世界はあなたに生まれ変わった


 ガラス玉が割れるような音だった。
 ずっと、死の入り口を見つめながら生きてきた。底知れない穴の前に立ち、生ぬるい風を浴びながら、その果てに待ち受けるもののおそろしさを想像しては夜を送る日々だった。それでも、不思議と震えは来なかった。毎夜鼓膜をわんわんと揺らすのは愛するものを喪った絶望や命の輪を乱す禁忌に対する恐怖心ではなく、いずれ再会できることへの喜び、そしてその期待に対する焦燥感ばかりであった。それは最早使命感ですらあった。
 だからこそ、容易かった。
 ほんとうに簡単だった、と思う。自分が追い求めてきた存在ともう二度と会えないと分かったとき、再会を果たせないと理解したとき、これまで自分が耐え忍んできた出来事が、必死に積み上げてきた行動が、心臓を握り潰してでも浮かべてきた笑顔が、縋った藁が、すべて、まったくの無意味だったと痛感したとき、わたしという球体は目の前の暗く深い穴に落っこちて、それは驚くほど呆気なく砕け散った。ガラス玉が割れるような音だった。築き上げてきたわたしという存在の脆さと、落ちるということの容易さに、笑いさえこみ上げたものだった。けれども、やはり、恐怖はなかった。そしておそらく、あのときのわたしを突き動かしたのは怒りでもなかった。あえて言葉にするならば、絶望だった。或いは諦め。ここにいることに対する、わたしとして生きていくことに対する諦めだった。あの日、あのとき、あの瞬間、事実上ヒノデムラのウドは息を引き取ったのだ。
 結局のところ、わたしは邪悪だった。奈落の底に叩き付けられたとき、わたしは空を仰がなかった。その瞬間、わたしの中の神は死んでいた。わたしは地面を見たのだ。足元の闇を見た。そこで輝く、わたし自身の欠片を目にした。そして這いつくばり、そのガラス片の一つを手に取った、血を流してまで。そうまでして選んだものの名は、「ヒノデムラのウド」という空の器にわたしが入れたものの名は、破壊と言った。破壊! わたしは持てる力のすべてを振り絞って、最後にそれを選んだのだ。それが答えだった。紛れもなく、それこそが「わたし」だったのだ!
 正直、あのときのわたしがどのように振る舞い、どのような言葉を口走ったのかはよく覚えていない。ただ、強烈な願いが二つあったことだけ覚えている。はじめに、おぞましいこの世界をすべて凍り漬けにしてしまおうとわたしは願い、それから次に、愛する彼女がこの世界にわずかでも未練を遺さないよう、何もかもを燃やし尽くしてしまおう、そう願った。かつて降る星によって種を絶やしたというポケモンたちと同様に石となって凍り、地中で静かな春の訪れを待つのだ。人よりもポケモンのことを正しく愛せる種族の訪れを。いや違う。ほんとうは違う。もう眠りたい、とただそう願ったのだ。他でもない、このわたし自身が! だからやはり、わたしが願ったのは破壊だった。何よりも傲慢で、何よりも身勝手な破壊。
 わたしの独り善がりな願いが、愚かな妄執が、あの不思議なときわたりの旅人の手──まるでポケモンが当たり前の隣人であると宣言するように築かれた信頼関係と、その強い絆によってくり出される、現実離れした戦闘技術──によって幸運にも打ち砕かれたとき、わたしは心のどこかでそれを望んでいたのにもかかわらず、笑えなかった。実際、気は変になっていた。旅人は──彼女は、わたしの望むものをすべて持っていた。けれど、わたしは多くを望まなかったはずだ。ただ、あの子が……チコリータがそばにいてくれたならそれで良かった。チコリータの隣人として過ごせたなら、誰に認められなくともそれだけで良かった。わたしにはそれすらも許されず、彼女は博士から譲られたポケモンを抱いて、たくさんの同胞たちと共に原野を駆け回り、偉大な功績を無数に残した。わたしという邪悪を下すことにも成功した。彼女は認められ、もう誰も彼女がポケモンと共に在ることを咎めたりはしないだろう。彼女は正真正銘のポケモンつかいだった。彼女こそ、わたしが望んだ、正しくポケモンを愛せる新たな種族だった。わたしが──なりたかった──種族だった。わたしと彼女では、一体何が違ったのだろう? 生まれだろうか、それとも才覚、或いは努力の差? 答えは明白である。彼女は強く、善だった。わたしは弱く、そして悪だった。
 虚ろだった。
 虚ろだ。彼女はそのポケモンつかいとしての力を以て、わたしという浅はかで愚かな人間まで救った。戦いの後、ほとんど廃人と化したわたしを慮って、旅人は再び広大なる大地を奔走した。そして数日後、彼女に手を引かれ赴いた祈りの家にて、わたしは再会を果たしたのだ──チコリータと。死したと思われたチコリータは永いあいだ異空間を彷徨い、旅人が邂逅したというバハギアの母・エニシデシアの御手によって在るべきところに戻ってきたのだ。わたしが十年かけても叶わなかったことを、彼女はやってのけた。それもたった数日で。心の底から嬉しかった。これ以上の僥倖はないと悟った。けれども同時に、虚ろだった。今も。わたしは自分がもう、何を考えているのか分からなかった。喜び、虚しさ、安堵、脱力感、自責、悔恨……様々な感情がないまぜになって、気色の悪い鈍色と化していた。わたしは悪だ。わたしは彼女に嫉妬し、心の中で責め立て、そしてついには彼女のことを傷付けた。それでも、彼女はわたしを責めず、ただ微笑んでこちらの望みを叶え、手を差し出した。厚顔無恥にも、わたしはその手を握って、感謝と謝罪を述べた。誰もそんなわたしを責めず、誰もわたしを罰しなかった。つまり、わたしを罰せるのはわたしだけだった。あのときわたしがすべきは、わたし自身を罰し、チコリータを彼女に託すことだったのだ。わたしはとっくに、チコリータに相応しい人間ではなくなっているのだから。或いははじめから。
 ムラにはもういられなかった。もう誰の顔を見て話すこともできなかった。ゆえに、贖罪の旅に出る、という名目でわたしはムラから旅立った。旅人の彼女はいつかまたときわたりをして、元の時代へと帰っていくのかもしれない。だから、これが今生の別れであると、そう思って精一杯の感謝を込めた「さよなら」を言った。そこが最後の機会だった。チコリータを彼女に託せる機会はここしかなかったのに、わたしにはまたしてもそれを成すことが出来なかった。
 だから。
「──バウッツェル、じゃれつく!」
 だから、これは罰なのだ。
 そう思っていた。けれど、その罰が当たる前に、わたしの前に立ちはだかり、いとも簡単にそれをはね除ける人がいた。なんの混じり気もない驚きが、自分の中で音を立てて弾ける。それはまるでガラス玉の割れるような音でありながら、しかし今まで一度も聞いたことのない響きをしていた。
「大丈夫ですか、お嬢さん?」
 そのとき、わたしは初めて顔を上げたのだ。あの日から、初めて。
 見上げた視界の中に、こちらの心臓の色を写し取ったような瞳が二つ、輝いていた。



20231112 執筆
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