わたしたちはみんな愛をするために


 その日、ウドは熱を出した。ヒノデムラの輪郭が薄ぼんやりとだが見えてきた、そんな頃だった。
 ──まるで朝靄の中にありながらじわれを食らっているみたいだ──と、いうのが、瞼をこじ開けたウドの感想であった。そして、その信じられないほど有耶無耶な視界に、ぱっと光明が差すようにして存在するのが、何やら水桶に向かっているマルバの後ろ姿だった。たぶん、手拭いを絞っているのだろう。ちゃぽちゃぽと水滴が桶の中に吸い込まれていく音がする。その響きに喉の渇きを思い出したのにもかかわらず、水を飲みたい、という気持ちは湧き上がらないのが奇怪だった。ウドは自分が何者で、身体がこれまで感じたことのない悪寒と気怠さで悲鳴を上げていることはかろうじて分かったが、今が何時で、ここがどこなのかは理解できなかった。
「ワタシ……」と、彼女は喉に樹脂が張り付いたみたいな声で呟いた。
「ウドさん!」相手の声を聞きつけて顔を上げたマルバが、安心した様子で微笑んだ。「よかった、目が覚めたんですね」
 この言葉に、ウドはどきりとして息を呑んだ。聞き憶えのある台詞だった。彼と出逢ったあの日、トルファを助け、崖から落ちたあの日──自分を見付けてくれたマルバが、こちらが目覚めた直後に投げかけた最初の言葉がこれだった。瞬間、ウドは全身の悪寒を忘れ、心臓が爆発寸前の爆竹のような音で鳴るのを感じた。ああ、夢だったのだろうか? 今までのすべては、自分にとって都合の良いただの夢だった?
「覚えていますか? 昨日のこと……」マルバの問いかけに対してウドは首を振る気力がなかったが、それを見て取った彼が言葉を続けた。「相当疲れていたんですね。ウドさん、急に倒れてしまったんですよ。ああ、起き上がらないで、そのまま。まだ熱が高いですから」
 それからマルバは、ウドの発熱に加えて、このところは不安定な空模様が続いていたこともあったため、紅焔台地に存在する小さな集落で宿を借りて、自分たちは今そこに滞在していることを彼女に伝えた。ウドはそんな彼の言葉を話半分に聞きつつ枕に頭を預けながら、ぼんやりと相手の顔を見た。そうしてどうにか片腕を動かして、左手を自分の目に見える高さまで持ち上げると、そこに光る銀色の指輪を見付け、
「あ」
 と呟く。
「うん?」マルバがウドの顔を覗き込んだ。
「……夢じゃない」
「夢?」
「ワタシ、先生と婚約したんだ……」
 彼は少し笑った。愛おしさの上に薄く憂いが滲んだ、心配性の目の細め方だった。「そうです、夢じゃありませんよ。君は僕のたいせつな婚約者だ」
「そう……よかった」ウドは再度言う。「よかった」
 彼女の言葉はひどく頼りない速度でマルバの耳元に辿り着くと、寒い日に吐いた白い息のごとく、ふっと空気の中に溶け消えた。そんな婚約者の声を聞いて彼は淡く微笑み、彼女の額に濡らした手拭いをそっと載せる。その冷たいようなぬるいような感じが、今のウドには少しだけ心地好かった。不思議なのは、マルバは手拭いを絞っていないのに、今も水の音が聞こえていることだった。水面に雫が落ちるあの穏やかな音ではない。何か風のような、波のような音だった。「あめ」とウドが呟けば、マルバは頷き、窓の方を向いた。
「朝までには止むと思います。だけど、少し騒がしいね……眠れそう?」
「うん……」ウドは真っ黒な闇に濡れている窓の外を見た。「でも、眠れなくてもいいの。先生がいるから」
「僕?」
「先生がいれば、怖くないもの」まるで指先を伸ばすみたいに、彼女はマルバをまなざした。「それに……みんながいる」
 ウドは自分の両脇をあたためるように寄り添って眠っているチコリータ、そしてバウッツェルのぬくもりを感じていた。立ち上がってもいないのに目眩がして、そのたびに部屋は広くなったり狭くなったりをくり返していたが、その不快極まりない感覚も、両隣のあたたかな体温に集中しているといくらか紛れていった。目を瞑る。瞬間、雷が鳴った。ずきんとこめかみが痛んだが、それが熱のせいなのか雷鳴のせいなのかは分からない。
