そこからほど近い祈りの家での礼拝をウドが終えたときだった。
「ワタシ?」
「うん」
「どうだろう……」
 相手の質問に、ウドは不明瞭な思いを自身のまなざしに乗せ、ゆっくりと遺跡全体を見回した。灰白色の天井に、それと同じ色をした壁と床。遺跡の中心には舟型をした台座が設えられており、その二つの凹みにはやはり二つのガラス玉が備わっている。バハギアで広く見付かり、おまもりすいしょうと呼ばれるこのガラス玉を、いつ誰がそこに填め込んだのかは定かでなかったが、人が祈りを捧げるたび、内部に柔らかな白い光を宿し、舟の台座はこの透き色の球体を乗せたままゆっくりと左右に動くので、そのさまはまるで音のない海に揺蕩ういかだのごとくだった。祈りと呼吸ばかりが満ちる静かな水面。人里離れて、思想もなく、ただ唯一自分自身としてバハギアに祈りを捧げることのできる空間。自分一人だけが乗っている、わずかに自由で微かに孤独な、方舟のような場所……
「どうだろう」ウドは再度言いながら、頭に未だ巻かれた包帯を触った。「でも、ここは静かで……なんだか、心が落ち着くんです。昔から」
「昔から?」
「ムラの近くにも祈りの家がありますから」呟き、彼女はほとんど無意識に足元のチコリータを見た。「そこがバハギアで一番大きな遺跡なんですよ」
 それを聞くと、マルバは考古学者らしく興味深そうな顔をしてウドのことを見たが、そこに映る彼女の睫毛があまりにも祈りの角度に伏せられていたために、何事か問おうとした自身の唇をそっと閉ざした。一方ウドはそんな相手の視線を感じてはっと目を上げ、マルバの方を見ては何やら思い至ったふうの笑みを浮かべてみせる。
「そういえば……先生は考古学者様、でしたね」言って、ウドが口の前で両手を合わせた。「やっぱり、この場所にも興味がおありですか」
「もちろん。バハギアの歴史にはずっと関心があったから、今こうしてこの地方の歴史的遺構を目の前にできているなんて夢のようさ。数年前の自分が聞いたら感動で涙するだろうね。だけど……」
「だけど?」
「この場所のことを、無理に暴くようなことはしないと約束します」マルバの声音は優しかったが、まなざしは驚くほど真っ直ぐだった。「ここはたいせつな場所、なのですね。バハギアにとっても、ウドさんにとっても」
「先生……」
 ウドはいつの間にか胸の前で両手を組み合わせていた。そうして彼女は遺跡の壁に描かれた紅白色の長蛇の姿を目に映す。バハギアの母と呼ばれ、その呼称の通りこの地方において最も敬愛と畏怖を集める伝説の存在──エニシデシアの写し絵を。
「確かにここは、バハギアにとってかけがえのない場所です。歴史ある、神聖な……」彼女は深く呼吸をした。「でも、だからといって遠慮をするような場所でもないとワタシは思うんです。調べたいことがあれば調べて、聞きたいことがあれば聞いて──それでいいんじゃないか、と。だってここは、祈りのですから。アナタにとっても、ワタシにとっても」
「僕にとっても?」
「ここは元々、エニシデシア様のための祈りの家。エニシデシア様は縁を司る御方……きっと、先生の来訪をお喜びになると思います」それからウドは目を上げ、マルバの方を見た。「ワタシも、先生がバハギアに来てくださって嬉しい」
 本心だった。紛れもなく、心からの。言葉にすると、胸の中の絡まった糸が解けていく感じがして、ウドはほっと息を吐く。先ほどまで揺れていた舟の台座は、もう動きを止めていた。壁に描かれたエニシデシアがこちらを見ている。その手に持つ球体が、自分の心の何もかもを見透かすような透き色をして輝いているのを、ウドは言葉なく感じていた。
「……今より昔。もっとずっと昔は、こんなふうじゃなかったんですって」
「こんなふう?」マルバがオウムがえしする。
「ワタシたち。人とポケモンの関係」
