5-1



おはよー、と一人きりのつもりで起床と同時に言ったら、サイドテーブルに乗せている籠が動く。
そう言えばピカチュウが居るんだっけと、一緒に暮らし始めてひと月以上は経つのにすっかり忘れていた。

私がこの意味不明な世界に来てから二ヶ月近く。
夢だと思い込むには、私はこの世界に長居し過ぎた。
たった二ヶ月されど二ヶ月……いや、“たった”じゃないよ。
二ヶ月の夢って長すぎるじゃんか。
うん、明らかに長居し過ぎてるよこれ、駄目だね。

カーテンの隙間から暖かな光が漏れ、開くと窓の先はいつもの光景だった。
この高層ビルかよと言いたくなるアパートの47階から見えるのは、爽快な青空と建ち並ぶ摩天楼。
とは言っても、このセントラルエリアは居住区だからビル群もそんな大した数は無く、ここからの眺めは割と開放的で素晴らしい。
でもやはり未来都市風で、こんな景色をいつもの光景だなんて言い切ってしまうようになった訳だ、私は。
もう本当に、この世界の住人になっちゃったんだろうか……怖い。


「んー……もーコノハうるさいよー……」

「おわっ、ピカチュウ。あれ、私なんか言った?」

「何かぐるぐる考えてたんでしょー? 途中から全部声に出てたよー……」


なにそれはずかしい。

知らない間に思考を口に出してしまった恥ずかしさに悶えて床を転がり回る。
うおー私何なんだもういい加減帰りたいよ畜生!
ごろごろと床を転がっていたらテーブルの足に自分の足をぶつけてしまった。
痛い。色々と。

今日はバイトも休みなんだけど、この1ヶ月以上、私は休みの日はずっと部屋から出ずに過ごしていた。
必要に迫られない限り能動的に動きたくないと思っているから。
そしてそれは、単なる怠け心だけじゃなかった。

やっぱり、心の中では。
異世界に来ただなんて認めたくないんだ。
リンクやロイからメールや電話が来て遊びに行こうと誘われたりもしたけど、私は、憧れのキャラからのお誘いだー! なんてはしゃぐ気にはなれなかった。

今、自分は何なんだ?
リンクやロイ達がゲームのキャラなら、今の私もそんな存在じゃないか?
そこには個人の意思なんて微塵も存在してない。
作者や、キャラで妄想する人の意思しか存在せず、“キャラクター自身”には思考を持つ権利も意思を持つ権利も自己を主張する権利も与えられない。
単なる人形だ。

それはとても、とても恐ろしい事だと思う。
誰かが作る物語や設定の中でしか存在できず、創造主の言いなりにしかなれないんだから。
“二次元のキャラクター”というのは得てして、そんな存在なんだ。
そしてキャラクター達は、自分達が誰かの言いなりになっているとは気付かないし想像もしない。
だから、今の私は自分で考えて行動し意思を持っているから、自己を持つ権利の無いキャラクターではない……と証明するには、あまりにも足りな過ぎる。
本気で恐ろしくなってピカチュウに相談すると、呆れた溜め息が返って来た。


「あのねコノハ、そんな事を言ったら元の世界だってそうじゃないか。地球で、日本で生きていたキミが誰にも操られてなかったって、証明できる?」

「……あ、操られてる感じはしなかったし」

「“キャラクターは操られてるとは気付かない”んでしょ、だったら操られてる感じがしないなんて、操られてないという証明にはならないよ」

「……」

「コノハ、キミは今も自分が非日常に居ると思ってるんだよね。違うよ。人は非日常を体験する事は出来ても、非日常に滞在する事は出来ない。どんな事でも体験し続ければ、それは日常になってしまうから」


例えば毎日毎日劇的に環境が変わるのだとしても、“毎日違う環境に変わる”のが日常となってるはず。
その場合、ある日急に前日と同じ環境になればそれが非日常となってしまう。
でも前日と同じ環境が続けばそれが日常になるし、また毎日環境が変わるようになればそれが日常になる。
ピカチュウはそう言う。


