やがてふたりは星の名になる


 太陽が輝いている。
 絶え間なく降り注ぐ春の日光は、まるで透き通ったまっさらな薄布が、大自然の彩りを吸い込みながらひらひらとこちらに舞い降りてくるようであった。柔らかく純真なその光を一心に浴びるバハギアの大地は、どこか神秘的な色合いを見せて、それは画家の描く夢まぼろしにも通じる美しさを帯びていた。
 そして、そんな陽の衣を身に纏うかのごとく、ウドは丘の上に立っていた。紅焔台地の小高い丘の上から見下ろすと、太陽光をめいっぱい浴びた草原が風に揺られて、黄金色の絨毯みたいだった。風が吹いてくる方角に、門の開かれたヒノデムラの姿が見える。無論、ここからではムラ内部の様子までは窺い見ることができない。しかし、それでも、ムラの出入り口ががやがやとして、以前よりも人の出入りが増しているのだけは察することができた。きっと、イズが村長として指揮を執るのを再開したのだろう。ムラはウドが滞在していた頃より活気付いた様子だった。
 傍らに、小休憩でもしにきたのだろうシピーがすとんと降り立つ。こちらに気付いているのかそうではないのか分からない様子のまめひよこポケモンに、ウドが「こんにちは」と声をかければ、シピーは首を傾げるようなまなざしでしばらくこちらを見つめたのち、羽をはためかせ、新緑のからだにたっぷりとした太陽光を浴びて飛び去っていく。
「──ウドさん。本当にもう良かったの?」
 そう問いかけるのは、彼女の夫であるマルバだ。二人はヒノデムラでの婚儀を終え、再びムラを旅立っていた。草原を撫でるように揺らす風にも似た彼の声に、ウドは振り返って丘を駆け下りる。坂道で勢い付いて相手の胸にどっと飛び込む彼女を、マルバが笑いながら受け止めた。
「うん、いいの」そんなマルバの腕の中でウドが微笑む。「お父様もワタシを信じて送り出してくれたから」
「そっか。そうだね」彼は頷き、ウドの少し乱れた前髪を直しながら言った。「それじゃあ、もう少し歩く? それとも昼食にしましょうか?」
 夫の問いかけに、ウドは眼前の胸板に頭を預けながら「うーん」と唸った。そうしてマルバの腕が背中に回されると、彼女はその確かさに瞼を閉じ、聞こえてくる鼓動の音に耳を澄ませる。ウドはこの世に存在する音の中で、特にこの音が好きだった。彼の身体の強かさとは相反して、どこかことりポケモンのような繊細さと柔らかく流れる水脈めいた穏やかさを併せ持つ、祈りみたいなこの音のことが。
 目を開ける。すると、足元に集っている愛らしい瞳たちと視線が合った。二人の会話を聞き付けてきたチコリータとバウッツェルが、期待を込めたまなざしでこちらを見つめているのだ。そんな二匹の様子を見てウドは思わずくすりとし、
「それじゃあ、お昼ごはんにしましょうか」
 かくしてウドたちは気持ちの好い青空の下、昼食を摂ることにした。本日の献立はマルバたっての要望で、ウドの特製ブブールということになった。ノメルのみを隠し味に、さっぱりと味付けしたこのブブールは、ウドとマルバが出会った日に、彼女が助けてもらったお礼として作ろうとしていたものである。旅の中で何度も作ったものではあるが、こうして改めて料理するとなんだか感慨深く、胸の奥がじんとする気持ちがした。ウドは家を出るときに持ち出した、生前母が気に入ってよく使っていた大鍋をぐるりとかき混ぜて、それを温める火の色にあの日の夕焼け空のことを想った。
「あの親子は元気にしているかしら」
 そうウドがひとりごつと、飲み水を汲みに行っていたマルバがちょうど戻ってきて、彼女の言葉に首を傾げた。「親子?」
「サクソールとトルファの親子です。ワタシを助けてくれた……」彼女はぐつぐつ言うブブールを見るともなく見た。「ワタシ、あの子たちにまだお礼を言えてないから」
「きっと元気にしていますよ」マルバが微笑む。「それに、君の気持ちだって、ちゃんと彼らに伝わってるんじゃないかな。ほら、彼らはエスパータイプでしょう?」
 口の端をいたずらっぽい角度に上げて言うマルバに少し笑って、ウドは再び鍋をかき回した。「また会えるかな?」
「いつかどこかで、きっとね。互いにそう想い合っていれば、縁は自ずと結ばれるものだと思うよ。僕と君みたいにね」
