目に見えなくなってもあなたは春


 この頃、夜中に目が覚める。
 ウドとマルバが共に旅をして、もう一年と少し経つ。
 夜は、二人で一つの毛布にくるまって眠ることがほとんどだった。そのたびに、マルバはウドのことを抱き締めてくれた。いつだって大きく、あたたかな腕だった……ウドにとっては彼そのものが、毛布のような存在に感じられた。ウドはマルバの胸元に自分の肌──それは額だったり、頬だったり、耳だったりした──をくっつけているのが好きだったが、彼女の方が相手より上背があったため、いつも子どもみたいに身体を折り曲げては、どうにかマルバの腕に収まることにしていた。彼の胸板に耳をつけると、まるで深い暗やみの向こうからぽつ、ぽつ、と明かりが灯るような、ゆっくりとした心臓の音が聴こえてくる。優しく、確かなその鼓動の音に耳を澄ませば、身体を巡る血液ごとあたためられているような気持ちに、どうしてかウドはなるのだった。
「……ウドさん?」と、頭のすぐ上から声がする。「眠れない?」
 そう問いかけるマルバの声色はまだとろんと眠たげで、見れば、その睫毛も似たような角度で下を向いている。瞼の隙間から覗く辰砂の瞳が、散歩で散々はしゃぎ回って疲れたバウッツェルのように潤んでいて、ウドにはそれがなんだかとてもかわいらしく感じられた。
「あ……違うの、ごめんなさい」瞼を柔らかく撫でるマルバの指に、彼女は心地好さげに睫毛を伏せる。「ちょっと、目が覚めてしまっただけで……」
「怖い夢は? 見ていない?」
「はい。大丈夫です」
「そうか……よかった」マルバはウドを抱き締め直し、彼女の髪を指で梳いた。「まだ夜も明けていませんから、もう少し休んだ方がいい。眠れそうですか?」
「はい……大丈夫」ウドはくり返す。
 背中に触れるマルバの大きな手のぬくもりが、じんわりと肌の中に入り込んで、心臓の深いところをあたためている。彼女は微睡みの速度でその睫毛を伏せると、しばしの間、マルバの肩から流れる彼の美しい長髪を指の腹で弄った。綺麗な髪だ。自分の燃え尽きた灰の色をしたそれとは真逆の、川の深いところを写し取ったかのような、夜の帳をそのまま纏ったかのような、美しい紺色の髪。ウドはそっとマルバの顔を盗み見た。眠っていると思った。しかし、そうではなかった。彼女の目は、こちらを静かに見つめている相手の瞳と出会うことになった。
「あ……」と、ウドの唇から思わず声が洩れる。
 彼の瞳の、なんて赤いこと。まるで、みなみじゅうじ座の天頂に瞬く星のようなそれは、見つめている内に吸い込まれていきそうな色をしていた。
 彼の瞳に。
 ふと、思う。彼の瞳に、自分はどういった存在として映っているのだろう、と。彼は優しい。そして、その優しさは様々な色合いをもっている。自分より年上の大人が、年下の子どもに接するときの柔らかな優しさ。考古学者としての柔軟な視点から生み出される、大らかな優しさ。医師としての知見と経験に基づき、毅然とした態度でこちらを導かんとする、揺るぎない優しさ。自分を見つめるまなざしの優しさは時に母のよう、姉のようであり、抱き締める腕の強かさは父のよう、兄のようでもある。無数の色をもつ、虹みたいな、不思議な人。彼はわたしのことを娘か、妹のように思ってくれているのだろうか? 或いは、迷子のみなしご? それとも、彼の愛するポケモンのように? でも、彼は虹だった。だから、こうして見つめていると、そんな疑問もゆっくり空気の中に溶け消えていく……
「先生って……」ほとんど無意識に、ウドは呟いていた。
「うん?」
「先生って」彼女は自分が何かを発したことにたったいま気が付いて、誤魔化すみたいに額を相手に押し付ける。「……お日様みたいな、あったかいにおいがしますね」
「ふふ、そうですか?」マルバはくすりとしたらしかった。「ウドさんは、チャハヤの花みたいな甘い香りがしますね」
「ええ? そんな、嘘だあ」ウドは思わず苦笑した。「だって、ワタシ、土くさいってよく言われていたもの」
「ん……誰に?」
「あ。え、えっと……」脳裏にぼんやりと、苦い影が浮かぶ。「ム、ムラの、男の子……」
「ハハ、そうですか」マルバが目を細めた。「彼らは、女性としてのウドさんを知らないのでしょうね」
「女性?」
「ええ、そうですよ。ウドさんときたら、とてもとても魅力的な女性なのですから」
