「運命の人」と三回唱えて


 雨は、昨晩の夜半を過ぎた辺りから、銀の鈴でも鳴らすようにして降り出した。月の吐いた溜め息が薄く天上を覆い、皆、そんな彼女の流す涙に心を痛めて呼吸を潜めているらしい、その夜はひどく密やかなものであった。ウドは横になったまま一晩中目覚めていたが、頬がものすごく細い針に刺されたみたいにちくちくするのが果たしてこの静寂のせいなのか、それとも夜雨による肌寒さのせいなのか、彼女には判別することができなかった。或いは、重く淀んだ不安に打たれるこの心のせいなのか。
 テンマクの布越しに透ける陽光に、夜明けを感じる。うっすらと聞こえてきていた雨音が、いつの間にやら遠のいていた。月の流していた涙は、日の出のあたたかさによってどうやら癒されたらしい。立ち上がり、外に出ると、キンとした冷たい風の中に、雨上がり特有の甘いにおいが混じって、それはどこか、ポチティーにたっぷりの砂糖を溶かしたときの香りにも似ていた。眼前には、雨によって清く洗い流された天色の空が、遠く、果てしなく広がっており、その下には太陽光を浴びた地上が波打つ天鵞絨のごとく煌めいている。星影連峰の上から見下ろすバハギア地方は、およそこの世のものとは思えない、どこか神秘的ですらある美しさを帯びて輝いていたが、そんな景色ですら、今のウドの心を慰めることはできなかった。
 ふと、彼女ははっと息を呑む。もちろんそれは、眼下に広がる景色の美麗さのためではなく、
「──おはよう、ウドさん」
 という、マルバの声が聞こえたためである。
「先生」ウドは、押し潰されそうな心臓をどうにか宥め賺して、息を吸い込む。もしかしたら、これがマルバと交わす最後の挨拶になるかもしれないと、彼女は思った。「おはようございます」
「晴れてよかった」マルバはウドの横に立ち、穏やかに言った。「今日はウドさんにとって、たいせつな日ですから」
「はい」彼女の口の中は乾いてからからだった。「ほんとうに、よく晴れて……」
「あ──ごらん、ウドさん。虹が出ているよ」
 そう発するマルバが指し示すまま、ウドは再び空を目にする。彼がそうしなければ、彼女はそこに虹が架かっていることに気が付けなかっただろう。見たこともない景色だった。いつも頭上高くに存在している虹が、今は眼下に架かっていた。光の具合によって濃くなったり薄くなったりをくり返すその色彩は、どこか大きなへびポケモンが、悠々とバハギアを遊覧しているかのようだった。
「きっと、君の旅をエニシデシア様も見守ってくれているのですね」
 いつの間にか祈りのかたちにしていたウドの両手を見つつ、マルバがそう微笑む。そんな相手に、ウドも彼と似た笑みを浮かべることにした。祈りの手をほどき、首元に手を伸ばすと、片側は吹く風に当たって冷たく、もう片側は体温によって温められたオパールの指輪が、朝露を受けた植物にも似た感触をウドの指先に与える。彼女はそれをぎゅっと握り込むと、意を決してすっと息を吸い込んだ。
「ワタシ……行ってきます」マルバの瞳を真っ直ぐに見つめて、ウドは言った。「先生は、ここで待っていてくださいますか」
「……分かりました」彼もまたしっかりと相手を見つめ、頷いた。「では、僕もここで祈ることにします。ウドさんのために」
「先生、ありがとう」
 ウドは祈りの家のある山頂を目指し、ポケモンの他はほとんど身一つで出発した。移ろいやすい山の気候も今日ばかりは穏やかなもので、彼女はチコリータを隣に、ぐんぐんと目的地へ近付いていく。振り返れば、ずっと下の方に、点になったマルバの姿が見える。彼がこちらを見ているのか、それとも他のところを眺めているのかは分からなかった。虹は、とうの昔に消えていた。今ではもう、それがどんな色形をしていたか、朧にしか思い出せない。ほんとうにそこに存在していたかすらも、定かではなかった。きっと、マルバと見る最後の虹になるのに。