 なんだか、祈りみたいな言葉だな、とウドは思った。バハギアの民がエニシデシアのために祈りを捧ぐような、そのためにそっと組み合わせた両手のような、白く、そしてわずかにこがね色を帯びた、祈りの吐息を宿す言葉。ウドはマルバとの旅を経て、エニシデシアが何故なんのために命と命の縁を結ぶのか、そのわけをぼんやりとだが分かりはじめていた。
「もし、あの子たちにまた会えたら、そのときはもっとちゃんと話をしてみたい」彼女はそばに寄ってきたチコリータのからだを撫で、気持ちよさそうに赤い目を細める彼女を見て同じように微笑んだ。「そして、こんなふうに……仲良くなって笑い合えるようになったら、いいな」
「僕はね、ウドさん。君にはそれだけの力があると思ってるよ」
「ワタシに?」
「そう。君は僕の自慢のお嫁さんですから」彼はぴしりと人差し指を立てて言った。「……というのは、さしずめ冗談でもないんですが、君と旅しながらずっと思っていたことでもあるんですよ。確か、前に伝えたこともありましたね。君のような人がきっと、これから先の未来には必要となってくる、と。新しい目で世界を広く見る君が──そして何より、志を強く持ち、愛を決して忘れない君がね」
 それから二人は、ボールの中のてもちポケモンたちを外に出して、出来上がったブブールを皆で食べた。チコリータは相変わらず圧倒的なすばやさで一皿目をぺろりと平らげ、ウドに咎められながらも当然のようにおかわりを要求していたし、バウッツェルも顔中に充足感を浮かべながら、尻尾を振りふり、チコリータに負けず劣らずの量を食べていた。ジーランスはそんな二匹を横目にいつも通り食事を終えて辺りをのんびりと散歩し、最近トゲチックから進化したマルバのトゲキッスもそれに付き合いがてら、食べ過ぎて腹を壊しそうなポケモンがいないかどうかを見回っている。ジオドラコとドラパルトは相変わらず正反対の食べっぷりを見せ、食事は黙々とやる派のマンムーとメラルバは、マルバのマリルリと共に鍋を囲んでいる。ウドがそうしているのを見て覚えたのだろう、マリルリは木匙を用いてメラルバの口元にブブールを運んでいた。
 ウドはぐるりと自分の周りを見た。皆、満足げな表情をして笑い合っている。もちろんそこには、夫であるマルバの姿も映っていた。彼は膝の上に布にくるまれたものをたいせつそうに乗せ、ポケモンたちと会話しながらにこにこと好物のブブールを食べている。
「……ワタシ、みんながいてくれてよかった」
 ほとんど無意識に呟いて、ウドは思った。チコリータを取り戻したあの日、ムラを旅立ったあのとき、彼女を手放さなくてよかったと。気が付いたのだ。手放さないままで、よかったのだと。ようやく分かった。彼女の瞳を見れば、それは一目瞭然だったのだ。彼女の目はいつだって、出会ったときから今も変わらず、愛情に充ち満ちた色に輝いている。
「……あの日から、ずっと……」ウドは、母と笑い合う自分とチコリータの姿を想い出していた。「チコさんはずっと、ワタシのことを信じていてくれたんだね」
 その言葉を受けたチコリータが当たり前であるというふうにふんすと息を吐いたので、ウドは目の奥に熱いものがこみ上げるのを感じながら、彼女のことをぎゅうっと強く抱き締めた。そんな相手にチコリータは何が何やら分からずじたばたとしたが、少しすると力を抜き、まるで仕方のない妹のことを見る姉のようなまなざしをして、ウドのことを見つめるのだった。
 それからウドとマルバが手分けして食事の後片付けをしていると、川で食器洗いをするウドの元へ、
「ウドさん!」
 と、マルバが何やら大慌てで駆け付けた。ウドはその顔を見ただけでぴんと来て、焚き火のところまで舞い戻る。すると、ウドとマルバのてもちたちが集いに集って、輪のようなかたちになりながらその中心を見つめているのを彼女は発見した。ウドとマルバが帰ってくると皆道を空けたので、二人は輪の中に滑り込み、彼らが注目しているそれの前に膝を突く。柔らかな布の上に置かれたその球体こそ、先ほどマルバが後生大事に膝に乗せていたものであり──何を隠そう、ポケモンのタマゴなのだった。
