わたし達を殺す薬

 
「なんで!!!」

ガラスが叩き割れ荒れた部屋がさらに酷い有様になる。だけどそれどころではなかった。頭がぐちゃぐちゃで心が引き裂かれそうで目が回る。なのに割れた茶色いガラスを見た途端冷静になり膝から崩れ落ちた。沸騰した湯が一瞬のうちに冷めてしまった感覚。自分の中に湧き上がる感情に理解が追い付かない。「…ふはっ」口から漏れた謎の吐息は笑っているように聞こえて、でも頬の違和感に触れてみるとじっとり湿っていた。途切れ途切れに吐息を吐き出し塩辛い水を垂れ流し、だけれど表情筋は動いていない。

「アルファロ、」

……怖い。私がどうなっているのか分からない。あの人が脳裏に浮かぶと湧き上がってくる不明な感情に怖れを抱き、これを消さなければと強迫的に責められる。指先に触れた冷たさに視線を落とすと割れたガラスの破片に自分の顔が映り込んでいた。もう自分にはこれしかない。





あの一件以来コカロはとても明るくなった。
私といるプライベート以外でも、あの犬猿の仲トミーロッドの前でも眩いほどのポジティブなオーラに包まれていた。その変化を周囲は不気味がっていたがあの様子は本来のものでもあるため私はなんの違和感も感じない。ただ少し明るくなり、表情が出やすくなっただけ。時折起こしていた癇癪もなくなり、私が女性と話そうともコカロに構わなくても機嫌を損ねることなくただ普段通りでいてくれた。そう思ってた。

明るさが保ったのは二ヶ月間。
コカロはその後急激に体調を崩した。頭痛を訴え、意識障害を起こし、トミーロッドの攻撃を避けきれず大怪我を負い、身体は衰弱し精神は摩耗する。そんなことが五日続いた。それでも極稀にある体調の変化だと思っていた。


「アルファロ」

──思っていたんです。ボスの視線に気付けず、我に返りボスの前に次の料理を配膳する。並べながら今は皿を下げる者がいないことを思い出し同時に食事の終えた皿を片付ける。どうしてもこの動作に慣れない自分がいた。今になってもひとつひとつの動作に違和感が付きまとう。いつも視界の端にいる存在を探してしまう。それを感じ取ったのかボスも並べられた料理を前に手を動かさなかった。

「アルファロ」
「はい」
「あの部屋は片したのか」
「……本日全て処分致します」
「…そうか」

コカロが死んでひと月が経った。
あまりにも唐突なことで、いえ 今思えば前触れはいくつもあったはずですが、自分が勝手に「300年生きてる中でそんなこともある」と全て見過ごした。その結果、コカロは食事の配膳中に倒れると一度も起き上がることもなく息を引き取った。美食會でありながら病室のベッドの上というとても穏やかで、そして安らかではない死だった。痛みに苦しみながらそれでも最期の最後まで私の手を握り、明るい笑顔のまま死んでいった。コカロに何があったのか?どうして言わなかったのか?何故ああも笑って逝ったのか?いくつもの疑問が渦巻くが何一つ消化できずにひと月が経過し、とうとう持ち主のいない部屋を処分せよと通達がきた。コカロの死を惜しまぬ者がすべて処分してしまう前に、せめて何も言わずに死んでいった部屋から見つけられる物があればとドアノブを握った。

「…入りますよ」

もちろん返答はなく抵抗なく扉は開く。久しぶりに入る部屋は物が多く散乱していた。癇癪を起して暴れた時のように物が散らばっているが生活感もあり、いまコカロが「部屋汚いから見ないで!」と慌てて飛び込んでくる気がした。キッチンからは珈琲の香りがして「アルファロは砂糖1つね」と角砂糖を落とす音が聞こえる気がする。当たり前のようにそこにいる彼女がどこにもいない。ただ任務で遠くに出ているだけのような、ずっと夢をみている気がする。

