辞書にのらない
まだらな支配とかん違い


煉獄杏寿郎の朝は早い。
5時半の目覚ましが鳴る前にぱちりと目を覚まし、手探りでベッドボードのスマホを掴みアラームを切る。
もぞりと隣で眠る七瀬が寒いと言いたげに身じろぎする様子に掛け布団を少し引っ張って掛け直し、眠りの邪魔をしないようにそろりと寝室を出る。彼女は朝が苦手である。同じベッドで眠るようになってよく分かったが、基本的に朝はぼんやりしているし準備が間に合うぎりぎりまでベッドに居たいようであった。

ランニング用のスポーツウェアに着替えて簡単に身支度をして家を出ると、まだ薄暗く、明けきらぬ朝の気配がそこかしこに影を落としていた。人の気配が少ない早朝の澄んだ気配が杏寿郎は好きであった。
七瀬がよく聞くので覚えたしまった外国人の男性ボーカルの歌をイヤホンから流し走り始める。
こうして体を動かせばよりはっきりと頭が覚醒していく。今日も1日が始まるのだと。

「ん、おはよう」
「おはよう。今日もいい天気になりそうだ」
「そう…」

30分間のランニングを終えて家に戻ると七瀬が起き出して日課のコーヒーを淹れていた。
会話にはなるけれど、目をしぱしぱと瞬きパジャマでカップを持つ七瀬はまだぼんやりとしている。一緒に住むようになりこういう気の抜けた姿を見れることも杏寿郎には嬉しく、愛おしかった。
コーヒーを飲み終わる頃にはのろのろ
と準備し始める七瀬をリビングに残しシャワーを浴びる。
浴室には小洒落たボトルやチューブが一気に増え、唯一共有で使うボディソープもいつのまにか七瀬愛用のムスクのような甘い香りのものになっていた。前までは七瀬の素肌から感じていたものだが、今では二人同じ香りになったことがこそばゆかった。

シャワーを終えてドライヤーをかけていると、七瀬が出勤着に着替えて洗面所に顔を出す。
ぴったりした水色のレースのタイトスカートに、袖がひらりとした鎖骨が見える艶やかなアイボリーのブラウス姿に巷の会社員の出勤着は可愛すぎないか?と頭を抱えたくなる。

「コテあっためてもいい?」
「あぁ、もう準備したぞ」
「えっ、ありがとう…煉獄さんは朝から気が利いてすごい」

いつも洗面所を入れ違いで使うので、彼女の長い髪に芸術的なうねりを生み出すコテは既にコンセントに刺し温めておいた。じゃあお弁当詰めちゃうね、とリビングに引っ込んだ七瀬は昨晩の残りのおかずとプチトマトや卵焼きの詰まった可愛らしいサイズのお弁当をほぼ毎朝作っている。同棲後、俺の分も良かったらと申し出てくれた七瀬は、彼女のお弁当箱の倍ほどの大きさの箱に同じものを詰めてくれる。今までコンビニのお弁当やカップ麺を食していた俺が弁当箱を持参したことで、職員室で話題になったことはまだ記憶に新しい。

乾いた髪を整えてクローゼットに向かうと、お弁当を詰め終わった七瀬が洗面所にパタパタと入る。
素顔でも可愛らしいと思うが、洗面台の裏を占拠した小さな英語の書かれた何種類ものスキンケア用品や、一体何に使うのか到底理解できない化粧道具の詰まったポーチでキリッとした仕事モードの七瀬が作られているようである。
いやはや女性は毎朝大変である。

クローゼットの中でネクタイを選んでベルトを通し身支度を整える。
リビングに戻って七瀬が詰めてくれたお弁当を彼女が買ってきた可愛らしい柄のお弁当包みで包み、色違いの水筒に暖かいお茶を注ぐ。朝食のトーストをセットしてテレビをつけると6時45分であった。いつもどおり天気予報を聞いているとチンとトーストが焼けた合図が鳴った。

「七瀬は朝ごはんどうする?」
「今日はヨーグルト」
「野菜ジュースは?」
「欲しい!」

自分のトーストにバターを塗って、オレンジ色が鮮やかなジュースを2人分用意すると、すっかり仕事モードの七瀬がキッチンへやってきた。今日はハーフアップに結われたゆるいウェーブがよく似合っていた。毎朝七瀬の可愛らしい出勤着に衝撃と、不埒な男に声を掛けられてやしないかと不安を感じているのは内緒だ。