 そう言うウドの声はごくごく静かなもので、それはおよそ、湖に落ちた一滴が生み出した波紋だった。いずれ音もなく岸辺に吸い込まれるであろう薄い波。それからふと、空気を含んだ泡が水面から顔を出すように、彼女はマルバの瞳を見た。或いは、そのどこか懐かしさを覚える辰砂の色そのものを。彼自身が考古学者であるためだろうか、マルバの瞳には何か、遙かなる過去を想起させる寛容さと深さがあった。
「昔……すごく、昔のこと」ウドが足元に寄り添うチコリータを見る。「ワタシたちはみんな一つだったそうです」
「一つ?」問いかけるマルバの声は優しい。
「人とポケモンと、それ以外の声を持たない命たち──バハギアの自然。ワタシたちはみんな一つのタマゴの中にいて、いつでも共に在った」彼女は胸元の辺りで指の腹同士を合わせ、両手で円の形を象った。「外国との大きな戦いがあったときも、一緒に力を合わせて戦っていた。バハギアを守るために」
「……古代バハギア王国の自衛戦争だね。それはそれは長い戦いだったと、イッシュ地方の文献にも残されています」マルバは遺跡内部にぐるりと目を走らせ、それからウドに視線を戻す。その瞳には識者特有の夕暮れが宿されていた。「千年以上前のことだから、バハギアは今よりもずっと、他国から見て未開の地だった。自然豊かで資源も豊富に見え、他国にして見れば宝の山のように見えたのでしょう。武器を携えて攻め込んできた敵国に対し、文明が未発達だったバハギアは多大なる犠牲者を出すこととなった……」
 ウドは頷いた。「でも、それでも、バハギアはなんとか勝ちを得た。みんなで力を合わせて、バハギアを守りきったんです。そんな戦いの結果、エニシデシア様は力を使い果たしてお隠れになってしまったけれど……」
 そうして彼女は目を伏せると、円の形にしていた両の手をきゅっと組み合わせ、再び舟の台座に向き直って跪いた。それから瞼を閉じ、息を深く吸い、想像した。バハギアの抱える傷痕──戦争の記憶を。突然に襲い来る暴力の恐怖、居場所を無慈悲に奪われていく絶望、その中で立ち上がる勇気と、それに応えてくれたポケモンたちからの信頼、そうであっても失われていく命たちの痛み、戦いで疲れ果てた身体と心、傷付いたバハギアの命らを癒やすため、身を挺して祈りを捧げたエニシデシア……彼女は想像し、いま一度祈った。自分の生が、かつて命を賭してこの地を守ってくれた人とポケモンと自然、その三つが揃って初めて成り立っていることを知っていたから。
「……だからワタシたち、こうして祈っているんです」ウドは祈りの手を自身の額に押し当てた。「再びまた、エニシデシア様に出逢えることを願って」
 そんな彼女の祈りに呼応するかのごとく、台座の舟がもう一度揺れ動き出す。ウドは目を閉じていたのでその動きを肉眼で見ることはなかったが、それでも気配から方舟が静かな海に揺蕩うさまを感じていた。やはり、静かだった。彼女は自らの呼吸がより深くなる感覚がした。凪いだ海を漂う方舟、もしかするとそれは、祈る者にとっての揺籃だったかもしれない。波立つ心を、そっとあやしてくれる穏やかなゆりかご。ウドは台座が揺れる速度で、ゆっくりと睫毛を上げた。少なくともウドにとって、祈りとは安寧だった。
 彼女は立ち上がり、息を吐く。気が付けば、マルバが隣に立ってこちらを見ていた。いつもそばにいてくれるチコリータがそうするように。けれども、不思議なまなざしだった。微笑みに近いが、それとは少しばかり異なる、ウドが受けたことのないまなざし。ゆえに、彼女はどういう顔をするのが正しいのか分からなかったが、その疑問を抱くより先にマルバが今度は真実微笑みを見せたので、つられてウドも小さく笑んだ。そうして彼女は、視線を下ろした先にいるチコリータを目に映す。