落ち着くことができず部屋を歩き回り化粧机の前でぎくりと足が止まった。
薬瓶と思われる小さな便が大量に、同じものが50近く並べられている。空のものは転がり積み重ねられ割れているものもあり異様な雰囲気を醸し出している。何故こんなにも。立ちすくみ呆然とそれを見下ろしていたがひやりと冷たい瓶を手に取ってみた。ラベルを確認すると薬品名には「Au revoir」と別れの言葉が。


「……過剰な恋愛感情を抑制する?」


用法用量や効能の中で普通の薬ではみられない言葉の羅列に目が追う。ストーカー対策のために開発――愛情をコントロールする――抑制――そんな文章がラベルにあり言葉を失う。あり得ないような効能に思考が止まりながら、頭に浮かんだのはあの夜のメッセージだった。

──今までありがとう アルファロ。

たった一言だけの優しく悲しい震えた声のメッセージ。まるですべての終わりを告げるような言葉に慌ててこの部屋に駆け付けるも、コカロはソファで寝ているし起きると呆れるほど明るく笑っていた。なんだか生まれ変わった気分 と。案外普通の薬だったのかも と。コカロの笑顔に火花がはじけるように胸を打たれる。声に導かれるように彼女の最期が浮かんでくる。

──アルファロ 見て

病室のベッドから起き上がれなかったあの時も穏やかで優しい声をしていて、体調について問い詰めると話を逸らすように外を見た。コカロを視線を追って窓の外を見えると青空にパラパラと細い雨筋が流れていく。

──天気雨だ ふふ あの時みたいだね

吐息も雨筋のように細く、懐かしむ横顔になにも言えなくなる。コカロとわたしが人間界と決別したあの日も天気雨だった。私にとっては仄暗く苦い罪悪感が付きまとう記憶もコカロにとっては奇跡のように眩い宝物なのだろう。愛おし気に目を瞑っているとしばらくしてコカロは手を握ってとせがんだ。たった数日体調を崩しただけで指は病人のように骨ばっていた。

──この手は あの日からずっと繋がれてて あったかい

これからも繋いでいますよ。あの時に約束したでしょう。と忘れかけていたあの日の言葉を言うとコカロは嬉しそうに笑った。

──ならもう何も怖くないね
──今までありがとう アルファロ

それはまるで最後の言葉のようで、何言ってるんですかと言いかけた。コカロは深く息を吐き出すと眠るように瞼を落とし て 口の端 から 泡が



「っ」

カツン!と手の平から滑り落ちた小瓶が音を立て瞬く間に現実に引き戻された。部屋は変わらず静寂を保っていて目の前には大量の薬瓶が鎮座している。バラバラだったピースがはまっていくのが分かった。その確信を得るために内ポケットから封筒を取り出す。これは美食會の専属医師から渡されたコカロの診断結果だった。コカロの死後どうしても受け入れきれずに自分は病理解剖を求め、先日結果が出たにも関わらず紙を開けずにいた。それを今ようやく開けることができる。

「……そうですね やはりそうでしたか」

目の前にこれだけのものがあって納得せずにはいられない。紙面にははっきりと「drug overdose」と薬物の過剰摂取が記されていた。過剰摂取による副作用は嘔吐・不眠・震え・頭痛・幻聴幻覚・意識障害・記憶障害……。ひとつひとつの確証が降り積もっては現実として重みをもつ。夢をみていた気分から全てが重苦しい現実に塗りつぶされていく。
用紙を閉じソファに全身を預けるとそこはいつもコカロがいる指定席の向かいで沁みついた習慣に苦笑してしまった。ここにいるだけで馴染んだにおいが、手触りが、温度が日常を呼び覚ます。今コカロが甘えるように後ろから擦りついてくるような錯覚を起こす。斜め下で笑顔が膨れっ面が憂い顔がこちらを見上げてる気がする。アルファロ、と名を呼ばれている気がする。

