辞書にのらない
あいをまぜていたいのだろう


煉獄さんに出かけようと誘われるようになったのは、いつからだろうか。

ちょうど仕事で携わっていた画家の生涯を描いた映画をやっていて行きたいなと呟いたのをきっかけに、「明日行くか?」と五人の定期飲み会の席で誘われたのだったっけ。皆もう予定があったので初めて二人きりで会うことになって少し緊張した気がする。友人の友人から最近ようやく友人(仮)というカテゴリーに入ってきたような間柄であったので、付かず離れずの距離でその日は終わった気がする。
それから馴染みの店でライブがあるだとか、美味しい店を見つけたとか、買い物に付き合うとか、そんな感じで二人で出かけるようになったはず。
会えば話も弾むし、女性の扱いを心得ている煉獄さんのエスコートはとてもスマートで感心するほどだ。それにやはり整った顔立ちに長身でしっかりした体つきの彼と連れ立って歩くと、周囲の視線も相まって格好いい男性であると改めて感じた。

二人でいると会話の切れ目や私が話している間、大きな目でじっと見られることが多く、その眼差しがまるで外国映画の俳優のように甘ったるくストレートに好意を向けてくれているように感じてしまうのだった。

私の自意識過剰によるものなのか、彼の通常運転なの、判断がつかない。

この人は私が好きなんだろうかと感じているのは確かである。
しかし彼はそこで立ち止まるのだ。熱い視線を向けてくれながらも確信に迫る手前でふと足を止めてそれ以上は強引に距離を詰めようとしない。二人の間に白線を引きその線を決して踏み越えてこない。
ここを君から超えてきたら、先に進もうと提案されている様でありその度に私は足が竦みただただその白線を見つめるのだった。

たぶん、きっと、そうなのだろう。
心の奥にまだ違う男を住まわせていることを、彼はとっくに気づいている。


それでもこうして誘ってくれるとは実に気が長い人だ。

「七瀬、探していた本は見つかったか?」
「はい、ありました」

はじめは小さな理由をつけていたお出かけも、今ではなんだかんだほぼ毎日続いているラインの中で今日はどうする予定だとか、暇だとどちらかが言うとじゃあ会おうかという流れになる。

好きな作家の画集を探して古書店に立ち寄りつい夢中になっていたけれど煉獄さんは急かすこともなく自身のお仕事兼趣味でもある歴史書の棚で嫌な顔一つせず待っていてくれた。
店を出ると紙袋に入れてもらった本を持つぞ、とやんわりと指から乾いた指先が肌を掠めてが持って行ってしまった。こういうところが本当によくできた男性だと思う。そして同時に、それは誰に躾けられたことなのだろうかと、最近彼の過去の女の人が気になっている。

こんなこと考える時点で私だって煉獄さんに全く気がないわけではないと自分でも自覚している。
それでもまだ白線を踏み越える勇気が出なかった。


何度か二人で利用したことのある20席ほどのカフェに入って窓側のカウンターに並んで座る。街中とは思えない緑に囲まれた空間と美味しいコーヒーを気に入って初めて見つけた時から大好きなお店だった。
お気に入りのものを秘密にしておきたい気持ちと、花園に招き入れて共有したい気持ちが鬩ぎ合った結果、煉獄さんとここを訪れたのだが彼もどうやらなかなか気に入った様で一人でも来ているらしかった。顔馴染みになってきた店員さんに愛想よく手を振られてコーヒーを受け取る。

大して変化のない日常の報告も、彼の口から聞くとどれも気になる内容でもっと聴きたくなる。
お互いの話だけでこれだけ話題が尽きないのはやはりこれが恋だからだろう。決定的な言葉を避けながらも後戻りもさせてくれない、そんな言葉のやりとりで煉獄さんは私を絡めとっていく。いや、私は自分から彼に絡まりに行っているのかも。

「どうかしたか?」
左隣に座った煉獄さんはカップを置いて頬杖を付く。考え込んでしまっていたようで、なんでもないと首を振ってカップを持つと一口舐める様に飲む。熱いものは少し苦手だ。

「ふふっ、君は猫の様だな」

笑いながら煉獄さんはまたカップに指をかけゴクリと見せ付ける様に飲んで見せる。同じタイミングで来たのだから彼のコーヒーだって同じくらいの温度であるはずなのにどうしてこうも簡単に嚥下してしまえるのか。

「どうせ、猫舌です」
「…猫舌じゃなくても、七瀬は猫だな」
「どうして?」

今までも実は猫っぽいと言われたことはある。でも女の子なんてみんな猫だと思う。気まぐれで自分勝手、そういうことだろうとたかを括っていると、煉獄さんはまたあの大きくて優しい目で私の中まで見るみたいにじっと見つめてくる。唇が弧を描き、また熱いコーヒーに口をつける様子がどことなく色っぽい。目線を逸らす様に両手で持ったカップに尖らせた唇をつける
。真っ黒な液体はまだ白い湯気が立っていて少量を口に含むと舌先を火傷した様でシビシビする。

「気品があってツンとして絶対に触らせてくれない。そのくせ気づけば足元に擦り寄ってきて、こちらから抱き上げようとすると逃げられる感じが、猫そのものだ」

やけに具体的な話にもう一度煉獄さんに視線を戻すと、いつもと変わりない表情だった。この曖昧な関係を揶揄っているのだろうか。決して嫌な感じではないけれど、白線の向こうからそろりと手が伸びてきた気がする。

「煉獄さんは猫、と犬だったらどっちがすき?」

猫好き?と口にしそうになって慌てて質問を付け足す。猫っぽいって言われて猫が好きかを訊ねたら、それこそ決定打を自分から投げ込む様なものだ。

「そうだなぁ…大きな犬を飼いたいと昔から夢見てはいる」
「…そう、ゴールデンとか?」
「あぁゴールデンもすきだな、ハスキーやボルゾイなんかもいいけどな。まぁ雑種でもなんでもすきな方なんだ」
煉獄さんが公園で大きなわんこを散歩させている姿はなんとなく容易に想像ができる。尻尾がぱたぱたと振る可愛い子を連れているその横に何故か自分を想像してしまった。なにをやっているのだ、、痴がましいと頬が熱くなる。
「いいよねぇ、ふかふかの毛皮と一緒にお昼寝とかしたいな」
「いいな、それ」

ドギマギした心音を落ち着かせるためにまた一口、コーヒーを飲む。ちょうど良い温度になったことに安心してもう一口カップを傾ける。あ、髪が唇につきそうだと気づいた時、煉獄さんの指先が左の頬を掠める。長い指が溢れた髪を耳にかけて離れていくまでがスローモーションみたい。煉獄さんの動作一つでまた心音が速くなって息が詰まる。

「…猫を飼ったら」
「ん?」
「普段見せない少し抜けたところや、甘えたな可愛らしい一面も見せてくれるんだろうなぁ」

あんまりさらっと言うから意味が遅れて頭に入ってくる。熱の引かない顔で煉獄さんを見ると余裕たっぷりの表情で、振り回されているのは私ばかりの様な気がする。彼が私を好きなのなら、私の方が気持ち的に優位のはずなのに、何故。


「…煉獄さんも猫です」

悔し紛れの言葉を、彼は笑顔で受け止めた。



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