 祈りの家は、厳しい山中に在っても他のすべてと同じく音を吸ったように静かで、喩えるなら時間というらせんの海を漂う、穏やかな一艘の小舟だった。ウドはゆりかごめいた台座の前に膝を突き、そこに収まる二つのガラス玉越しに、壁に描かれたエニシデシアのそのすべてを見透かす瞳を目にした。気が付くと、両手は祈りのかたちに組み合わされていた。彼女はその両の手を額に押し付けると、上体をわずかに前のめりにして、息を吐くみたいに睫毛を伏せる。
「ワタシは、罪を犯しました」ウドは懺悔した。「様々な人を傷付け、ポケモンを傷付け、バハギアの自然を傷付けました。愛するチコリータを喪った、その怒りと悲しみのために、ワタシは関係のない人々やポケモンたちまでも巻き込み……このバハギアを滅ぼそうとさえしました。ワタシは愚かで、弱く、浅はかでした。自分の独り善がりな願いがどんな悲しみを生むのかを、考えもしなかった……」
 舟型の台座に揺れる二つのおまもりすいしょうが、彼女の言葉を吸い込むように白く光っている。壁のエニシデシアは、沈黙を守ってウドのことを見下ろしていた。彼女はエニシデシア、ひいてはバハギアに自らの罪を告白し、悔い改めることを誓い、贖罪の機会を与えてもらったことに感謝を述べると、ふつ、と、空気の糸でも切れたかのように言葉を失った。彼女は黙った。かなり長い時間だった。千切れた言葉を再び手繰り寄せるのに、それだけの時間が必要だったのだ。彼女は服の隠しから虹色のミサンガを取り出し、手のひらに載せてはぎゅっと握り込む。そうして顔を上げたウドは、これまで何度もくり返してきた懺悔の後に、今になって初めて発する言葉を付け足した。
「──ワタシは、恋をしました」それもまた、紛れもなく懺悔であった。「この心身を救ってくれた恩人に、ワタシは罪人の身でありながら、恋をしたのです」
 口にすると、心臓が鉛のようにずんと重たくなった。愚昧にも無分別に罪を重ねるこんな自分を、きっともうエニシデシアは赦しはしないだろう。それでも、ウドは祈った。祈るしかなかった。この恋心に対する罰がなんなのかは、もう分かっていた。祈りの家を出れば、すぐそこに、マルバとの別れが待っている。
 彼女は手の中のミサンガを見た。マルバのために編んだ、美しい色彩のお守り。それを両の手に包み込んで、ウドは再び祈りを捧げる。当人は気が付きようもなかったが、そうする彼女の横顔はおよそ罪人のそれとも、敬虔な修道女のそれとも似付かぬ、ただひとりの少女のものであった。まるで、決して帰らぬ旅に出る恋人のために祈りを捧げる、いたいけな少女そのものの顔をして、彼女は祈った。愛する人──マルバがいつまでも健康で、病にも怪我にも侵されることがありませんように。災いに見舞われることなく、衣食住に困ることがありませんように。彼が愛するポケモンや人々と、いつまでも親しくいられますように。彼がこれから往く道を誰も阻まず、いつも良い風が吹いていますように。彼の美しい眼が、悲しみで曇ることのありませんように。絶望で濁ることのありませんように。彼の自由な心を、何者も縛りませんように。そして──
「先生の願いが、叶いますように」
 彼女が祈りの家を出て、マルバのところに辿り着く頃には、その足にはもうほとんど歩いている感覚というものがなかった。妙な浮遊感ばかりが大半を占めて、土を踏む音もどこか遠くに聞こえる。しかし、ウドは歩き続けるほかなかった。今となってはもう、彼の元以外に行くところも、行きたいところも彼女には存在しなかったから。
「ウドさん」帰ってきたウドとチコリータの姿を見て、マルバが優しく微笑む。「よかった。怪我などしていないみたいですね」
 彼女が頷くと、マルバは自身が腰掛けているなんだかちょうど良い感じの切り株から立ち上がり、そこに手拭いを敷いてウドを休ませた。チコリータは腹が空いたのか、ウドの鞄の中から勝手にオレンのみを引っ張り出して食べている。彼女は白い睫毛を伏せ、中途半端に組み合わされた自らの両手を見た。手足が錆び付いてしまったみたいに軋んで、上手く動かすことができない。