「ウドさん」ふと目を向けると、マルバは神妙な面持ちでこちらを見つめていた。「……ウドさんが辛いなら、ムラへは無理に帰らなくていいんじゃないかな。こんなふうに、ウドさんの心が悲鳴を上げるのなら」
 そう言うマルバの手が、まなざしの柔らかさでウドの頭を撫でる。この発熱が風邪によるものではないことは、なんとなく彼女自身にも分かっていた。ぐらつく頭の芯をどうにか窘めて、ウドは遠目に見たヒノデムラの姿を、そしてそれを目にしたときの自分の心境を思い出そうとする。
 彼女は再び高台に立ち、ヒノデムラを見ていた。胸に浮かぶそれはおよそ、自分のふるさとと呼ぶべき場所に抱くような感情ではなかった。その輪郭を一目見ただけで全身の肌が粟立ち、膝は震え、こめかみでは赤い光が警告のごとく点滅する。ムラの方から吹いてくる風でさえ、ウドにとっては得体の知れない触手が肌に巻き付いてくるような酷い不快感があった。もしかしたら、そのとき、目眩がしてしまったのかもしれない。何かあたたかなものに抱き留められたのを、なんとなく覚えている。そう、マルバの言う通りなのだ。決して好い気持ちではなかった。ムラを目に映した際に湧き上がった嫌悪感はムラに帰ることに対する生理的な拒否反応で、今回の発熱はそんな自分の防衛本能である──それは最早、マルバに説明されるまでもなく理解していた。でも……
 少し考えてから、ウドは言った。「それは違います、先生。ワタシ、嬉しいの」
「嬉しい?」
「先生と一緒になれるって思ったら、嬉しくて、それで熱が出たんです」
 それが真実なのかはウド自身にも分からなかった。けれど、本心であった。確かに故郷へ帰るのは不安でおそろしいものだったが、それより何より、マルバとこれから先の人生を共にできる喜びの方が、彼女にしてみれば遥かに勝っていたのだ。
 ウドの上気した頬を親指の腹で撫でながら、マルバが言った。「……あまり無理をしちゃいけないよ。我慢すると、また苦しくなってしまうからね」
「ううん……」ウドはわずかに唸り、その目を細める。「でも、ワタシね、先生」
「うん?」
「今は、無理したいの」
 マルバはぱちりと瞬き、虚を突かれた様子だった。彼はウドに何故とは問わなかったが、その瞳に疑問が渦巻いていることは容易く見て取れる。そんな彼の手のひらに頬を寄せて、ウドは少しばかり目を閉じた。水に触っていたために冷えた彼の手は燃える肌に心地好かったが、こちらの熱が移って段々と本来の体温を取り戻した彼の手の方がもっと、ウドにとっては安心感を覚えるものであった。外では雨が降り続いている。けれども、まるで別世界での出来事のように思えた。雨音の響きよりもマルバの脈拍の方が、ずっとそばに感じられたから。
 ウドが目を開けると同時に、窓の外で再び雷鳴が轟いた。「チコさんがいなくなった日も、こんな天気だった……」
 そうして目にしたマルバの瞳は変わらず赤い色をしていたが、それはあの雷の日に父の手を染め上げていた赤、あのおそろしい色とは全く異なる柔らかさを宿したものだった。
「ワタシ……あの日、戦えばよかった」自分のすぐそばで眠るチコリータの葉っぱを撫でながら、ウドは言った。「怖くても、勝ち目がなくても、お父様と戦えばよかった。大事なもののためなら、どれだけ無謀でも勇気を出さなきゃいけないときがあるって、分かってたはずなのに」
 窓の外では、雨がものすごい音で鳴っている。夜空というガラス板がひび割れて、そこから落下してきた欠片たちが地面で砕け散るみたいな、凄まじい音。それはバハギアのからだ中に叩きつけられる雨足が更に強くなったことに他ならず、ウドにとっては祈りの際に感じる凪の海辺が、ひどい高波となって襲ってくるように思えた。
「──だからワタシ、今度こそ無理したいの」
 でも、そこにはマルバがいた。どのような暗やみの中でも、大嵐、荒波、降り注ぐガラス片の中でさえ、今では隣にマルバがいる。彼という存在は、先の見えない暗路を唯一照らす特別な明かりで、こちらをまなざす二つの赤い瞳は最早、ウドの心臓の一部であった。
「お父様とこれまでのこと、これからのこと、きちんと話して……」彼女は力なく指先を伸ばし、けれども力を込めてマルバの指を握ってみせた。「それで、アナタと一緒になりたい」