「今のバハギアは、とてもそんな歴史があったようには見えません。人とポケモンが心を通じ合わせ、共に戦っていたようには」言いながらウドはチコリータの隣にすっと片膝を突き、彼女のことを優しく抱き上げた。「今の人は、ポケモンのことを神聖なもの──エニシデシア様の御使いであると考え、互いに触れたところから不浄の者になるのだとして、必要以上に人里から遠ざけています。ポケモンと共に在る人々の多くは涜神者として見られ、そのポケモンも不浄の存在であると忌避されている。不浄となったポケモンは争いの火種となり、バハギアに災厄をもたらすと考えられ、一度穢れたポケモンは人や自然の力では浄化できないので、エニシデシア様に捧げて今一度輪廻の輪に戻るしかない、と……」
 そう語る彼女だったが、最後の方ではその声の震えを隠し通すことができなかった。恐れのためである。ウドは今より幼い頃、よくこういった言葉を口にして父に「罰当たり者」と頬を打たれていた。けれども彼女が恐れていたのは、父に罵倒されることでも、ムラの中で異端者扱いされることでもなかった。腕の中のチコリータを抱き締めると、彼女はウドを心配してか頬をぺろりと舐めてくる。ウドは恐れていた。思い出していた。たいせつな存在──チコリータを失う恐怖を。
 チコリータを抱き締めるウドの手に、相手の体温が伝わってくる。それは徐々に彼女の心身をあたため、再び言葉を発する活力になった。
「でも……みんな、ポケモンとの絆があったことを、それを証明する歴史があることをすっかり忘れてしまったわけではないと思うんです。古代バハギア戦争はバハギアにとって大きな出来事でしたし、今のバハギアにも少なからずポケモンつかいの方はいますから」ウドは目を上げ、壁画のエニシデシアを見た。「ただ、ワタシたち……きっと辛い記憶から目を逸らす内、祈りばかりに縋る内に、ポケモンという存在から手を離してしまったんだと思います。まるで、戦いの痛みに蓋をするように」
「……歴史の中でも嫌なものですからね、戦争の話というのは」マルバも彼女と同じところを見ていた。「戦い自体は終わっても、その傷は何世代にも渡って残り続ける」
「だけれど。ワタシ、思い出してほしいんです、古代バハギア戦争と同じ争いを生まないためにも。思い出してほしい……ポケモンがワタシたちのはじまりからずっとそばにいてくれたことを。今だってそれは変わらないことを。変わってしまったのは、ワタシたちの方であることを」ウドがチコリータの背を撫でる。「ポケモンとの絆──それが戦争という辛すぎる記憶に埋もれてしまうのは、あまりに悲しいことだから」
「そうですね。……歴史とは、きっとそのために残されているのですから」マルバの声は染み込むように静かだったが、それでいて確かな響きを相手に与えるものだった。「この遺跡だって」
 ウドはこくりと頷き、その場から立ち上がった。チコリータはまだ彼女の腕の中に収まり、時折その傷痕のある顔を元気付けるみたいに舐めていた。言葉を失うと辺りは相変わらず水を打ったように静かだったが、マルバとの間に気まずさは不思議と感じられなかった。場を明るくするための言葉も、相手を気遣うための言葉も、今は必要ない気さえした。
「ウドさんは」
 そんな中、マルバがウドの名を柔らかく呼んだので、彼女は不意を突かれて驚いた。
「えっ?」
「やっぱり、優しい人ですね」そう、確かめるように彼が呟く。「それに、とても強い」
「え? い、いえ。ワタシ、そんな……」
「もしかすると、自分の良いところというのは自分自身では中々気付けないのかもね」マルバはウドの反応にくすりとした。「……でもね、ウドさん。君はきっと、君の思うよりも新しい目で広く見ているんですよ。君は素晴らしく先進的な女性で、これからの時代には必ずウドさんのような人が必要になってくる」
