花言葉はわたしが決める


 ヒノデムラの入り口には、いつも巨大な城門が聳えている。
 ウドがその堅牢な門を見上げれば、物見やぐらの見張り番と目が合う。姿勢を正し、頤を上げて真っ直ぐ前を見据える彼女の姿に、見張り番は一瞬、それが誰であるのかが分からなかったらしい。こちらの正体に気が付いた彼は驚きに跳び上がり、ウド様、と小さく呟くと、大急ぎで開門の指示を送ったが、ここが一番の安全地帯だと言わんばかりに、彼は物見やぐらから降りようとは決してしなかった。なんだか、凶暴なポケモンにでも遭遇したかのような様子だった。
 門がぎいぎいと唸り声を上げて開くのを待つ間、ウドは自分のことを支えてくれる仲間たちのことを見た。腰のボールにはいつも一緒にいてくれる五体のポケモンが入っており、彼らはこちらの不安を感じ取ってか、時折励ますみたいにその身を揺り動かした。足元にいるマルバのバウッツェルと視線がかち合うと、彼女は自信ありげに胸を張ってふんふんと鼻を鳴らしている。チコリータはといえば、道中ずっと不満げな表情で、今もウドを引き留めるように赤い瞳を三角にし、土を前肢で掻いている。そんな彼女をウドは優しく抱き上げて、
「大丈夫だよ、チコさん。何があっても、ワタシがキミを守るから」と言った。「もう誰にも、キミのことを傷付けさせたりはしない」
 やがて開門が済むと、ウドはマルバのことを見た。他の土地に比べても古代バハギア王国の面影が色濃く残るこのムラは、きっとマルバのもつ、考古学者としての知的好奇心を大いに刺激するものだっただろう。けれども、彼はムラの方を見ていなかった。ただ、あの穏やかな、いつだってこちらを安心させる微笑みを浮かべ、ウドのことを見つめていた。瞳には何か、底知れぬ力が宿っているようだった。
「大丈夫ですよ」と、マルバも言った。
 ムラに向かって一歩踏み出すと妙な浮遊感に身体が支配され、わん、と耳が遠くなる。そんな確かさのない身体を、マルバが優しく抱きとめる。ウドは、そのとき初めて、自分の身体が震えていることに気が付いた。
「大丈夫。たとえどんなことがあっても、今の君には僕が──僕たちがいます」
 ウドはほんの少しだけ目を瞑り、全身に巡るあたたかさを享受した。足元に寄り添うバウッツェルのふっくらとしたからだに宿る熱、胸に抱いたチコリータの小さくも力強い心臓の音、五つのボールから感じられる柔らかなまなざし、そして、自分を抱き締めてくれるマルバの大きく、揺るぎない腕のぬくもり……
 彼女は頷いて、ムラの中に足を踏み入れた。
 ヒノデムラは、かつてバハギア王宮の御膝元ないしエニシデシアの枕元として機能していた城下町を基に、永い時を経ながらも守り継がれてきた神聖な土地である。王を失って数百年経つ今でも王宮の壮麗な建築美は健在であったが、そのほとんどは戦後の復興に石材として用いるために削り取られた(祈りの家の建築にも使われたと云う)ので、今日では一部の住居区画と庭園程度しか現存しておらず、ゆえにその見た目は王宮と呼ぶよりも、ヒノデムラを象徴する大きな彫刻作品といった印象だった。ウドの生家は、そんなバハギア王宮跡地を背負うようにしてムラの最奥に座している、平屋の大きな屋敷であった。
 往来では、バハギアの古典的な伝統衣装を纏った村人たちが、銀の鈴守りを鳴らしながら歩いている。彼らは門が開き、そこからウドが入ってくることに気が付くと──最初はきのみでも集めに出ていた村人が戻っただけだろうと、皆そう気には留めていなかった──その場にいた全員が足を止め、ザ、と一斉にこちらを見た。
 ものすごい数の目だった。
 そう感じるのは、向けられた視線それぞれがじっとりとした感情に塗れていたからかもしれない。すぐそこの門番は戸惑った様子でこちらを見ながらも、決して目は合わせないように努めていたし、向こうに立ち尽くす青年は見知った顔だったが、その瞳には驚きと恐怖を滲ませており、万事屋の店主の表情にはいっぱいの忌避感が、呉服屋の女主の目には隠し果せない嫌悪が浮かび、それらは視線として手心もなくウドに突き刺さった。けれども彼女は、向けられる視線のすべてをたった一人で引き受ける必要はなかった。今、隣にはマルバがいる。彼もまた、ムラに突如現れた異分子として、ただならぬまなざしを向けられていた。
