歌はいつだって宙を舞うのさ


 雨上がりに山地を覆う霧のような薄明るさを感じて、ウドは目を覚ました。
 しかしながら、わずかに瞼を開けた彼女の視界へ飛び込んできたのは肌に纏わりつくあの白っぽい空気ではなく、日の出と共にあたためられ、テンマクの布越しに差し込んでくる薄明光線の切れ端であった。ウドの目に映る色合いはぼんやりとした柔らかさとぬくもりを保ち、そして彼女はそれと似たふうの感触を全身にも感じていた。不思議に思って腕を少し動かせば、何やら肌触りの良いものが手の甲を擦り、じきに彼女はその正体が厚い毛布であることに気が付いた。自分の肩のすぐそばで、それよりもずっとあたたかな存在が寝息を立てていることにも。
「チコさん……」
 ウドがそう呟くと、彼女の肩を枕にしているはっぱポケモンは微かに身を捩って、それでもすやすやと心地よさそうな寝息を立てている。まだまだ起きる気はないようだ。そんなチコリータをしばし眺めたのち、ウドは身を起こそうと腹に力を込めたが、その瞬間全身にのしかかるずっしりとした重みとずきずきする頭の痛みを感じて、思わずうっと呻きを洩らす。
「ああ──ウドさん!」瞬間、テンマクの中が優しい声の響きで充ち満ちる。「よかった、目が覚めたんですね」
 ウドは声の主を見た。誰だろう? 霧がかかっているのは周りの風景ではなく、自分自身の記憶らしかった。数回瞬きをする。そうする内に、頭の中を覆っていた霧が徐々に晴れていくのを彼女は感じた。赤い瞳に青い髪。マルバだ──異邦の考古学者でポケモンつかいの。
「せんえ」ウドは上手く声が出ず、しきりに噎せ込んだ。「先生……」
「ああいや、そのままで大丈夫」マルバが起き上がろうとする彼女の隣に跪きつつ言った。「どこか辛いところは?」
 ウドは首をゆっくりと左右に振り、どうにかこうにか上半身を起こして笑んだ。それから彼女はマルバが今しがた入ってきたテンマクの出入り口の方を見やり、その網目織りの隙間から漂ってくるなんとも食欲をそそるにおいに、ふと、
「……先生……ごはん、食べられましたか」
 と、そう問うた。この突飛にも聞こえる問いかけにマルバは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、ウドの視線が彼女自身の鞄に向いていることに気が付くと、心配ご無用とでも言うようににっこりとした笑顔を見せる。
「アハハ、こんなときまで僕の食事の心配をしてくれるとは、ウドさんは慈愛の心に満ちていますね!」彼は穏やかな笑い声を立てて言った。「僕たち、、は大丈夫。もちろん、君のチコリータや、他のてもちたちもね」
 ウドはその言葉に導かれるように、隣で寝息を立てているチコリータを見た。それからマルバのことを。慈愛に満ちているのは彼の方だと、そう疑いなくウドは思った。マルバみたいにもの柔らかなまなざしをポケモンに向ける者を、彼女は知らなかった。ムラには存在しないまなざし──ときわたりの彼女ともまた異なる瞳だった。ポケモンを見つめる彼女の目はいつだって強固で揺るぎのないものだったから。そう、決して千切れない輪のように。
「……それよりウドさんは大丈夫かい?」ぼんやりとした表情のウドに対して、マルバが問いかける。「すごく高いところから落ちた様子だったけれど──ウドさん、覚えていますか?」
「あ……」ウドは思い至ったように睫毛を伏せ、毛布の上に力なく投げ出していた自身の両腕を見た。その手の中にはまだ微かに、死の感触が残っていた。「ワタシ……はい、覚えています」
 彼女は片手を毛布に擦り付けると、それにもう片方の手を重ね、身体の重みとこめかみの痛みの原因についてしばし思い返した。寒い崖の下──折れた枝が鳴らした単調な死の音色──刻一刻と熱量を失っていく空……
「ワタシ、また先生に助けられてしまいましたね」
