そうね、そう、たぶん、おそらく


 ガーネットが顔を上げたのは、ぱたぱたと肌を打っていた不快なものが突如として止んだからだった。
「……あ。ごめんね、ガーネットくん」
 すぐ近くから聞こえた声に、ぱち、と瞬く。すべての輪郭が曖昧になっていた視界が鮮明になるにつれ、ガーネットは自分の後ろに傘を持ったオリーブが立っていることに気が付いた。ごめんね?
「何が?」
 ガーネットは赤い目をオリーブに向けたまま、まなざしだけで首を傾げた。オリーブは眉を下げて、困ったように少し笑う。
「何かの邪魔、したかなって。でも、風邪ひいちゃう、でしょ」
「風邪?」
「雨。降ってるよ」
 言われて頭上を見上げる。オリーブの差すビニール傘に、水滴が当たってぽつぽつと音を立てていた。どうりで肌に何か当たっている気がしていたわけだ。ガーネットは口元だけで少し笑った。
「気が付かなかった。考え事してたから」
「考え事?」
「ああ。先生の教え方、分かりにくいからな」
 ガーネットが明け透けにそう発すれば、オリーブはなんとも名状しがたい顔をして傘から垂れる水滴の方を見た。
「そんな顔するなよ。べつに悪口じゃあない。ただ……あの人は、自分の体格を基準に物を言うところがあるから、そのまま聞いてるだけじゃ自分のものにできない。そうだろ? 感覚系を教師にするのはどうかと思うね、俺は」
 寮に向かう歩を拾いながら、ガーネットは半ばひとりごちるふうに淡々と言葉を吐いた。それは悪意も善意もなく、ただそこにある事実を言葉にして確かめているようだった。
「お前にも分かるだろ。お前と先生じゃ、けっこう体格が違う。今日のダンスも、お前は先生より腕が長いから振りはもう少し早い方が──」
 ガーネットはオリーブの空いている片腕を掴んでそう言いかけ、けれども途中で言葉を切ると、ゆるりとかぶりを振った。
「俺が言うのもおかしいか。後で……今度、アンチックに相談してみたらどうだ? あいつのアドバイス、よく効くぞ。いろんな意味で」
 眉根を寄せながら、それでも目を細めてガーネットは喉の奥でくつくつと笑った。髪の先からはぽたぽたと水滴が落ちて、それは音もなく制服の上着に吸い込まれている。彼は濡れた睫毛を上げて、オリーブの方を見た。そして、妙に視線が合ったことのないその瞳の中を覗き込む。
「オリーブ。俺の話、お聞きくださってる?」
「え? あっ、……うん。ごめんね」
「ごめんね? 返事ははいかイエスで答えろよ。それ以外は聞こえん」
 今度はオリーブが瞬く番だった。ガーネットは今しがた不機嫌そうにへの字にした唇を少し開いて、そこから息を吐くようにくすりと笑んだ。そうして彼はオリーブの持つ傘の柄に自分の指先を添えると、とん、と力を加えて、相手の立つ方へと傾けてしまったのだった。
「──それを踏まえて言うけど、傘。俺はどうせもう濡れてるんだから、お前がちゃんと入っとけよ」


2021/06/02

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