 ウドは罪人である。しかし、それ以前に彼女はこのムラを代々治める村長の娘であり、このムラで生まれ育った一人の子どもだった。けれども、見ての通り、ウドの帰郷を喜ぶ者は誰一人いない。或いは、だからこそ、彼らは恐れたのかもしれなかった。このムラで生まれ育ち──そして、このムラによって傷付けられた子どもの帰郷を。
 ウドはそんな奇異の視線を浴びながらも、とにかく真っ直ぐに、自分の屋敷へ向かって歩くことに専念した。ふと見ると、マルバの表情も強張っている。目が合うと、彼は何も心配事がないみたいに微笑んで、しっかりとウドの腰を抱きながら歩みを進めた。
 屋敷は、ウドの記憶よりも人気がなく、森閑としていた。今日に限って風も吹いていないため、庭に植えられた木々の葉擦れさえも聞こえてこない。古くよりこの家に仕えている老女に話を聞くと、ウドがムラを旅立ってからというもの、彼女の父親は医者にかかることはおろか、人と付き合うのも辟易した様子でひどい無気力状態に陥っているらしく、一日の大半を屋敷の自室で過ごしているとのことだった。まるでこれまで繕ってきたものが解けて千切れたような有り様で、モリビトにすら会おうとせず、仕事上のやり取りはすべて文書で行っており、屋敷内が閑散としているのは奉公人たちがその文書を各地に届けるため、伝令か伝書ポッポのごとく出払っているせいらしい。
 ウドはそんな父が休んでいるという自室の前まで歩いていくと、床に膝を突いて、
「父上」
 と、そう呼びかけた。
「ウドです。ただいま帰りました」
 引き戸の向こう側から足音と衣擦れの音が聞こえてくる。しばらくすると、低く掠れた「入りなさい」という声が響いたので、ウドは隣のマルバを見やり、意を決してこくりと頷いた。
「……務めを果たしたようだな」
 それが、久方ぶりの娘を見た父親が開口一番に発した言葉だった。ウドとマルバは人二人分ほどの距離を空け、彼の正面に正座する。チコリータとバウッツェルは、そんな二人を挟むように鎮座した。わずかながら、父の瞳がマルバのことを捉えていた。
「はい。先ほど、エニシデシア様の神床での懺悔と祈祷を終えました。エニシデシア様が、再びワタシのことをバハギアの子だとお認めになってくださるかは分かりませんが……」
「そうか」短い返答だった。「……して、そのほうは?」
 ウドの父は、マルバのことを見ながらそう問うた。当然の疑問である。けれどもウドは彼のことを説明するよりも先に、目線を上げ、自分の父の姿をしっかりと見据えた。記憶の中の父親とは、随分様子が異なっていたからだった。
 彼女の知る父は、いつだって威風堂々とした男だった。彼はポケモンによる被害や人間による犯罪行為を決して許さない、白と黒のはっきりとした人間──無論、母が亡くなるまではもっとずっとしなやかなところがある人だった──で、いつだって姿勢を正し、瞳には底光りする厳しさを宿した正義漢だった。ヒノデムラの村長であり、モリビトの元締めであるに相応しい人間。実態はどうあれ、誰にでもそう見える男であった。
 しかし、目の前にいる男はどうだろう。銀色だった髪は輝きが抜けてほとんど白髪のようだったし、真っ黒の眼帯で隠されていない方の瞳は昏く落ち窪んでいる。肌は土気色で隈も酷く、両頬や手足が痩せこけ、強張っていた。察するに、栄養を摂ることはおろか、ほとんど寝てすらいないのかもしれない。いつもきちんと身に纏っていた衣類などは最早どうにか肌に引っ掛けたような様相で、それが父の色素をますます減らすのを助長していた。
 なんだか、疲れ果て、闘争心を失った戦士のような有り様だった。或いは朽ちた寺院か。とにかく、眼前の彼からは生命力というものが欠片も感じられなかった。少なくとも、いつでも堂々と快活に笑い、時には素手で凶暴なポケモンと渡り合い、怒号を飛ばしてこちらの頬を打っていたおそろしい父と同一人物には思えなかった。たぶん、誰が見てもそう感じただろう。今の父はかつて幸せだった頃の彼とも、こちらを苦しめてきた彼とも異なる、今にもへし折れそうな一本の枯れ木だった。