「ウドさん、疲れた?」そんなウドの様子に気が付いたマルバが、彼女の顔を覗き込む。「中で休もうか? それとも、何か食べる?」
「いいえ、違うの」彼女は口の中だけで呟く。「違うの、ただ……」
「ただ?」
 ウドは正直に言うことにした。「少し、言葉を探していて」
 そんな台詞の意図が分かりかねて、マルバは瞬く。ウドは振り返って今しがた参った祈りの家を見やると、時を重ねて尚白っぽい外壁に太陽光が当たり、まるで祈りの際に発光するおまもりすいしょうのごとくに輝いている。ウドは今一度、もう一度だけ心の内だけで祈った。どうか、この脆いガラス玉が、砕けて割れることがありませんように。
「先生、ワタシ」ウドは立ち上がり、息を吸って、吐いて、また吸って、言った。そうして彼女は上衣の隠しから取り出した虹色の輪を、そっとマルバに差し出してみせる。「ワタシ……ミサンガを、編みました。先生に、と思って……」
「えっ、僕にかい?」眼前に突如現れたミサンガとウドの顔を交互に見やったマルバは、相手の言葉の意味を理解した途端ぱあっと喜色満面になった。「わあ……それはそれは──ありがとう! 凄いなあ、手作りとは……いやはや、ウドさんはほんとうに器用だね。それに何より、ウドさんの気持ちがあたたかくて、嬉しいです」
 彼はそんなふうに感嘆と感謝の言葉を満足するまであれこれと述べ続け、ウドの手によってミサンガを身に着けると、晴れ晴れとした笑顔の中に何かくすぐったそうな色を浮かべ、「ありがとう、ずっとたいせつにします」と言った。じつに朗らかで、深みのある柔らかな声だった。
 それから彼は、ミサンガをつけた方の手首──傷痕のある側の腕──を擦りながら言った。「それにしても、綺麗な七色ですね。これには何か特別な意味があるんですか?」
「旅立つ人に渡すことが多いお守りです。人生の門出に立つ人の」震える感情を押さえ付けるように発したら、思いのほか冷たい声になってしまったので、ウドははっと顔を上げる。「それだけには限りませんが、主に赤色は開運、モモン色は良縁、橙は子宝……黄色は金運で、緑は健康運、青は学業成就、紫は魔除けの意味があります。先生のこれからにたくさんの幸福がありますようにって、たくさんお祈りしました。先生に、エニシデシア様のご加護がありますように……」
「今日のお祈りに普段より時間がかかっていたのは、もしかして僕のため?」マルバが赤い目を細め、さざ波が立つように微笑んだ。「ウドさんが祈ってくれたのなら、僕の人生は安泰そのものですね」
「でも……ワタシの祈りが、エニシデシア様に届いたかどうか……」
「もちろん、届いていますよ」そう言うマルバに迷いはなかった。「ずっと隣で見てきた僕が言うんですから、間違いありません。ウドさんほど愛と志を負けずに持ち続けた人を、僕は他に知らない。そんな君の強さはきっと、これから先の未来を切り拓きますよ。エニシデシア様もそれを分かっているはずです」
「だけど、それは、ワタシ一人の力じゃない。全部、先生のおかげ、ポケモンたちのおかげ……」
「それでいいんですよ」彼は頷いて、その両手でウドの手を包み込んだ。「僕たち、せっかく別の姿に生まれたのですから、手を取り合わないと。君の力になれたのなら、僕は嬉しい。たぶん、他のみんなもそう思ってるんじゃないかな」
「……先生」
「うん?」
「今まで、ワタシと一緒にいてくれて、ありがとう」ウドは手元のぬくもりに目頭が熱くなるのを感じながら、それでも顔を上げ、マルバの瞳を見た。「ずっと、ずっと、感謝してもしきれません」
「ウドさんってば」冗談めかしてマルバが笑う。「なんだか、今生の別れのようなことを言うんですね」
 その言葉に、彼女は沈黙して俯く。ひどく静かで、風の音も、草の音も、とりポケモンの声すら聞こえなくなっていた。ただ、マルバの言葉が全身に反響していた。まるで自分が空っぽの洞窟にでもなったみたいに。