 このタマゴは、ムラを出立する際に、ウドの父親であるイズがマルバに託したものだった。それまでウドも存在すら知らなかったのだが、彼女の母が遺した形見の一つとして、イズが厳重に保管していたらしい。イズはポケモンについてそう明るくはなく、妻が遺した得体の知れない球体をどう扱っていいものか分かりかねて、今の今までただ暑くも寒くもない場所に保存していただけだと語り、また、今さら孵るかも分からないが、と言って、ポケモン知識に長けたマルバにタマゴを託したのだった。
 そして、今、そのタマゴはことりことりと鼓動のように左右に揺れていた。孵ろうとしているのだ。この世に生まれようとしている。ここにいる全員がそんな直感の元、固唾を呑んでタマゴを見守った。
「……あっ!」
 瞬間、タマゴにぴし、と罅が入り、その隙間からこがねを帯びた白い光が放たれ、薄明光線めいたそれに思わず瞼を瞑る。それから次に目を開けたときに飛び込んできた光景に、
「……ピンプクだ……」
 二人はそう呟かずにはいられなかった。
「お母様のハピナスの子どもだ……」生まれたての赤子がもつその澄んだ瞳を見つめて、更にウドが呟いた。「お母様もポケモンを連れていて、特に仲が良かったのがハピナスだったんです。お母様が亡くなってすぐ、彼女も病気で亡くなってしまったのだけれど……」
 タマゴから孵ったばかりのピンプクはきょとんとした表情でこちらを見上げ、モモン色の巻き毛をわずかに揺らしている。
「そうだったの」ウドはピンプクの輪郭を撫で、少し涙ぐんだ。「こんなところに、いてくれたのね……」
 撫でられた彼女はしばらくの間じっとウドのことを見ていたが、ふと気が付いたみたいにきょろきょろと辺りを見回すと、突如瞳にうるりと涙を溜め、木々の梢を揺らさんばかりの大音声で泣き出した。すると、皆てんやわんやである。ポケモンたちは全員おろおろと互いを見つめ合い、ウドとマルバは「お腹が空いたのかも」「まんまるいしがないのが不安なのかもしれない」「親がいないことに気が付いた?」「いや、僕たちの視線が怖かったのかも」などと言い合って、ひとまずウドはピンプクの好物であるきらきらミツを彼女に与えてみることにした。
「こ──子育てって、凄いわ……」
 そんなふうにウドが呟けるようになるまで、たっぷり一時間はかかった。
 どうにか泣き止んだピンプクが眠りについている間に、マルバがポケモンたちと協力して昼食の片付けを終えたので、頃合いを見て二人はいま一度出発した。清々しいほどの快晴に、広く、気持ちの好い風が吹く草原である。せっかくなので、ポケモンたちも皆外に出したまま進むことにした。途中、すれ違った商人がぞろぞろとポケモンを連れる二人の姿を見てぎょっとしていたが、ウドとマルバが挨拶をし、ポケモンたちがそれに倣って各々前肢を上げたりなきごえを発したりするさまを目にすると、相手も面白げな表情をして、にこやかに挨拶を返してくれた。そんな商人にひょっとしてと尋ねると、予想通り、彼の持つ品物の中にまんまるいしがあった。そのときちょうど目を覚ましたピンプクにこれを与えてみれば、たちまち上機嫌となったため、二人は商人からまんまるいしを買い上げ、再び歩を進めていく。
「これからどこに行こうか」
 ふと、歩きながらマルバがそう問うた。その質問が先の見えない未来に対する不安のためではなく、無限の可能性に満ちた未来への期待で胸を膨らませる、いっぱいの希望のために発されたことは、彼の弾んだ声を聞けばすぐに分かる。ウドはマルバを見上げ、その少年のように輝く彼の瞳を見た。
「先生、変なことを言ってもいい?」彼女は息を吸い込み、意を決して言った。「ワタシ、バハギアをもう一度見て回りたい」
「もう一度?」
「そうなの。なんだか、全然違うから」そうして辺りを見渡して、ウドは言葉を継ぐ。「バハギアの景色……はじめ、ムラから旅立ったときと比べて、今はまったく違って見えるんです」