「ん?なぁに?」
「…今日も可愛いと思ってな!」
「へぇっ?!そうかなぁ、、普通だよ?」

すりっと頬を撫でてからリップ音を立ててキスすると照れた七瀬がそわそわとコップを受け取り、冷蔵庫からさっとヨーグルトを取り出してテーブルに逃げてしまった。
七瀬の後を追うようにテーブルにトーストとカップを運び、向かいに座る。
まだ耳が赤い七瀬と二人で手を合わせて「いただきます」と呟くと、テレビからは占いが始まっていた。

「毎朝、順位つけられるのやだなぁ」
「占い気にしていたのか?」
「うーん、悪いこと言われると気になる。煉獄さんは?」
「気にしたことないな」
「そうだろうね。あ、牡牛座最下位だね」
「よもや…知ってしまうと気分が下がるものだな…」
「ふふ、さぁ今日1日気をつけるのだよ、煉獄くん」

くすくす笑いながらフルーツが入ったヨーグルトのカップを食べ終えた七瀬に合わせて、自分もトーストを食べきってしまう。いつもながらそんな少量で足りるらしい七瀬の胃はどうなっているのか不思議だ。

並んで歯磨きをして荷物を詰めたりこまごまとした身支度を確認し終えると、二人揃って7時半前に家を出る。
七瀬は電車通勤なので朝は駅まで彼女を送ってから車で職場である鬼滅学園に向かうのが通勤ルートとなっている。
そろそろハイブリッドに変えようかと検討中である父親のお古のセダンのエンジンをブオンとかけると同時に助手席に七瀬が滑り込んできた。

「今日は晩御飯なにがいい?」
「肉ならなんでもいい!」
「またお肉ですか…じゃあ鳥か豚で、スーパーの特売の方にするね」
「ありがとう!」
「春だし山菜とかも食べたいけど、あんまり売ってないの」
「野菜はさつまいもがすきだな」
「ふふっ、煉獄さんはさつまいもか、それ以外だものね」

ロータリーに車を止めて助手席を見やれば、ドアを開けた七瀬が行ってきますと笑顔で手を振ってくれる。
行ってらっしゃい、煉獄さんもね、と一言二言言葉を交わして、ロータリーを出発し学校へと向かう。
今日は1限から6限までみっちり詰まっているので体力勝負である。頑張らねば。



「疲れた!昼休みだ!」
職員室に戻って、自分の席に着くと既に戻ってきていたデスクが同じ島である宇髄と伊黒から責められてしまった。
「うっせーわ煉獄」
「お前もだ宇髄、静かに出来ないのか」
宇髄は料理好き、伊黒は添加物が嫌いなので二人とも自炊派であり、ここは男性ばかりのデスクだがお弁当が広げられることが多かった。

「また今日も七瀬の手作りか。けっ、この前までカップ麺に世話になってたくせに」
「そうだ!毎朝頑張ってくれているぞ」
「そりゃおめでたいこって」
3人でなんやかんやと話しながら箸を進める昼食時間は、可能な限り仕事から頭を切り替える。もちろん生徒が相談に来ることもあるのでそういう時は生徒優先である。

「甘露寺から次の飲み会の店を聞かれているんだが。日本酒かビールどちらがいい?」
「「日本酒」」
「そうか、甘露寺のすきな方にするよう言っておく」
「聞く意味ないじゃねーかよ」

お酒がすきな3人なので月に一度か二度、金曜の夜に飲みに行くのが恒例である。ここに不死川や胡蝶が参加することもあるが基本的には3人だ。そしてこの会に1年ほど前から甘露寺と七瀬が加わるようになった。きっかけは長くなるのでまた別の話で話そう。