「よく異世界にトリップしたいなんて言う人が居るけどさあ、そうやって非日常に憧れても結局はそれが日常になる訳だから。元の世界で上手く過ごせない人が異世界に行った所で、上手く過ごせるはずないよ」

「確かに異世界トリップ、憧れてたけど実際に体験してみるとオススメ出来るようなもんじゃないね……。生きるだけでこんなに大変なんて元の世界と変わり無いもん。バイト経験あって良かったー……」

「ね。そうやって元の世界で色んな体験をして、他人と上手く付き合えるような人じゃないと」

「そ、そんな人じゃなくても、周りの人や環境が変われば元の世界とは違って上手く過ごせるんじゃ?」

「否定はしないけど。そうやって親が悪い友達が悪い大人が悪い環境が悪いと、他人のせいにして自分は悪くないと思ってる人なんて、たかが知れてるよね」

「……手厳しいですなあ」

「もう一回言うけど、環境や周りの人が変われば自分も変われるっていうのは否定しない。ただ変わる本人に変われるだけの資質が無いとね。少なくとも、現実から逃げたいと思ってる人が異世界トリップした所で上手く行かないよ」


それは私もよく分かる。
家族や友達と一緒に居たくない、学校に行きたくない勉強したくない、仕事に行きたくない人付き合いしたくない、そうやって現実から逃げたいと思っている人は異世界に行くのは向いていない。

だって現実から逃げたくて異世界に行っても、結局は異世界での生活が“現実”になるから。
トリップした所でいきなり性格が変わったり顔が変わったりする訳がない。
異世界にトリップしても、そこに居るのは元の世界と同じ“自分”なんだから。
元の世界で学校とか仕事とか人付き合いとか、そういう事がきちんと出来ないと駄目だろうなあきっと。
誤魔化しても、多分どこかでボロが出ると思う。

それに異世界は逃げ場じゃない。いつだって、元の世界と同じか、それ以上の試練や挑戦が溢れている。
こうして出来るだけ憧れのキャラや危険に関わらず生きて行こうと思っている私でさえ、様々な事が起きて常に試されてる。
他人のせいにして自分の悪い点と向き合えない人に変われる資質は無いし、現実から逃げたいだけの人に、異世界トリップした後の生活が上手く行く訳ないんだろうな。

……私は、どうだろう。
元の世界に居た頃から何か変わったのか、それとも全く変わっていないのか。
あんまり自分を客観的に見られないからなあ、どうにも分かり辛い。
私に、改善すべき悪い点があったかどうかも分からない……っていうか、私は決して完璧超人じゃないから山程あるだろうけど。


「はあ……。こんな時こそお母さんやお父さんに会いたいんだけどなあ。あとマナとかケンジとかねえ……」

「……それ、コノハの友達?」

「うん。女友達で一番親友のマナと、男友達で一番親友のケンジだよ」

「……ふーん……」


なんか元気なくなった?
そう言えばこのピカチュウって、ぬいぐるみから実物に変わった訳だけど結局どんな存在なんだろう。
最初からぬいぐるみだったのかな、じゃあ家族も友達も居ないのかな?
ぬいぐるみ事情がよく分かんないから想像つかない。
家族も友達も居ないんだったらあんまりこの子の前で、お母さん達やマナ達の話はしない方が良いのかもしれないなあ。
て言うか、私は友達ポジションじゃないんだろうか。


「あのさピカチュウ」

「なに?」

「私さ、キミの友達って事で良いんだよね?」

「……コノハがそれで良いなら良いけど」

「あ、なんだ良かった! 1ヶ月以上も一緒に暮らしてるのに、何を今更って感じだよね、ありがとー!」


ピカチュウはこの世界で唯一、私が元居た世界を共有できる子だからね。
間違っても失うような事はしたくないんだよ。
自分と同じ価値観を持つ人がただの一人さえ居ないはずだったこの世界で、私と同じ価値観を持って存在しているピカチュウ。
この子の存在は間違いなく私の光明だ。
この子が居てくれるからこそ私は、本当の孤独へ陥らずに済んでいるんだと思う。


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