 マルバはじっとこちらを見ていた。彼は少し迷った様子で唇をわずかに開いたが、相手の揺るぎない視線を前にしたそこからは結局、どんな言葉も発されることはなかった。それほどまでにウドの瞳から放たれる意志は力強く、およそ熱病患者のものとは思えなかったのだ。彼女のまなざしの強さは、「たとえかみなりに打ち殺されても、この人と一緒になるのだ」、という決意のもとに生まれていた。
「……そうか、分かった。僕はウドさんの選択を信じます」やがて、マルバがウドの手に触れながらそう頷く。「でも、もし気持ちが変わったらすぐに言うんだよ」
 ウドもまた頷いた。「ありがとう……」
 それからしばらくの間、二人に言葉はなかった。たぶん、必要もなかった。雨は降り続いている。時々マルバはウドの額に載った手拭いを取り替え、そのたび労るように頭や瞼を撫でてくれた。よく日に焼けて節くれ立った大きな手は、普段から自然に身を任せ、過去の人々の遺物に触れているためにかさかさと乾いて水を欲している。
「ねえ、先生」ふと、ウドが呟いた。
「うん?」
「先生はどうして、考古学者になりたいと思ったの?」
「そうですね……」マルバは静かに唸った後、どこか遠い地を眺めやるみたいに目を細めた。「ウドさんは、イッシュの海に古代遺跡が眠っているという話を知っていますか?」
「海に?」
「ええ。かなり水深が深いところに存在するので、あまり詳しいことは分かっていないのだけれど」
「でも……ずっと昔に、誰かが建てた建物ってことは確かですよね?」
「うん、そうなんだ。そして僕は、それこそが僕自身を惹き付けてやまない考古学の魅力なんだと思ってます」
 言って、マルバは遠い過去から変わらず吹いてくる風を浴びるようにそっと目を閉じた。
「遺跡や過去の建物を歩いていると、感じるんです。遠い昔にも誰かがここで暮らしていて、彼らにも愛や希望や信仰や──もっと浅ましい感情でもいいのですが、とにかく僕たちと違う生活があり、僕たちと変わらない命があったことを知ると、なんだか胸躍るような、自分は独りではないと思えるような、そんな心地がするんです」
 そんなマルバの言葉を聞きながら、ウドもまた、彼が瞼の裏に映している景色を見た。遙かな海の底に眠る古代都市にはきっと誰かが遺した文字の跡があり、自分たちが何気なく踏んでいるこの土には、古代の生命が化石に姿を変えて眠っている。バハギアでぐるりととぐろを巻いているすべての祈りの家にも、いつだって過去の人々の信仰の名残や祈りの形跡があり、常に発展し続ける村里ですら、いつもどこかに過去の姿を遺している。ゆえに、ウドはそこに時のらせんを見た。過去から現在までらせん状に繋がり続けている、この地に生きる人々やポケモンの姿を……
 そして、彼女は気が付くと、
「……先生も、少し寂しかったの?」
 そう呟いていた。心の中にふっと浮かんで出ていった、純粋な問いかけだった。どうしてこんな考えが浮かんだのか、彼女自身にも定かではないくらいに。
 当然、こんなことを問われてはマルバも驚かざるを得なかった。彼は瞬きも忘れた様子できょとんとウドを見つめ、けれども丸くなった瞳が元の光を取り戻す頃には何かが腑に落ちたらしく、
「そんなふうに考えたことはありませんでしたが、……そうですね、そうかもしれません」
 と、柔らかく微笑んでいた。
「そっか……」ウドは息を洩らした。「先生も、ワタシと同じだったのね」
「ウドさんは、今も寂しいですか」静かな問いかけ。
「ううん、寂しくなんてありません。みんなも、先生もいるから」
「ほんとう?」
「ほんとう」こちらを覗き込むマルバに、ウドが小さく笑う。「だけど、手を握っていてくれたらもっと嬉しい」
 それを聞いたマルバの目が不思議なかたちに細められる。彼はウドの手を取ると、そこに自身の指を絡め、彼女の隣に──バウッツェルにはちょっとばかり場所をずれてもらい──横たわった。相手の顔がすぐそばに来ると、彼の睫毛がきらきらと光っているのがよく見えた。そんな雨に濡れたような輝きに、ウドははじめ、マルバが泣いているのかと思った。しかし、違った。彼の睫毛が輝くのは、その下にある赤い瞳がまばゆい光を放っているからだったのだ。