「重症ですね」

これほどの喪失感に陥るとは思わなかった。今まで多くの仲間を看取り踏み付け時には手に掛けてきたが心が乱されることはなかった。だからコカロの死にも変わらずにいられると思ったのですが、コカロは唯一の家族でわたしの妹で──…


「アルファロ様がこうも動揺されるとは」

医師はそう穏やかに言った。息絶えたばかりのコカロの手はまだ温もりがあり眠っているだけにも見えた。口の端に残った泡をふき取り前髪を避けてやる。肌の柔らかさも髪の滑らかさも変わらないのに息だけがない。呼吸で胸が動かない身体は違和感がある。瞼を落とす瞬間まで握っていた手を離すことができず座り続けていると医師は訝しんでいた。そうでしょうね。表向きはただの仕事仲間。同じ給仕に就いた上司と部下にかしか見えていなかったでしょう。でも違うんです。コカロは、コカロは…

「死体はどうされますか?ニトロにでも」
「いえ」

遮るように否定する。ここでは手っ取り早く遺体をニトロもしくは灰汁獣の餌として処理する場合がある。けれどコカロは。丁重に葬ることを望むと医師はやはり意外そうに頷いた。

「火葬の前に、病理解剖を頼めますか」
「解剖を?構いませんが…何故そこまで」
「最期の理由を知りたいんです。コカロは私の、」

言わないでね。とコカロは厳しく言った。自分のためにアルファロのために兄妹と公言しない方がいいと。迷惑になるし面倒になるし周りはどんな反応するかなんて…、なんてね、これは自分のためなんだろうね。そう言っていたコカロは寂し気で小さく見えた。それももう時効でいいですよね?

「妹なんです コカロは、生まれた時からずっと見てきた妹だったんです」

絞りだした声は病室に溶けて消えていく。白い頬を撫でてやるとつるりと柔らかいのに酷く冷たくなっていた。いつだってコカロの手は頬は熱いほどに温もりがあったというのに。離れていくのだと漠然と感じる。
医師は沈黙の後にそうでしたかとひとつ重く頷いた。

「それは寂しくなりますな」

医師の淡々とした声が胸に落ちる。きっと寂しくなる。もうコカロの笑顔も声も温もりも感じ取れなくなり大切に想いを込めるように私を呼ぶ声が聞けなくなる。好きだよ、と囁く声がなくなる。

大好き。ごめん。妹だけどアルファロは嫌だろうけど伝えずにはいられない。応えなくてもいいからただ伝えさせてほしい。今のままで、なにも変わらなくていいからさ。でも付け上がりそう…なんて。ふふ ごめん だって好きなんだもん。

やがてはコカロのすべてが薄れていくでしょう。
コカロ、貴女はあくまで妹でそれ以上の感情を抱くことはありませんでしたが。それでも唯一の大切な妹でした。どんなに我が儘を言っても癇癪を起こしても理不尽を振りまいてもどうしようもないトラウマを抱えても受け入れられない思いを告げても、わたしの妹でした。だからこそ、ひたひたと心を埋め尽くす寂しさが消えることはない。…コカロ。貴女はずっとこんな気持ちだったんでしょうね。大切で愛おしくて心を埋め尽くしているのに届くことはない。湧き上がる気持ちを吐露しても相手に響くことはない。だから諦めて薬を飲んだ。心と脳が壊されるまで飲み続けた。届かないのなら消えてしまえ と。

私も思う いっそ消えてくれ と

小瓶を握りしめ失笑する。これはどうしようもなく湧き上がる感傷に別れを告げたいだけ。でもこの気持ちはコカロのような恋ではない。コカロは、わたしの妹ですからね。世界でたった一人の大切な妹。恋する訳ないじゃないですか。

「―― Au revoir」

溢れて止まないこれは恋ではなくだった。
 

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