「──いいや」マルバはかぶりを振る代わりに微笑んだ。「君を助けたのはサクソールたちだよ」
 ウドはこの思いも寄らない言葉を聞いて、記憶の中で見上げた、崖の上に立つしんかんポケモンたちの輪郭がぱっと光に照らし出されたのを感じた。「サクソール?」
「僕はただ、君を見付けただけさ。君のことを助けたのはサクソールだよ。彼らが僕に知らせてくれたんだ」眼鏡の向こう側で光る彼の赤色はどこか感慨深げで、その光景を未だありありと覚えているといった様子だった。「……いやあ、崖下で動かない君を見付けたときは、さすがに肝が冷えました!」
 それを伝えるときでさえマルバの声音はどこまでも明朗で、ウドを不安にさせることがなかった。彼女はあのとき助けたトルファが無事と知って胸を撫で下ろすのと同時に、
「先生が見付けてくれなかったら、ワタシ、あそこで凍え死んでいたと思います。なので、ありがとうございました」
 と、マルバに心からの感謝を伝えた。そうすると、やはり彼は微笑みを──水の湧き出る泉が日の出の光を浴びたときのような、今までよりも深い笑みを目元口元に浮かべて、ウドに向かって頷いてみせる。
「……目が覚めてほんとうによかった」マルバはそれを言う一瞬だけ表情を失って見えたが、けれどもすぐにあのあたたかな表情を取り戻してウドに笑いかけた。「君はどうやらポケモンに好かれるようですね、ウドさん!」
 虚を突かれた表情をして、ウドはマルバの底抜けに明るい、しかしながら決して冗談でこんなことを言っているわけではなさそうな顔を見た。君はどうやらポケモンに好かれるようですね>氛气Eドは心の鼓膜いま一度この言葉に揺れるのを感じた。それはまさしく、自分がときわたりの彼女に言ったものと同じ言葉だったから。あのとき、彼女はなんと言っただろう? もう覚えていない。ただ、照れたように笑っていた顔だけは覚えている。「ポケモンは」ウドは言った。言葉に詰まった。彼女のように己の想いを迷わず表現することも、喜ばしさに素直にはにかむことさえ、ずっと前から自分には不得手だった。
「ポケモンは」ウドは再度言った。「……みんなが思っているよりもずっと優しくて、人の心に寄り添ってくれるんです。だからきっと、こうしてワタシのことも助けてくれた……と、ワタシは思っていて。……そんなふうに思うのは、やっぱりおかしいでしょうか?」
「いえ、思いませんよ」マルバはわずかに間を置いてからそう答えた。「ウドさんの感じる通り、僕たちの心構え次第で彼らは良き隣人になり得るでしょうから」
「……先生は」
「うん?」
「先生は、ポケモンが好き──なんですね」自分の中で確かめるような声音だった。
「うん……そうだね」その声は、ウドのものよりも明確に彼女の心を鳴らした。「大好きだと、そう思いますよ」
「先生が、もし──」
 彼女がそう喉元までせり上がってきた言葉を口にしようとした瞬間、突如としてよく通るいぬポケモンの吠え声が辺りに響き渡った。マルバのバウッツェルである。二人同時に吠え声のする方を見やれば、テンマクの出入り口の向こう側から、何やら焦った様子で吠え立てるバウッツェルのなきごえが聞こえてくる。どうやらマルバのことを呼んでいるらしかった。なんだかちょっと焦げくさい。
「おや、そういえば朝食を作っていたんだった」それでも、マルバは比較的のんびりとした調子で立ち上がった。「……ウドさん、さっき何か言いかけたかな?」
「あっ、いえ、なんでも!」ウドは慌てて両手を振った。
「そう? 何か気になることがあればなんでも聞いてくださいね」彼はそう首を傾げ、そのついでと言わんばかりにウドへと問いかけた。「ところでウドさん、食欲はありますか? 簡単なスープだけど、食べられそうなら……」
「あ──ありがとうございます、いただきます」