 一呼吸置いて、ウドが言った。「こちらの方は、マルバ先生です。旅の中で、危ないところを何度も救っていただいたワタシの恩人」
「はじめまして、マルバと申します!」彼は挨拶した。ここ最近聞いた中で、最も朗らかな声音だった。「イッシュ地方から来ました。考古学者をやっています」
 マルバは全く物怖じしない様子だったが、その横顔を見やれば、目元がいつもよりぎこちなく張り詰めているのがウドには見て取れる。けれども彼女の父親は彼とは初対面なこともあり、マルバの緊張に気が付いた様子はない。それより何より、こうして突如娘の隣に出現した、気さくで体格の良い、どこからどう見ても異邦人の美丈夫の存在に、父こそ困惑と緊張を隠せないらしかった。
「……イズと申す」父はしばし言葉を失っていたが、はたとしてマルバに挨拶を返した。「既にご存知のことと存ずるが、そこの──ウドの父で、このムラの村長だ」
「お噂はかねがね。どうぞよろしくお願いいたします」
 マルバはそこでもやはり気立てのよさそうな微笑みを見せる。しかし、声音こそ穏やかなものだったが、彼の発する言葉には何か、妙な迫力があった。それはまるで、自分の存在を相手に植え付けようとするような凄みだったかもしれない。そんな彼を前にして、イズは「ああ……」と曖昧な返事をし、視線を逸らしてウドの方を見た。
「今日は、父上にお話があって参りました」
 と、ウドは切り出した。少しだけ、イズの瞳が揺らぐのが見える。彼女は床の上で両手を三角形にしながら深々と頭を下げ、そうして額を床に触れさせて弓のような体勢になりながら、申し訳ございません、と言った。
「ワタシ──ヒノデムラのウドは、父上の跡を継ぐことは出来ません」
 その言葉は彼女自身でも驚くほどにはっきりと室内に響き渡り、この場にいる全員の鼓膜を揺さぶった。辺りが、自分たちが屋敷に訪れたときよりも静まり返っているふうに思える。静寂とは異なる、痛みさえ生じる沈黙が、自分の頭上に低く垂れ込めている。ウドは深く礼をした状態のまま、父が何か発するまで動かなかった。
「そうか」ややあって、イズが呟いた。「……そう、だろうな」
 それは溜め息や嘆息にも似た、けれども不思議な落ち着きのある声だった。覚悟と諦めの間に存在する、感傷のような声だった。その声色を聞いた瞬間、ウドは父がこちらの考えを否定するつもりが──或いは気力がないのだと理解して、ふ、と顔を上げ、居住まいを正した。
「先生と旅をしながらずっと考えていたの。お父様はワタシを跡継ぎとして育ててくれたけど、ワタシにそれが務まるのかって。何度も想像したわ。でも、何回考えても、ワタシがこのムラで村長をしている姿を想い描くことはできなかった」彼女は目を伏せることもなく、真っ直ぐにイズを見据えながら言った。「……それにワタシ、なりたいものができたの」
「なりたいもの?」
「旅をしていて思った──この世界にはワタシの思うよりいろんな人とポケモンがいて、ワタシの思うよりもたくさんの関係性がある。ワタシはこの旅の中で、先生やチコさんはもちろん、他にもいろんな人やポケモンに助けられてきました。だからワタシ、今度は恩返しがしたい。罪滅ぼしのためではなく、ワタシの心からの願いとして」
 ウドは胸に手を当て、すっと息を吸い込んだ。
「ワタシ、薬師になりたいの。そして、この人のことを支えられる人になりたい」
 言葉にすると、自然だった。自分の発した言葉の意味が身体の中に入り込んで、心臓を優しく、そして強く揺り動かしている。彼女は自分の手元を目に映したのち、隣のマルバを見やった。彼もまた、こちらを見て微笑んでいる。
「お父様。ワタシ、この人と──マルバさんと結婚します」