 ウドは唸った。どう考えたって、そんなわけはなかった。手入れもろくに出来ていない、枝毛だらけの、老婆みたいな灰色の髪。同じ色をした瞳はつり目型で、道を行く他の女性がもつような愛嬌や色っぽさなどは微塵も感じられない代物だった。上背ばかりある身体は凹凸がなく貧相そのもので、女性らしい膨らみの少ないこの身体を見るたびに、なんだか恥ずかしいような、虚しいような気分になるものだった。それに何より、母が命を賭して守ってくれたこの身体を、そんなふうに思ってしまう自分がいちばん嫌いだった。
「ウドさん」子どもをあやすときみたいな、この世のものとは思えないほど優しい声だった。「ウドさんは綺麗だよ」
 ウドは目を瞑り、マルバの胸元に頭を摺り寄せる。心音がすぐそこに聴こえるほどに近くにいるのに、こうも寂しい気持ちになるのは一体どうしてなのだろう。彼のにおいで満ちる鼻腔が、少し熱かった。頭を撫でてくれていたマルバの手が背に回り、とん、とん、と鼓動の速度でこちらを寝かしつけている。それでも、微睡みは未だ遠いところに位置していた。まるで、一秒でも長く彼の存在を感じていたいがために、心が身体を叩き起こしているかのようだった。
 ウドはわずかに目を開けた。「……ワタシ、先生に甘えてばかりですね」
「そうかなあ」彼女の背を撫でながら、マルバがちょっと笑う。「僕としては、もっと甘えてほしいところですが」
 そんな相手の言葉に、ウドは首を振る代わりにそっと睫毛を伏せる。しばらくそうしている内に、テンマクの外から少し、日の出を知らせるシピーのなきごえが聞こえはじめた。「先生」と呟けば、察したマルバが両腕の力を緩やかなものにする。
「ワタシ、朝ごはんの準備をしますね」彼女は起き上がり、彼に微笑みかけた。
「では、僕も手伝いましょう」
「でも……先生、お疲れではありませんか?」
「いやいや、この通り、調子が良くって仕方がないくらいですよ。と、いうか、疲れているのはウドさんも同じでしょう?」マルバが立ち上がり、軽く髪を結いながら言った。そうする彼の利き手には、以前受けた薬傷による傷痕が未だありありと痣のように残っていたが、マルバはそちらの方の肩を健康そうにぐるぐる回しながらにっこりと笑う。「そうそう、それに僕も、ウドさんの料理の腕を見習わなくてはならないからね」
 それから、二人の寝床の近くですやすやと寝息を立てているチコリータ、バウッツェルに毛布を掛けてやると、彼女らはテンマクを出て、東雲の空の下を少し歩いた。青みがかった闇の底で光る火種たちが、地平線の果てから今しも投げられようとしている太陽の熱に呼応して、東の空を銀色に燃やしている。ウドは息を吸った。風が冷たい。シピーのなきごえは、まだ目覚めたばかりなのだろう、どこか不規則で眠たげなものだった。見上げれば、ワタッコの群れが夜明け前の風に乗って、日の昇る方角へと飛んでいく。きらきら輝く綿球のような姿をした彼らが、他では見られない、バハギア特有の容姿をしていることを、以前マルバは教えてくれた。彼はいつだって広い世界の住人で、自分だけでは到底知り得なかっただろう知識を与えてくれる。いつかはこのバハギアを旅立つ、異邦の人……
「──みんな、どこへ行くの?」ウドは空を見上げ、風に乗るワタッコに問うた。「……きっと、遠いところなのね」
 無論、空高く漂っているワタッコたちにウドの声が正しく届くはずもない。彼らは、太陽が海から上がるときに吹く新しい風に背中を押され、ますます高く、どんどん遠くへと飛び去っていく。ウドはそんな彼らの姿が黒点となるまで見送ると、空を仰いだまま、零すように呟いた。
「先生は、ふるさとが恋しくなることってありますか?」
「僕?」彼は虚を突かれた表情をしたのち、困ったみたいに、そうだなあ、と唸った。「バハギアは広い……いや、雄大ですからね。良くも悪くも、自分がちっぽけな存在に思えることはあれど、寂しい、と感じるほど、この地方は忙しのないものではないんですよ」
「イッシュ地方は、忙しいところなの?」
「ここに比べると、少しね。きっと驚くと思います」マルバは苦笑したが、決して嫌な微笑みではなかった。「ここではゆっくりと物事を考えることができる。それが許される。そうしているとね、毎回新たな発見があるんです」