 そう話すマルバの声はこれ以上ないほどに優しいものだったが、同時にとてもはっきりとした声音であり、それはまさしく自分が発している言葉に一片の疑いも感じていないことの証明であった。
「でも、ワタシ、昔の話をしているだけで……」マルバの声がもつ輪郭の確かさに、ウドは少しばかり狼狽する。
「それもまた、君の持つ力の一つなんですよ。僕はもちろん、君のそういうところがとても魅力的だと考えて──いてっ、ほら、チコリータもそう言っていますよ!」
 マルバの言葉の途中で突如としてチコリータがウドの腕から飛び出し、その勢いでいきなりマルバの腕を自身の葉っぱでぱしんとはたいてみせたので、ウドは心底仰天し目を白黒させた。彼女は慌ててマルバに謝りチコリータを窘めたが、チコリータは口元をつんと尖らせているばかりで特に反省の色がない。しかも、チコリータからマルバに対する敵意や悪意も感じられないのだ。もしかしたらじゃれつきのつもりだったのかもしれない、とウドは問うてみたが、その質問に対してチコリータは更に機嫌を悪くし、自身の口を尖らせるだけだった。いよいよウドの中で謎が極まり、困り果てた彼女はもう一度マルバに謝罪したが、彼は彼で何やら訳知り顔で朗らかに笑うのみだった。
「ポケモンつかいと、そう呼ぶんだね」それからややあって、祈りの家を後にしつつ、マルバがしみじみと呟く。
「あ……イッシュ地方では、その──ポケモンを育てる人のこと、もっと違う呼び方をするんですか?」
「トレーナー」
「と……?」
「ポケモントレーナーと、そう呼ぶんだ」彼はウドに振り向き、どこか誇らしげに笑ってみせた。「僕らは一緒に強くなるものですからね」
 この言葉に、ウドは何か、水面から顔を出した泡がぱちんと割れるような思いがした。ポケモントレーナー。人とポケモンは、一緒に強くなるもの。それらの言葉は彼女の心に甘い衝撃をもたらし、そしてウドはどうしてか、幼い頃よく登った高木の上で、星影連峰や神風山、終雪の大山などの遠く美しいバハギアの山々を眺めた記憶が胸に蘇るのを感じた。彼女は今、マルバの言葉を通じて広い世界を目に映していた。
「ポケモン、トレーナー」めいっぱい息を吸い込んだ後、ウドはそう笑った。「それってなんだが、素敵な響きですね」
 最後にマルバから聞けたのがこの言葉で良かったと、そのときウドは心の底から思っていた。彼女があの崖で怪我を負ってから、二週間と数日が経っていたためである。彼女自身、自らの怪我がもう完治に近い状態であることにはとっくに気が付いていた。そして、それに対して喜びではなく深い落胆を覚えていることを、どうしようもなく恥じてもいた。
 その夜、マルバがウドの包帯を解きながら「もう大丈夫そうですね」と微笑むのを、彼女はぼんやりと聞いていた。礼を言ったのかすらも分からなかった。ただ、次にやってくるであろう別れの言葉に備えて、心を強く保とうとした。
 けれども、いつまで経ってもマルバから別れを切り出す言葉は発されなかった。目を上げると、汚れた包帯を片付ける姿が視界に映り、そんなこちらに気が付いた彼は振り返っていつものように微笑むばかりだった。ウドも微笑み返した。彼女も何も言わなかった。何も言えなかったのではなく、言わなかったのだ。心がまだ、マルバと離れたくないと言っていたから。
 それから彼女は床につく前、両手を組み合わせて、胸の辺りでぎゅっと祈った。エニシデシアに、バハギアに祈りを捧げながら、彼女は眠った。それはほとんど懇願であり、懺悔でもあった。
 そう、ウドは少し、自覚をしていた。己がこの男に、恋をしはじめていることを。



20240107 執筆
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