「ワタシ」ウドは唇を震わせ、マルバの両手から自分の腕を引き抜いた。「……ワタシ、もうあんなことはしません。いつも先生が見ていてくださると思って、この子たちに恥ずかしくない生き方をします」
 彼女は腰に帯びているモンスターボール──ウドが手作りしたものを、マルバが改良した──を見つめ、心配そうに揺れるそれを手のひらで包み込む。視線を上げると、マルバはタネマシンガンを食ったポッポのように、半ば困惑の表情を浮かべていた。
「ええ、もちろん僕もそのつもりですが……」
 しかし、目が合った瞬間、彼の顔は曇り、そのきりりとした眉が落雷を感じた枝葉のごとく潜められる。ウドは視線を逸らさなかった。これから消えゆく虹を網膜に焼き付けようと、彼女は必死だった。
「先生」どうにか息を吸いこんで、ウドは言った。「今まで、大変お世話になりました」
 そうして深々と頭を下げる彼女にマルバははっと息を呑んだが、それはウドの耳に届く直前で空中に霧散する。彼女は、マルバが何か言うまで、ずっと頭を下げ続けた。
「ウ──ウドさん……」
 揺れる頭から、そのまま言葉を発したかのような声だった。彼が衝撃を受けたらしいことは明白であったが、ウドが顔を上げる頃にはもう、彼の表情はいつもの──そう言うには些か強張っていたが──柔らかい笑みを浮かべていた。
「……何か、これからやりたいことが見付かったのかな?」
 彼の問いに、ウドは瞬きの間だけ唇を噛んだ。やりたいこと。それはまさしく、マルバの助手に違いない。でも、それを口に出せるほど、彼女は自分を肯定できなかった。
「ワタシは……今日で、この旅の目的である祈りの家の巡礼を終えました。後はムラに帰って、本殿──エニシデシア様がいらっしゃる祈りの家にお参りするのみです。この山を登ってきた側とは逆方向に下れば、ヒノデムラはすぐそこ……一月もあれば帰ることができます。まさか、そこまで先生についてきていただくわけにもいきません」彼女はそう話し続けたが、なんだか自分ではない自分が、どこか遠い場所から言葉を発しているような錯覚がしていた。「それに……先生は、ワタシのことをもう大丈夫≠ニ言ってくださいました。だから、ワタシ、大丈夫です。先生も、これからは先生自身のことを考えてください。ワタシ、先生のたいせつな時間をたくさん使ってしまったから……」
 ウドは自分が自分であることを確かめるために、これが己の意思であると言い聞かせるために、首元の指輪をぎゅっと握り込む。ふと見ると、マルバはますます虚を突かれた表情をして、その赤い瞳をこれ以上ないほど見開いている。腕に薬傷を負ったときや、ポケモン勝負に負けたときでさえ、こんな顔はしなかっただろう。まさしくかみなりに打たれたような表情だった。彼の顔には今、喜怒哀楽のどの感情も浮かんではいなかった。
「そう、ですか。ムラへ戻る決心をしたんだね」ややあって、瞬きの仕方をたったいま思い出したみたいなマルバがそう言った。「ほんとうにそれでいいのかい?」
「はい。色々あったけれど……あそこにはお父様もいるし、どうあってもワタシの故郷で、やっぱりあのムラ以外にワタシの帰る場所はないように思いますから」言いながら、ウドは更に強く指輪を握り締める。「これからどうなるか分からないけれど、頑張ってみます。チコさんも、みんなもいるし、ワタシ、強くなるって先生に約束しましたから。だから、大丈夫……もう、大丈夫です」
 マルバはしばらく黙っていた。呼吸の音さえ聞こえないようだったが、しかし、彼の瞳はただ真っ直ぐにウドのことを見つめていた。彼女はそんな視線を真正面から受けて、その辰砂の色が暮れる夕陽のごとく震えるのを、彼と共に過ごす中でおそらく初めて目にした。まるで、何かに迷っているみたいだった。けれども、それは徐々に天上に君臨する太陽の光輪めいた輝きを取り戻し、揺らぎのない、確かなものへと変化していく。彼の瞳に存在する色……名付けるとするならば、決意だろうか? それとも、諦め?