「ウドさん。僕はね、謎に満ちていて、わくわくするものが好きなんです」
 秘密をこっそり囁くときの声で、マルバが言った。
「たとえばバハギアの古代遺跡だとか、この子たちだとか……」彼は自分の横で眠るバウッツェルを撫でて、それからウドの方を見る。「君とかね」
「ワタシ?」突如白羽の矢が立って、彼女はぱちりと瞬いた。「ワタシって、謎に満ちてるの?」
「もちろん、謎だらけです!」マルバは自信たっぷりだった。「ウドさんは神秘的なんですよ。とってもね」
 すると、彼はウドの身体をぎゅっと、けれども壊れ物を扱うように抱き締めた。
 そうしてマルバの大きな身体に包まれていると、自分の内で熱を放つ不安の嵐が収まり、新たな血が身体中を巡り出す気がウドにはした。
「少し変わった話になりますが」マルバがウドの髪を手で梳きながら言う。「ウドさんの髪質はバハギアの人に時折見られる癖がありますね。以前、君は自分の髪をごわごわだと言っていましたが、僕はそうは思いません。ただ、ウドさんの髪の手触りは特徴的だとも思います。よく陽に当たる人の特徴だね」
「……おばあちゃんみたいじゃない?」毛先を指で弄くりながら、彼女が問うた。
「全然。こんなことを話すと変な男だと思われるかもしれませんが……僕はね、ウドさん。こうして君を抱き締めて眠っていると、君がこの土地で生まれて、たくさんの日差しを浴びながら生活してきた姿が思い浮かびます。それはとてもヘルシー……つまり、健康的で素敵だと思わない?」彼の目が昼間の太陽を眺めるときのかたちになり、それは驚くほど真っ直ぐにウドのことだけを見つめていた。「こうして触れ合っていると、君の肌は僕にはない熱をもっているような気がするし、君の瞳は今まで見たこともないような、僕の知らない色をしている。君はとても不思議だ──僕にとって、ウドさんにはそういう魅力があるんですよ。もちろん、君がそれとは違う姿を望むなら……たとえば花の種から採れる油は髪に良いそうだけど、そうしたらウドさんからはもっと花の香りがするのかな。それも楽しそうでいいですね」
 その迷いない台詞がどうにもこそばゆくて、ウドは「あ」だとか「う」だとかいう言葉にならない声しか発せなかった。けれども、マルバは自分の言った未来がありありと想像できるのか、心底楽しそうに笑っていた。そんな彼の再びの抱擁に、ウドは相手との距離をなくすため、思わずぐっと自分の身体を押し付ける。首筋に顔を埋めると、うっすらとした汗の気配に混じって、目を閉じたくなるほど穏やかなにおいが鼻翼をくすぐった。
「……ワタシにとっての先生も同じ」呟いて、彼女はマルバの長い髪をそっと掬う。「先生は、不思議なの。今まで出会ったこともないくらい優しくて、あたたかくて……それに、色鮮やか。もちろん、髪もこんなにさらさらで素敵な青で、瞳も綺麗な赤だけど、それだけじゃあなくて──太陽みたいなのに、虹色なんです。まるで、バハギアの太陽の周りにある光の輪っかみたい。あの虹色に輝く冠……」
「なら」とマルバが微笑む。「僕たちは同じですね」
「同じ?」
「そう、同じ。お揃いだ。これまでちょっとだけ寂しかったのも、ポケモンが好きなのも、互いに謎だらけなのも」
「お揃い」そう、ウドはオウムがえしした。
 そのとき、ふと、彼女はマルバの発していた言葉を想い出す。
 ──すべてを滅ぼしてやりたい>氛氓サう思うほどの愛を受けたことは、僕にはないですから。それってなんだか……ロマンチックだな、と思って……
 ロマンチック。その言葉は異邦のそれで、意味を自分は知らない。けれども、マルバがどのような気持ちでそれを発したのかは分かる。たった今、分かった。ああ、そうだ。きっとマルバも、こんな気持ちだったのだ。こんな気持ちをその腕に抱くことを彼は望み、そして欲していたのだ。
 気が付くと、ウドはマルバの傷痕が残っている方の腕に触れ、微笑みながらこう言っていた。
「それって、なんだかロマンチック≠ヒ。先生」
 と。



20240511 執筆
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