 ウドにはもう、最初ムラを贖罪のために旅立ったとき、どのようにこれらの景色を捉えていたのかが思い出せないほどだった。たぶん光も影も曖昧で、色彩もなく、すべてがのっぺりとした風景に見えていたのだろう。あの頃、この瞳は無力感と虚ろな気持ち、そして茫漠な、色のない未来に支配されて、まさしく灰色をしていた。こんなふうに光を浴びることの気持ち好さなんて、考えたこともなかったのだ。
「それで、バハギアを一周しながら、薬師としての勉強もできたらいいなって思っています。そうして、村里だけではなく、もう一度祈りの家やバハギアの遺跡を巡りませんか? 前までは、先生、ワタシに気を遣ってあまり考古学の研究に没頭できていなかったでしょう?」ウドはまんまるいしで遊んでいるピンプクの巻き毛を少し撫でる。「それに……この子にも、彼女のお母さんが生きたバハギアのことをたくさん知ってほしいな、と思います」
「さすがウドさん!」すぐさまそう頷いて、彼は心底嬉しそうににっこりとした。「ありがとう。僕もちょうどそうしたいと思っていたんですよ。バハギアの遺跡群については、君の意見も聞きたいところでした」
「えっ? それは嬉しいですけれど、お役に立てるかどうか……」
「いやいや。僕は単純に、君の意見を聞くのが好きなんです。君の自由な目が過去の軌跡をどう捉えて、どう言葉にするのか……それを僕は、もっとたくさん聞いてみたい」
「それなら……」
 彼女はこれまでに見せたことがないくらいのいたずら娘の表情をして、ピンプクを抱いたまま、目に付いた円丘を駆け上っていく。そうして頂上に辿り着くと、辺り一面をぐるりと見渡して、ぱちくりとこちらを見やっているピンプクに微笑みかけた。急いで走ったので額からは汗が噴き出し、息も少々上がっていたが、吹く風がそれらを癒やしてくれたので心地好かった。
 昼食前よりも太陽は輝きを増し、目が覚めるような日光を草花たちに投げかけている。瞳を凝らせば、草むらのあちこちにシピーやメラルバ、メリープなどのポケモンたちが日光浴をしている姿が見え、顔を上げると陽光を吸い込んだワタッコの群れが気ままに空を漂っている姿も見付けられた。そしてまた、風が吹く。すると、白い草原がこがね色に波打って、それはまるで一種の機織り機のようにも映った。
「ワタシたちは一つなのね」眼下の景色を見て、ウドは感嘆した。「人とポケモンと自然、そして太陽や月の光、吹く風すら、みんな繋がっていて決して切り離すことはできない。ワタシたちの世界は、そうやって過去から今までずっと絶え間なく、織り上げ続けてこられたんだわ。ワタシが生まれて、チコさんに出会って、みんなに、先生に出会って、この子に出会ったみたいに。そうやって、これからも続いていくのね。だから、こんなに愛おしいの。こんなに、美しいんだ……」
 それから足元にどん、という重みがあって振り向くと、そこではチコリータとバウッツェルが他のポケモンたちを引き連れて、瞳をきらきらと輝かせながらこちらを見ていた。不意に、チコリータのつるのムチがしゅるしゅると伸びて、ウドの目元を拭う。それから彼女は、ちょっとだけむずがりはじめたピンプクを預かって、そのままゆらゆらとあやしだした。
「とても、綺麗」拭われて初めて、彼女は自身の両目から熱い涙が溢れていることを知った。「先生。世界って、こんなにも輝いていたのね」
 マルバに向かってそう呟けば、ウドの隣に立つ彼はほんの少しばかり眼下の景色に視線をやり、けれどもすぐに彼女へと目を戻す。
「ほんとうに、そうだね」彼はウドの瞳を真っ直ぐに見つめながら微笑んだ。「すごく綺麗だ」
 彼女もまた、そんなマルバの澄んだ心音に微笑みを見せ、それからそっと睫毛を伏せる。それは胸の切なさのためでも、また祈りのためでもなかった。
「ねえ、ウドさん」囁くみたいに、マルバが言う。
「うん」
「生きていてくれて、ありがとう」
 そして、彼はウドに口づけをした。少しして、驚くほど優しく重ねられた唇が離れていくと、彼女は伏せられていた睫毛を上げ、
「ワタシも、先生」
 と、花開くように笑ったのだった。
「見付けてくれて、ありがとう」
 ヒノデムラのウドは旅立った。
 恋を、したためである。



20240526 了
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