「ウドさん、指輪を貸してくれないかな」と、気持ち硬い顔つきでマルバが言った。
「え──」無論、この言葉にウドは愕然とした。まったく予想外だった。心臓の奥にある、からだの中で最も脆いガラス玉を、他でもないマルバに捕らえられたような気持ちだった。彼が少しでも力を入れればそれは割れただろうし、翻って手を離しても、やはりガラス玉は割れただろう。「あ……」口から言葉にならない声が洩れ出る。ほんとうに返さなければならないのだろうか。ほんとうに? この指輪を?
 そんな胸中の動揺や困惑、嫌だ、と訴える心とは反対に、自分の手はマルバに言われるままに首元のネックレスを外した。そのチェーンに通されている、銀色の美しい指輪をただ見つめながら、ウドはそれをマルバに手渡す。今日、共に見た虹の色をガラス玉の中に閉じ込めたみたいな色彩を宿すオパールが、どこか幻の類のごとく揺らめいて、まるでこちらに夢の終わりを告げているようだった。
 この指輪さえあれば、と思っていた。これから先、どんなに辛いこと、耐えがたいことが起こったとしても、マルバから贈られたこの指輪さえあれば、これを握り締めてさえいれば、きっと乗り越えていける……そんなふうに思っていたのに。
「……やっぱり」本人でも気が付かない内に、ウドの唇から声が洩れる。
「うん?」
「やっぱり、それだけは……」
 絶望と呼ぶなら、おそらくこんな表情のことだろう。彼女は、マルバの手の上でチェーンから指輪が外される様子に、彼と己とを結ぶ縁が千切れていく光景を見ていた。それを目にするウドの瞳の昏さといったら、その闇の濃さだけで自らの心臓を止めかねないほどであった。そしてたぶん、そんな彼女のただ事ではない目の色を、マルバも視界に映していた。
「じつはね、ウドさん」少しばかりばつが悪そうに、彼が咳払いをする。「僕も君に隠しごとをしていました」
「……隠しごと?」
 マルバはゆっくりと頷いた。「イッシュ地方でも、婚約指輪は左の薬指につけるものなんです」
「えっ?」ウドが目を瞬かせ、さっと自身の手を見やる。「左の……薬指」
「そうです」彼は再度頷く。「だから、今度はこれを君の左の薬指に贈らせてほしい」
 そう言う彼の声音は優しかったが、同時に、何かぴんと張り詰めるように強張ってもいた。そしてマルバは、その言葉の意味をウドが理解するよりも早く、次の言葉を継いでいた。
「ウドさん。僕と結婚してください」
 燃えているみたいな瞳だと、ウドは思った。その目は何物も焼かず、焦がしもしなかったが、彼女の全身をぼっと熱くさせる、ただそれだけの力がある炎であった。彼の瞳は今、揺らぎながら沈む夕陽とも、自信に充ち満ちた昼間の太陽とも異なる赤を宿し、一心にウドのことを見つめている。ああ、彼の瞳。そう──そうだ、出会ったときにも思った。炎の色、太陽の色によく似たそれは、心臓の色だった。ともすると彼女は、その色がもうすでに自分の中に溶け込んで、血液として身体に流れているのではないかという錯覚さえ感じていた。だからこんなに熱いのだ。ウドは最早指輪を飛び越えて、こちらを見つめる彼の瞳の他には何も目に入らなかった。心臓を曝け出している、彼の瞳の他には何も。
「そして」息でも止めているかのような声だった。「願わくば、君の旅を最後まで見届けさせてほしい」
「……結婚?」ほとんど正体を失いながら、ようやくウドが言った。自分の声が、随分遠くから聞こえる感じがする。「……先生と、ワタシが……? 結婚って、あの結婚のこと? ウドが、先生のお嫁さんになる……」