 この宣言を受けて、イズは息もなくただじっとウドの瞳を見つめた。その間、ウドは決して父親から目を逸らさなかったので、先に視線を外したのはイズの方であった。今、イズの目線の先には、ウドの左手薬指で輝く銀の指輪が映っている。それから彼は、乾いた風が吹くような速度でマルバのことを目に映し、言った。
「……双方、合意の上なのだな」
「はい」マルバがにこやかに頷く。「僕としても、ウドさんを妻に迎えることができたなら、それ以上の僥倖はないと考えております」
「何故?」イズの声は、色も輪郭も失ったみたいに静かだった。「私の言える立場ではないが、娘は一度大罪を犯している。これから先、この子といることで、貴殿まで大変な思いをすることもあるだろう。それなのに、何故?」
 そんなイズの物言いにウドはどきりとしたが、その不安感はそう長くは続かなかった。
「だからこそ、でしょうか」そう返すマルバにはほとんど迷いがなく見えた。「ウドさんは……目が離せない──見守っていたい、そう思わせる不思議な魅力のある人だと感じています」
 ウドは思わずマルバの顔を見ていた。いつの間にか強張りの忘れ去られた横顔には、翳りのない赤い宝石が、昼間の真っ白な太陽に照らされたかのように明るく煌めいている。それは辺りをすべて透明にするほどの熱い明かりであることは間違いないのに、同時に水をたっぷり含んだみたいに瑞々しく、初夏に生い茂る若葉のようでもあった。
「彼女が八つの祈りの家を巡る旅に同行できたことは、僕にとっては紛れもなく幸運≠ネことでした」彼が柔らかく細めたまなざしが、ふとこちらを向いた。「僕はこれからの人生を、彼女を支えながら生きていきたい。もし彼女が罪人だと言うのなら、僕はそれを共に償う存在で在りたい。……若輩者なりに、そんな存在のことを夫婦と呼ぶのではないか、と、僕は思っているのですが……」
 彼の言葉にはウドに対する祈りと、そして揺るぎない覚悟が在った。ウドは自分の心臓がおまもりすいしょうの内包するあの白い輝きを宿し、それがゆっくりと左右に動きながら、全身に光を送り届けている感覚がした。マルバが再びイズの方を向く。ウドはまだ彼の横顔を見ていた。勇気に満ちた、その横顔を。
「……などと言いましたが。ハハ、つまるところ、僕には逃しようもない機会なんです。だって、こんなふうに思える出会いなんて早々ない。そうは思いませんか?」
 イズがわずかに目を伏せる。その侘しげな表情を見て、もしかしたら母のことを想い出しているのかもしれない、とウドは思った。
「ウドさんのことは、必ず僕が幸せにします」マルバは無情にも聞こえるほどはっきりと、そう言いきってみせた。「どうか、ウドさんを僕に任せていただけないでしょうか」
 マルバの発した言葉のすべては温和な表現で織られていたが、それと同時に、一聴で分かる明朗な覚悟と、決してほつれず千切れることもないと断言するような、確固たる意志を感じさせるものであった。そのあまりに真っ直ぐと射られた矢に、或いはイズは怯んだのか、半ば呆然として眼前の男を見つめるばかりだった。
「……マルバさん、と仰ったか」しばらくののち、ゆっくりと瞬きをしたイズがそう発した。「お礼を申し上げるのを失念しており、申し訳ない。道中、娘が世話をかけたようですね。かたじけない」
 はっとした様子で、マルバもぱちりと瞬いた。「滅相もない! 僕の方こそ、ウドさんには助けられてばかりですよ」
 それからイズは、長く息を吐くようなまなざしでウドのことを見る。
「ウド」
「は──はい」
「息災であったか?」
 それはこれまでの話題を無視した、明らかに突飛な質問であるのにもかかわらず、不思議とウドは違和感を覚えることがなかった。むしろ、自分は父にこう問いかけられるのをずっと待っていたのではないだろうかとさえ、ウドは思った。
「先生にチコさん、バウッツェルやみんながいてくれたので、ワタシは元気です」本心だった。旅の中で辛いことや傷付くことは多々あったが、それでも今のウドには元気≠ナあると、そう心から言えるだけの力があった。「お父様は……あまり、お加減がよろしくないと伺いましたが……」
 そっと問いかけると、イズはどこか自嘲的な笑みを浮かべる。