「よかった。それじゃあ急いで準備するよ。味の方はあまり期待しないでもらえるとありがたいんですけど……」
 それからマルバはバウッツェルのなきごえが止まない中、ウドに自分がいま作っている料理の材料──ライス、ほくほくマメ、シイタケ出汁、ラッキーのしあわせタマゴ──を説明し、そのいずれかを食べたことによって体調を崩したことがないかどうかを確かめた。ウドはその材料を聞いて、どうやらマルバの作ろうとしているものがバハギアにおけるブブールに近しいものであることに気付き、思わず「ノメルのみを絞るのも合いそうですねえ」と言っていた。
「ノメルのみ! なるほど、それがバハギア流ですか!」ウドの呟きに、マルバは何故だか歓喜した。「ぜひそうしましょう。せっかくウドさんが採ってきてくれたノメルのみもあることだし!」
 そういうわけで、バウッツェルが痺れを切らして覚えるはずのないだいばくはつを起こす直前、ようやくマルバはテンマクの外へと出ていき、やや焦がした朝食の仕上げに取り掛かりはじめた。そして、朝食の完成を待つ間、マルバはウドの元に顔を洗うための水を運んできては、「もう少しで出来上がりますからね」と優しく笑うのだった。
 ウドは礼を言い、マルバが外に出ていくのを見送ると、桶に張られた水面をそっと覗き込む。
 すると、そこには、枝毛だらけでぼさぼさ髪の貧相な顔つきをした、子どもかも大人かも判然としない女が映っていた。果たして銀と呼べるのかも分からない灰色に近い髪色と瞳が、透明な水の中でゆらゆらと頼りなく揺れている。出立のときよりも随分とやつれてこけた顔を斜めに横断するような深い傷痕が、その生気のなさを助長していた。枝みたいだ、と思った。掴まれれば折れる、中身の空虚な乾いた枝。でも、そこに映るのは紛れもなく、久方ぶりに目にした自分の顔だった。変な顔だ。押し隠せなくなった邪の感情がまぜこぜになって、顔から剥がせなくなっているみたいに。
 顔を背けることは許されない気がした。ウドは指先で桶の水面をぐるりとかき混ぜると、その渦の中にいる女の顔めがけて水を被せてやった。けれども、女の顔はひやみずを浴びた苦痛には歪まなかった。水は温かかった。触れればほっと溜め息の洩れるようなぬるま湯だった。
「──二週間は安静にしていないといけませんね」ややあって、朝食を口にしながらマルバがそう言った。
「二週間……」
「うん、大事を取ってね。急ぐ旅なのですか?」
「いえ、そういうわけでは……でも……」ウドは木製の匙に込める力を強めたり弱めたりする。
「でも?」
「休んでいていいんでしょうか?」
「もちろん」その問いにマルバはぱちりと瞬いたが、間を置かずに即答した。「怪我人、病人はすべからく休養するべきものさ。特に、崖から落ちたような場合にはね!」
 朝餉の粥のにおいに目を覚ましていたチコリータも、そんなマルバの意見には賛成らしかった。チコリータはウドの腰ほどまでを覆っている毛布をぐい、ともう少しまで引っ張ると、彼女がそこから動けないように膝の上へどっかりと鎮座する。二対一(バウッツェルは粥を食べるのに必死だった)。ウドは自分が少数派のとき、己の意見を押し通すのが苦手だった。
「だけれど」戸惑う彼女の心を知ってか知らずか、不意にマルバがこんな提案をした。「どうしてもと言うなら、数日休んだらリハビリテーションも兼ねて少しずつ歩きましょうか。ウドさんが次に向かうのはどの辺りかな?」
「えっ? あ……」瞬間、自分の呼吸が円くなるのを感じて、ウドはこの不思議な感覚に困惑しつつ答えた。「ええと、星影連峰の先に、大きな滝があって……次は、その向かいにある祈りの家に向かおうと思ってます」
「なら、そこを目指そうか」
「ですが、先生にこれ以上迷惑をかけるわけには……」