 相手の問いかけに、彼は迷いなく頷いてみせる。「そうなってくれたら、僕にとってこの世にこれ以上幸福なことはないよ」
 ウドは思わず「本気なの」とマルバに問い詰めようとした。けれども、眼下でちらちらと光る指輪が気になって、一度そちらへ目を移す。視界の端で揺れ動いていたのは、オパールの遊色でも、銀の指輪自体でもなかった。揺れていたのは、手そのものだった。どんなときでも確固とした、マルバのあの大きな手。
「先生、手が震えて……」ウドが思わず発する。
「ああ、うん。そうなんだ」マルバは少し困り顔でからりと笑った。「情けない話だけど、じつはもの凄く緊張していてね」
「き──緊張。先生、ワタシに緊張することがあるの?」
「もちろんさ、何せこんなことははじめてですから」たったいま思い出したみたいに、彼は呼吸をした。「……こんなにたいせつな人ができたのも、誰かと一生を添い遂げたいと思ったのも、それを伝えるのも、僕には初めてのことばかりだよ」
 言って、マルバはその視線だけで手のひらに載っている指輪を見た。彼は今、震える手首を押さえられる左手というものを己が有していることも、また物を見るために首筋を動かすことができるのも忘れている様子で、指先を痺れたみたいに小さく動かすと、身体中が喉の渇きを訴えているような笑い声をわずかに洩らした。
「君はいつかこの旅をやり遂げるだろうと思っていましたから、僕も覚悟を決めていたつもりだったけれど……こういうときはどうしたって緊張するものですね」彼は少しばかり自虐的な笑みを浮かべ、付け加えた。「大変、勉強になりました」
「先生って」
「うん」
 ウドが指輪を見、それからマルバの瞳を見た。「ワタシのことが、好きなの?」
「はい」彼の震える手とは反対に、その返事には一片の迷いさえなかった。「愛しています」
 マルバの言葉に、ウドは再び彼の目に心臓を見ていた。その瞳が今やこちらの心の臓と繋がって、どきどきと早鐘を打ちながら血液を沸騰させているのだとさえ彼女は思った。けれど、そんな熱の奔流に呑まれたいと願うほど、ウドのこめかみには自分が犯した過ちの赤い光が点滅して止まないのだった。
「でも、ワタシ……先生に愛してもらえるような、そんな素晴らしい人間じゃありません。現実を受け入れられなくて、笑ってる人が──友人が羨ましくて嫉妬に狂うような、そのために全部呪って何もかも傷付けるような、そんな浅ましくて、弱い女です」そう俯いた彼女の視界に、自分の貧相な身体が映り込む。「……女としてだって、全然魅力的じゃありません。やたら背が高いばかりで、他の女性みたいに美しくありませんし、顔に傷もあって、髪もごわごわで灰色で、これじゃあまるでおばあちゃんみたい──」
「ウドさん」相手の言葉を遮るようにして、マルバは言った。「君はバハギアのような人だ」
「バハギア……?」
「このまばゆい太陽を浴びて育って、慈愛と信心を持ち、時に雪山のように心を閉ざして、火山のような苛烈さを持ちながらも、広い大地のように他人を包み込みもする」マルバは、草むらで転がって遊んでいるチコリータとバウッツェルの方を見た。「……彼らのような素晴らしい隣人のことも、僕のような異邦人のことも」
 マルバの瞳が一歩分こちらに近付いたが、その目があまりにも優しく、力強く、そして揺るぎないものだったので、ウドはただ黙って呼吸を行うことしかできなかった。