「ああ、どうやら心臓が故障したらしくてな」
「心臓が!」ウドは衝撃を隠せなかった。
「何も今すぐ死ぬわけではない。ただ、医者によると、前のようには動けなくなるだろうという話だった」言って、彼は以前よりも骨の形が浮き彫りになった手の甲を静かに見下ろした。「天罰が下ったんだと、そう思ったよ」
「天罰?」
「お前がここを旅立ってからずっと考えていた。これまで自分が、お前にしてきたことを」
 そんな父の告白は、彼が心臓に疾患を抱えていることと同じくらいの驚きをウドに与えた。彼女は今しがた聞いた父の言葉を、心の中で反芻する。これまで自分が、お前にしてきたことを。ウドもまた、己の手の甲を見た。
「……それは、一体?」
「すべてだ」イズは静かに言った。「すべてなんだ、ウド」
「すべて……」
「私はこれまで、ずっと、お前を守ってきたつもりだった。お前があのプレシーに破壊を願うまでは」白く爛れた声だった。茫漠の凪の海で、それ以上進むのを諦めた舟のごとく。「お前がポケモンを愛していることは知っていた。それでも、ポケモンは危険な存在だ。彼らは時に牙を剥き、その刃は人の命をも脅かすことがある。お前の母がその命を失ったように……お前の顔に、生涯消えない傷痕が残ったように。だから、私はお前をポケモンに近付けまいとした。その選択がお前を傷付けることになっても、将来的にはそれがお前を守ることに繋がるだろうと信じて疑いもしなかった」
 彼はしばらく自分の骨張った両手を見つめていたが、やがてそれをぐっと握り込んで両膝の上に置くと、さながら火を吹き消すような息づかいをしてみせる。
「お前の母が亡くなったあの日から、私は神に祈っていない。ゆえに、信仰を盾にポケモンを傷付け──屠ることに、私は一切の後ろめたさや躊躇を感じなかった。こうして独りになって、ようやく分かったよ。私は敬虔な信徒でもなく、村長でも、為政者でもなく、お前の父親ですらなかった」彼の目の中には灰みたいに色のない、それでいて煤めいた暗いものが漂っていた。「十年間。私は憎悪を振りかざすだけの、ただの愚かな復讐者だったのだ」
「しかし、お父様。あなたは──」言いかけた言葉は、イズの手によって制される。
「アオが彼岸に旅立ったあの日から、私は何も信じることができなくなった。一人娘のお前の言葉ですら、耳を貸さなかった。不思議なことに、あれほど血に濡れたにもかかわらず、自分が変わったという感覚もなかった。むしろ、変わったのは世界の方だと思った。裏切られた、と思ったのかもしれない。ゆえに、復讐は当然の権利だとさえ思った。彼女の命を奪った者に報復し、遺されたお前を守ることが自分の使命で、権利なのだと」イズは奥歯を噛み締め、笑っているような、しかし悔いているふうにも見える奇怪な表情を浮かべて言った。「憎かった……ポケモンが憎くて憎くて、エニシデシアの御子さえも恨んだ。彼らが暴走し、ケガレのすがたとなったとき、私はそれを当然の報いだと思ったほどだ」
 彼は暗やみを背負い、けれどもその重みに耐えかねては首を項垂れる。そんな彼の様相はさながら罪人か、裁きを受けている者の姿にも似て見えた。
「でも、分かった」それはかつて聞いたことがないほど、悲しみに満ちた声だった。「私が本当に憎んだのは……赦せなかったのは、他でもない、この自分自身だった」
 その言葉を聞いて、ウドははっとした。次いで、彼女は思い出す。父にチコリータを奪われた日のこと。雷の音。揺れない草むら。土砂降りの雨。どこからともなく漂う、血のにおい。母を喪ったあの日以降、父からはずっと血のにおいがしていた。ポケモンが好きだった。だけど、近付くことは許されなかった。口答えをすれば、殴られる日だってあった。それなのに、父はそばにいてくれなかった。彼は仕事をしていた。わたしが抱き締められるものを取り上げるだけ取り上げて、彼自身はわたしのことを心から抱き締めてくれなかった。わたしはわたしを、自分自身で抱き締めるほかなかった。どれだけ光り輝いて見えたとて、父の瞳は昏かった。彼はこちらを見ていなかった。だけれど、今なら分かる。分かってしまう。彼が目にしていたもののことが。彼は絶望を見ていたのだ。その穴の奥底で砕け散っている、自分自身というガラス玉の破片たちを。