「発見? たとえば、どんな?」
「バハギアの夜明けと、ウドさんの髪や瞳は同じ色だな……とか」
 絵具が水に溶けるように目を細めたマルバに、ウドはぱちりと瞬く。「イッシュの人は、みんな幻想的な表現をするものなの?」と彼女が問えば、面白そうにマルバが笑って、「いいえ、事実を述べることを好む方だと思いますよ」と言ったので、ウドは浅ましくも自分の頬が熱をもち、指先がくすぐったくなるのを自覚した。
「ウドさんは?……ムラが恋しいこと、ある?」それは、念のため確認するような声音だった。
「ワタシ……いえ、どうだろう……」彼女はほんの少しだけ空を仰いだが、すぐに小さくかぶりを振る。「正直、あまり。お父様のことは心配だけれど……」
「僕たちはホームシックになるほど子どもではないし、望郷の念に駆られるほど大人でもないのかもしれないね」
 ウドはわずかに頷き、木々を揺らす風が去っていく方角を見た。
 それでも、いつか、この人と別れなければならないのは事実だった。互いに別の場所に故郷があるのだ。やるべきことを終えたら、そこへ帰るのは明白だった。彼女はざらざらに荒れた両手を擦り合わせ、目に見えない地図を見下ろしてみる。ウドとマルバはすでに、神風山の真隣に存在する祈りの家での巡礼を終えていた。残るは、道中が最も険しい道のりになる、星影連峰の山頂に位置する祈りの家のみだった。エニシデシアの胴から尾に向かうように、バハギア地方をぐるりと巡礼したのち、ヒノデムラにほど近いはじまりの祈りの家──エニシデシアの眠る場所に参って祈りを捧げることで、ウドの贖罪の旅はついに終わりを告げる。それが、古来から続くヒノデムラでの、罪人に対するしきたりだった。
「……ウドさん?」不意に、マルバが問いかける。
「なんでもないの……」ウドは呟いた。「少し、考え事をしていました」
「考え事?」
「そう。バハギアのことを」
「バハギアの……」
「先生はきっと、バハギアのことを愛してくれているのですね」両手を祈りのかたちにしながら、彼女は音を立てずに息を吐いた。「ワタシも、先生と一緒にバハギアを旅してきて思いました。このくにの懐の、なんて広大で深いこと。ワタシの視野の、なんて狭いこと。ワタシはここで生まれて生きてきたのに、この地方のことを何も知らなかった。目の前の昏い穴にばかり気を取られて、すべてを壊そうとさえした。美しい自然を、命を傷付け、みんなの明日や可能性を脅かしてしまった。それでもバハギアは、そこに生きる人やポケモンたちは逞しく、今日を懸命に生きていることを、旅をして、ようやく知ったんです。この地方が、ワタシの思っていたよりもずっと自由で、明るい場所だったことを」
 ウドは想い出す。自分のプレシーに対する祈りが、バハギアに何をもたらしたのかを。越冬し、冷たく硬い土の中から顔を出した新芽に、或るときは再びの豪雪が襲い、また或るときは焼け付くような日差しが襲った春だった。何十年も活動のなかった火山がなんの前触れもなく噴火し、溶岩が流れ、森に流れ込んではポケモンたちの住み処を焼いた。湖に張られていた分厚い氷が突如溶け、泡立った水が溢れ出し、それは近辺の川や土壌を巻き込んで洪水と土砂崩れを引き起こした。地震が多発し、地面がひび割れて穴の空いた場所もあった。叩き付けるような雹が降る日も、すべてを薙ぎ払うような強風が吹く日もあった。それらすべてが、ほとんど同時期に、一気に勃発した。ウド以外の生命にとっては、それらが突然に、災厄めいて降りかかったのだ。天変地異としか言いようのない状況だった。
 だというのに、贖罪の旅の中で訪れた村里の人々は、希望を失ってはいなかった。散乱した土砂を片付け、家屋を修復し、水を引き直し、畑を耕し、種を蒔き、以前よりも良い環境を整えようと、皆懸命に働いていた。ウドには謝罪よりも、もう一人分の労働力を望むことが多く、労働の対価として食糧や衣類を恵んでくれることがほとんどだった。同じように住み処を失ったポケモンたちが、人々と助け合って、再び自らの居場所を見付けているところを目にすることもあった。そこには、今までには存在しなかった信頼関係が生まれていた。彼らは暗やみにただ絶望するのではなく、自ら明かりを灯し、前に進んでいた。皆、生きていた。強く、強く。
「ワタシは、弱かった……」