「じつを言うと、きっと理屈ではないんだ。正しいから、相応しいから、そうすべきだから愛することもあるだろう。それでも、それがすべてではない。……僕は君に出会って、そのことをより深く実感しました」睫毛を伏せた彼が呟く。「もしかしたら、僕は君にこんな気持ちを抱くべきではないのかもしれない。君の言う通り、君をムラへ帰して、元の僕の人生に戻るべきなのかもしれない」
「先生……」と、ウドは胸の奥がちりりとするのを感じたが、それからすぐに上げられたマルバの顔を見るとはっとして息を呑んだ。
「けれど、愛している」彼はウドの手を取り、真っ直ぐに言った。「叶うならずっと君のそばに在り続けたいと、そして君にもそうしてほしいと望んでいる」
 燃える心臓の瞳が、ウドのことだけを一心に捉えていた。
「──ウドさん、愛しています。僕と結婚してください」
 愛……彼女は彼の言葉を反響させる自分のからだが、最早空っぽの洞窟でなくなっていることを悟った。幼い頃、母が自分に囁いたものとは異なる、不思議で甘い響きが、全身に柔らかな湯を注ぎ込むみたいにして満ちていくのを、彼女は心の真ん中で感じ取っていた。今、彼の手の上に自分のガラス玉が載っているのと同じように、彼のガラス玉もまた、こちらの手の上に載っているのだと、彼女はついに悟ったのだ。
 気が付くと、ウドは頷いていた。そう願った途端、身体が心のままに動いていた。「はい」とさえ言ったかもしれない。「ワタシも先生を愛しています」とさえ、心のままに。
「ああ、ウドさんっ!」相手の答えを耳にした瞬間、マルバはほとんど跳び上がるようにして彼女を抱き締めた。「ありがとう……!」
 ウドは驚いて声を上げる。「あ、せ、先生……」
「ごめん」彼は強烈な喜びが全身を駆け巡るのを隠しきれない様子で、破顔しながらマルバが笑った。「あまりに嬉しくて」
 それからウドの左手をこの上なく優しいと思われる繊細さで取った彼は、その薬指に、やはり壊れ物を扱うようにして銀色の指輪を嵌める。はじめからそこが居場所だったかのごとくぴったりとしている指輪を見て、ウドは無意識に感動の溜め息をほうっと洩らす。マルバを見やると、彼も同じような表情をして、けれどもそれ以上ないほど柔らかく微笑んでいた。
「さすが、ウドさんのミサンガですね。早速願いが叶いました」彼は笑みを深めつつ、たいせつそうに手首のミサンガを撫でた。「ですが、僕にはまだまだ叶えたい夢がたくさんありますから、この子には頑張ってもらわないといけませんね」
「先生の夢……どんな夢なの?」
「まずはもちろん、ウドさんを幸せにし、ウドさんと幸せになることです」彼は自信ありげににっこりとする。「叶うよう、祈っていてくれますか?」
 もちろんウドは、彼のために祈りを捧げた。跪き、睫毛を伏せ、両手を組み合わせて彼のために祈った。そして、祈りながら、これは自分のための祈りなのだ、とも思った。そんなふうに祈るのは、生まれて初めてだった。自分の幸せのために、祈りを捧げることなど。けれども、彼女は思い出していた。この地方が、幸福の意味をもつ、バハギア≠フ名を冠していることを。
「──どうか、先生の願いが叶いますように」
 ウドが顔を上げると、嬉しそうなマルバと目が合う。彼はこちらを見て、「あ、そうそう」と指を立てると、
「それから、ウドさんは大変キュートですよ。何せ、一目惚れでしたからね」
 そんなふうに、いたずらっぽく笑ったのだった。



20240428 執筆
Thank you @slhw0925 and follower


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