「お父様……」ウドは目を上げ、呟いた。「お父様は、ワタシと同じだったのね」
「……ウド?」
「ねえ、お父様。少なくともアナタは、エニシデシア様の供物にしたというポケモンたちの命を奪ったりはしていませんよ。一匹たりとも」
 イズは表情を歪ませる。「何を、馬鹿な……」
「ワタシ、知っていたから。お父様がワタシの信じているお父様なら、罪もないポケモンたちを傷付けはしても、その命にとどめを刺すことまではできないって」彼女は一度立ち上がるとイズのそばまで歩いてゆき、彼の前に両膝を突いた。「お父様は変わってしまったって、ポケモンを簡単に傷付ける人になってしまったんだって分かっていた。でも、たぶん、心のどこかで信じていた……藁に縋るような思いだったの。きっとまだ、アナタの心のどこかに、ワタシの知っているお父様が残っているって。そして今日、話してみて分かった。アナタはやっぱり、お父様なのね」
 イズはウドの発する言葉の意味が分からず、電火にでも打たれたみたいに唖然としていた。そんな父親に構わず、彼女は更に言葉を継ぐ。
「お父様。アナタが傷付けて祈りの家に捨てたポケモンたちは、皆ワタシが手当てし、今は野生に帰っています。その中でワタシのことを信頼してくれた五体は、ワタシの仲間として、今この場に──ボールの中にいます」
 ウドは腰に身に着けている五体分のボールをちらりと見やり、それらが励ますようにことりと揺れるのを目にすると、口元に穏やかな笑みを浮かべる。イズはそんな娘の姿を目の当たりにして、
「そう、か」
 と呟いた。小さな、二人にしか聞こえないほどの声だった。彼は再び俯いたが、おそらくそれは自身の背負う闇の重さのためではなく、頭上に差した光の明るさに自身の目が耐えられないせいだった。
「そうか……」
 再び言葉を噛み締めたイズに、ウドは小さく頷いた。「ですからもう、そうしてひとりぼっちでいるのはやめましょう。お父様が苦しんでいたら、きっとお母様も苦しみます」
「アオが……」
 イズの呟きに、ウドはもう一度頷く。それからしばらくのあいだ二人に言葉はなかったが、やがてイズの肩がわずかに上下し、ほんの少しだけ面が上がる。
「……ウド……」
「お父様?」
「理解してくれとは言わない」彼はゆっくりと力なく呟き、ウドの両手に自分の額を押し当てた。「ただ、どうか……どうか、父を、赦してくれはしないだろうか……」
 ウドは、父の身体が震えているのを見た。彼女は知っていた。彼から受けた傷痕が、二度と消えないこと。どれだけの時間を経たとしても、完全には癒えないことを。それでも……
「いいのよ、お父様」
 そう微笑んで、ウドは父のことを抱き締めた。最後に会ってから、一回りも二回りも縮んでしまったような気がする。傷痕は消えない。それでも、もう怒りは覚えなかった。憎悪も恐怖も、この身を震わせることはない。わたしは傷付き、そして父もまた、傷付いた。もう十分だった。これ以上、互いに傷付け合うことはない。わたしたちは元々、愛し合っていた家族なのだから。
「ワタシはもう、いいの。大丈夫」彼女は言い、ふとマルバの方を見た。「この人に会えたから。だから、いいの。ワタシたち、きっと、もっと早く勇気を出すべきだったのね……」
 そうして父の背中を擦ってやれば、低い嗚咽と共に「すまない」と「ありがとう」が小さく聞こえてくる。父からそんな言葉を聞くなんて、一体何年振りだろう。涙は流れなかったが、少しばかり唇が震えるのを感じた。
「ウド、お前はアオに似たな」間もなく顔を上げたイズは、そんなふうに言ってほんのわずかに笑んだ。彼の痩せた指が、こちらの輪郭を確かめている。「私とは違う。強い子だ」