「迷惑なんて!」アハハ、と笑うマルバの表情は明るい。「素敵なレディの供ができるんだ。むしろ、光栄の至りですよ。それに、君の怪我の経過も見たいし──じつは言うと、ちょっぴり心配なんです。だから……ウドさんさえ良ければ、どうかな?」
「せ、先生がそう言うなら──あの、よろしくお願いします」ウドは粥の器を持ったまま、深々とお辞儀をした。
「よし、じゃあ決まりだ!」
 そう高らかに宣言したマルバはどこか鼻歌でも口ずさむような様子だったが、ウドのチコリータはこの決定に不満を隠せず、ぷうと自らの頬を膨らませていた。マルバはそんなチコリータの態度に「まあまあ、そう連れないことを言わず」と笑って彼女の頬に手を伸ばしたが、その瞬間、思いきりいかくされた──にもかかわらず、何故だか更に笑みを深めて楽しげな様子だった。バウッツェルは相変わらず朝食にとりくむのに夢中で、周りで起きていることなど何一つ気にも留めていない。
 ウドはそんな三人三様で織り成される光景を眺めて、思わず噴き出すみたいにして小さく笑った。少し、自由だった。そう、たぶん、自由を感じていたのだ。彼女は手の中にある器から粥を掬って口にすると、そのやさしい味とあたたかな熱に身体が息を吹き返していくのを自覚した。マルバが焦げていないところを選んでよそってくれたのだろう、苦みは全く感じなかった。ただ、仕上げに絞られたノメルのみが不思議なことに目に沁みたので、涙が落ちて味が台無しにならないように急いで掻き込んだ。そんなことをしたので案の定粥が喉に詰まりかけてしまったが、それでも、
「──美味しいですね!」
 と、ウドは笑った。心の底の、もっと深いところからそう思っていたのだ。マルバが微笑んでいる。身体が、手の先があたたかかった。そこにあった死の感触は、もうどこかへと消えていた。
 それから数日後の朝、ウドがマルバの「ウドさん、お客さんみたいですよ」という声に従ってテンマクを出ると、そこには一体のトルファが中の様子を窺うようにして待っていた。
「もしかして、キミはあのときの?」ウドが地面に膝を突きながらトルファにそう問うた。
「どうやらそうみたいだね」嬉しげにからだを揺らすトルファを見て、マルバが笑った。「ウドさんのことが気に入ったのかな」
「ワタシを?」
「うん。君はとても優しい人だから」
 マルバのそんな評価に、曖昧に笑うだけの隙をウドは与えてもらえなかった。と、いうのも、トルファが何やら美しい歌声を響かせながら、突然にどこかへと駆け出したからである。去っていく小さな背に短い再会だったな、とウドは感傷に浸ろうとしたが、しかし二人が自分を追いかけてこないことを悟ったトルファが、うたうのを一度止めてちらりとこちらを振り返る。
「ひょっとすると、祈りの家までの案内をしたいのかもね」マルバが名推理! とでも言うふうに人差し指を立てた。「ついていってみようか、美しい歌声に誘われる旅人のように?」
「は──はいっ」返事をしながら、ウドはすでに歩きはじめていた。
「ゆっくりね」そう相手を見やりながら、彼はのんびりと一歩を踏み出した。「全部、ゆっくりでいいんですよ」
 しかしながら、そんなマルバの言葉を無視したバウッツェルが弾丸のごとく飛び出し、トルファという新たなる友だちをめがけて駆け抜けていく。このいぬでっぽうに驚いたトルファがその場でとびはねたので、チコリータがつるのムチでバウッツェルの動きを封じた。ウドは眼前でくり広げられる自由奔放な世界に目を丸くしたが、すぐそばからマルバの笑い声がしたので、やはりまた我慢できずに笑みを洩らしたのだった。
 今日の夜明けは、彼女がこれまで生きてきた中で最も足の進みが遅いものとなった。それでも、足取りは軽かった。彼女がこれまで生きてきた中でいちばん。
 そんな、不思議な朝だった。



20231217 執筆
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