「甘露寺のおすすめの店見せろよ」
「はぁ?見せてください伊黒先生だろう」
ネチネチ言いながらもラインのアプリからレストラン検索サイトのURLに飛んで見せてくれる伊黒は優しい。
「あーーこりゃ、ここだわ」
「む、新潟の地酒が揃っているな!宇髄の好みだな!」
「しっぽり刺身といただくのがいいよなぁ」
大の男が額をくっつけあってスマートフォンを覗きこんでいると、両脇の2人がふと怪訝そうな顔でこちらを見る。
「どうした?何かついているのか?」
「ん?んん?」
すんすんと鼻を鳴らす宇髄が首元に顔を寄せてくる。
なんだというのだ。少し恥ずかしいぞ。
「い、伊黒、助けてくれ」
反対に首を回すと伊黒までがすんと鼻を首元に近づけていた。
「どうしたんだ2人とも!」

「煉獄、なんでお前こんないい香りすんだ?これ目をつぶれば美女じゃねぇか」
「女子生徒のような香りはなんだ。まさか手を出したわけではないだろうが」
二人の指摘にシャツの香りを嗅いでみたけれど、分からない。
なんだ、俺からはどんな香りがするんだろうか。

「煉獄先生、社会科準備室の鍵貸してください」
「竈門、あぁ次は君のクラスだったな」
会話の最中にガラリと職員室に入ってきた竈門は、はきはきと話す好青年である。職員室でも人気者だ。
日本地図を日直に準備してもらうために準備室の鍵を引き出しから取り出し、竈門に渡すと彼もまたくんくんと鼻をならす。

「竈門、お前確か鼻いいよな。煉獄先生まじやべぇだろ?女子力」
ぷぷと笑いながら茶茶を入れる宇髄にやめろと言うが肩が揺れている。

「…これは鬼滅堂の新作フレグランス柔軟剤ですね。妹がすきなのでうちも母さんたちは同じものを使っているのでわかります!」
「そ、そういえばそうかもしれん!」
「メーカーまで当てんのかよ、こえーな」
「良い香りですよね!思わず抱きしめたくなっちゃうような…あっ!先生をって意味じゃないですよ!」

慌てて否定して失礼しました!と脱兎ごとく職員室を出て行った竈門の言葉ではっとする。
「抱きしめたい香り・・・よかったな煉獄」
伊黒と宇髄が下を向いて肩を揺らす姿にイラっとしながら今日の帰りにドラックストアに行くことを決意する。

これはだめだ、七瀬すまないが明日からは鬼滅堂はだめだ!


「ただいま」
「おかえりなさい、煉獄さん」

だいたい俺よりも先に帰って夕食の準備をしてくれている七瀬が玄関まで出迎えてくれる。
ぎゅっと抱きついてきてくれる七瀬を両腕で抱きしめ返すと、がさがさとビニールの擦れる音がした。

「お買い物してきたの?」

なになに?と袋を受け取って中をみる七瀬とリビングに行くと美味しそうな肉じゃがの匂いが漂っていた。

「柔軟剤?まだあるよ?」
「いや、すまないがあれは使用禁止だ」
「え、どうして?」

今までにない否定の言葉に七瀬が困惑の表情を浮かべる。
なんでもすきにして良いとは言ってきたが、あんなに男性が寄ってくる(しかも男の俺に!)香りを可愛らしい彼女が振り撒けばどうなることか。

「いや、そのなんというか、もう少し爽やかな香りの方が良いのではないだろうか」
「あ…ごめんなさい気づかなくて。香りも好みあるものね」

明日からこっちでお洗濯するね、と噂の鬼滅堂の柔軟剤を避けて、洗濯用品の棚に封を切って買ってきたばかりの青と緑が中心のシトラスの香りのボトルを並べてくれた。どちらかと言うと男性向けの商品だと店員にも確認したので大丈夫だろう!

「あと少し残っちゃったな…あ、私の分だけ別で洗って使い切っちゃおうかな」
「えっ!」
「え?」
「あーー、そうだ、今週末にシーツと布団カバーを洗おう!それで使い切ろう!」


こうしてなんとか柔軟剤問題は解決したのであった。
もちろん柔軟剤だけが七瀬の魅力的な香りの正体ではないし、香水もシャンプーもボディソープもボディクリームもどれも七瀬から香るものは全て蠱惑的に感じてしまうので根本的解決は不可能である。
しかし女性らしい男性陣がすきな七瀬の香りは俺だけが知っていれば良いのである。

この晩、煉獄杏寿郎は「男と暮らしてます」という香りを作り上げると決意を固めたのである。



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