「ううん……ワタシだって弱いよ、お父様。ワタシが強く見えるなら、それはポケモンたちと、先生がいてくれるから。強くなりたい、なろうって、みんながいるとそう願えるの」そんな彼女の瞳には今、形容しがたい不可思議な光が宿っていた。それはどこか、マルバとの婚約指輪のオパールにも似ていたかもしれない。「きっとお母様も、同じだったんじゃあないかな……」
 ウドがそう微笑んでみせると、イズは娘の輝く瞳を見つめ、それからごくごく自然に、両手を祈りのかたちに組み合わせる。
「ウド」イズの眉の辺りに、何やら決心の色が浮かんだ。「私はこれから、エニシデシア様の神床に続く杜を封印しようと思っている」
「おまもりの杜を? どうして?」
「この十年、私は神床を荒らし続け、エニシデシア様の眠りを妨げた。今後、私や私のような者が同じ間違いを犯さないために、一部の者しか祈りの家に立ち入れないよう、杜全体にサクソールの力を借りて仕掛けを施そうと思っている」
「……一部の者って?」
「お前自身がよく言っていたことだよ。我々バハギアの民は、元々三つで一つだった。人間、ポケモン、自然……ゆえに、今後はバハギアのポケモン、自然の両方と通じ合っている者のみ、祈りの家に辿り着けるようにするつもりだ」彼はまなざしにもひとかたならぬ決意を漲らせ、杜のある方角を見やった。「祈りの家──エニシデシア様の許に行きたければ、ただ真っ直ぐ、信じることだ。ポケモンは道を知っている。自然もまた同じく」
「信じること……」ウドはそっとくり返した。
「仕掛けを施せば、私はもう二度と、エニシデシア様の許へは行けないだろう」そうこちらを見やるイズの瞳に後悔の念はない。彼はウドの両手を自身の両手でぐっと握った。「だが、ウド。お前なら大丈夫だ。きっといつだって、祈りの家への道はお前のために開かれる」
「……お父様は、もう間違いを犯したりしないよ」
「ありがとう」それは、かつてのような優しい笑みだった。「でも、私は私の贖罪をしなければ。家の皆にも、村人やモリビトにも色々と迷惑をかけたからな。やらねばならんことは山積みだ……医者はああ言ったが、寝てばかりでは動けるものも動けなくなる。それに、務めを果たさねば、アオにも笑われてしまうだろうからな」
 そして不意に、父の顔に後悔、苦悩、悲しみ、切なさ……そういった様々な色が一度に浮かんでは混ざり合って、もう十歳も老け込んだような瞳がウドのことを捉えた。
「ウド。今さら言う資格もないだろうが……私はここで、いつまでもお前の幸せを祈っているよ」
 それからイズはこれまで静かに成り行きを見守っていたマルバの方に向き直ると、先ほどウドがしたのと同じく身体を弓の形にして、額を床に押し付けた。
「マルバさん」彼の声が、波紋のごとく室内に響く。「どうかウドを、よろしくお願いします」
 その言葉がマルバに届くのと同時に、彼の瞳が驚きに丸くなる。ややあって彼が発された言葉の意味を理解すると、 
「──はい!」
 そう、顔中に柔らかな喜びを広げて笑ってみせたのだった。
 イズはそんな若者の笑顔を見て、さざ波のような笑みを目元口元に浮かべたのち、マルバの元へと戻ったウドの名前を呼ぶ。その声に彼女が振り返れば、イズは瞳の中にわずかながら苦い色を浮かべた。
「このムラはお前には狭かったな」と、彼は眉を下げた。「だが……門はいつでも、開けておくようにする」
「ありがとう、お父様」
 イズが頷くのを見ると、ウドは立ち上がり、部屋を出ていく用意をした。いま一度、父を見る。彼と再び心から笑い合える日が来るのかどうかは分からない。けれども彼女は、今ばかりは父のために祈った。父のこれからの未来に、どうか幸在らんことを。それから彼女は祈りを解く。隣にはチコリータとバウッツェル、五体のポケモンたち、そして、マルバがいた。学ぼう、とウドは思った。父の心臓に効く薬を、いつかきっと作るのだ。そして、そのときは……
「ワタシ、きっとまた帰ってきます」去り際、ウドはチコリータを抱き締めながら言った。「どんなことがあっても、ここはワタシのふるさとだから」



20240519 執筆
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