 木々の向こうでぴかりと、小さな黄金の粒が、一瞬緑色に瞬いた。そちらを見やれば、今まさに地平線から日が昇り、バハギアの夜が明けようとしているところだった。磨りガラスみたいな銀色の広がる空がひときわ白く染まり上がって、次の瞬間にはくっきりとした赤色に色付き、天上近くで黒っぽかった青色を紫へ、そして澄んだ水色へと変化させていく。風が一際強くなり、それは森の瑞々しい梢を揺らし、そこに乗ったシピーの歌声が爽やかに耳朶を打った。大きなおまもりすいしょうに似た太陽が、夜の澄んだ空気から吸い込んだ清浄な光を、惜しみなくこちらへと投げかけている。朝だ。すべてを蘇らせるような命の吐息をもつ、紛れもない朝。
「ねえ、先生」ウドはたっぷりと息を吸い込んだ後、そうマルバに呼びかける。「バハギアには、たくさんのお守りが売っているでしょう? あの中に、いろんな色をしたミサンガがありますよね」
「ああ……うん、よく見かけるね。光に照らされるときらきらと輝いて、とても綺麗な……」
「あの糸、しんゆうのいとって言うんですけど、七色あって。それぞれ、今しがた飛んでいったワタッコと、メリープの綿から作られているんです。それで、時々思っていたの。どうして、ちょうど七色になるんだろうって」
 彼女は東の空から差し出された光を、両の手を器にして受け取った。
「すべて、バハギアの色なのね」そしてそれを、彼女は胸元でぎゅっと抱き締める。「そこに生きる、命の七色。心の七色なんだって、ワタシ、気付いたんです。一人きりでは透明なガラス玉だけど、誰かと出会って、みんな自分の色を宿すんだわ。ワタシたちに綿を分けてくれるワタッコやメリープは、それを知っている。ワタシたちも、きっとそれをどこかで分かっている。だから、その糸で編んだミサンガを輪の形で身に着ける……」
 それからウドは、ふっとマルバの方を振り向いた。彼は朝の日差しを全身に浴び、眩しそうにその目を細めていたが、視線は太陽ではなくウドの方に注がれている。そんなマルバに、彼女もまた似た形に目を細める。そうして首につけているネックレスの指輪を触り、どれだけ強い光を受けても姿形を──色さえ失わない彼を見つめ、
「ミサンガって、少し先生に似ていますね」
 と、小さく笑った。
「僕に?」
「そう。いろんな色をもっていて、綺麗で、ワタシのことを守ってくれる──ほら、まるで先生のことみたいでしょう?」
 ミサンガは、願いが叶うときに切れるのが常である、ということを、しかしウドは口にしなかった。それを躊躇わず言葉にするには、彼女は彼に恋をしすぎていた。
「なるほど!」ウドの力強く頷くマルバは、心底嬉しそうな表情をしていた。「ああ、それは光栄だなあ。僕はいつだって、ウドさんの力になりたいと願っていますからね」
「ありがとう……」
 ウドは再び空を見た。瞬間、今まで最も強い風が吹く。すると、枝先に留まっていたシピーたちが一斉に飛び立ち、今度は彼らの鮮やかな緑色が、空に舞う葉のように朝を彩った。その中に、今朝初めて飛び立ったのだろう、一生懸命に翼を羽ばたかせている、特別小さな一羽がいた。頑張れ、頑張れと、ウドは心の中で励ました。それから、位置を高くした太陽の眩むような光が瞳を刺し、思わず瞼を閉じる。次に目を開けたとき、小さなシピーはもうほとんど見えないところまで飛び去っていた。視界に映る微かな緑色が、日の昇るほんの一瞬に現れる鮮やかな閃光のようだった。彼は飛び立った。不格好でも、自分の力で飛んでいった。
「……ワタシ、きっと強くなります」こんなにあたたかな光の中にいるというのに、ウドの心は少しばかり震えていた。「それまでは──先生。どうか、ワタシのそばにいて、見守っていてくださいますか?」
 そして、彼女は決意した。たぶん、決意と呼んで差し支えなかった。もう半年もすれば、自分たちは星影連峰での巡礼を終える。そこがきっと、最後だった。祈りを終えれば、彼との別れがやってくる。
 その前に、とウドは思う。
 その前に、彼のためのミサンガを編もう。この人によく似た、とびきり美しい、虹色のお守りを。誰よりも優しい、この人のために。



20240413 執筆
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