辞書にのらない
like heave


これがダメだったからとか、あれが失敗したからとか、そんな明確な原因は何もなかったのだ。

いつもの電車が混んでいて会社の最寄り駅に着くまで変な姿勢でつり革を掴んでいたこととか。
予約したドラマが録画できていなかったこととか。
週末のデートが雨で中止になったこととか。
誰かがやる仕事の誰かが毎回自分だったこととか。
そんな小さい疲れた、やだなぁ、という自分の心のため息がどんどんとつもって、仕事を終えた身体は水を吸ったスポンジのように重たかった。

週も後半に差し掛かったのに、週末を期待する気分にもなれず、電車の窓から見える灯りをぼんやりと眺めていた。気に入って買った今季の新作のパンプスも今は1日働いた足首に絡みつく鎖のようだ。会社のロッカーに置いているスニーカーに履き替えてから帰ればよかった。
電車の揺れに合わせてふらついた足元でこつりとヒールが鳴る。このこつこつというヒールの音がすると、煉獄さんは私だと思うようになったと言っていた。溌剌とした彼が照れた時の目線を落とす仕草を思い出して、日中貼り付けていた笑顔のせいで強張っていた顔から少し力が抜けた。

はやく家に帰ろう。
煉獄さんと私の二人だけの、幸せが全て詰まっているあの空間に帰って、ご飯を作ったら長めにお風呂に入ろう。そうすればもう少し、ましな顔で煉獄さんの帰りを迎えてあげられるだろうから。




「ただいま!」

かちゃりと鍵を開ける音がして、煉獄さんのよく通るクリアな声が響いた。
湯船で何を考えるでも無くぼんやりと温めのお湯に浸かっている時だったので、慌てて体を起こし浴室の扉を薄く開いて声をかける。

「おかえりなさい。いまお風呂なの、すぐ上がるね」

扉越しにに手洗いのジャーという流水音の上から、ゆっくりしていてくれ、と煉獄さんの声が返って来た。ありがたい言葉だったけれどそろそろ上気せそうになっていたので、リビングの方へ出て行った煉獄さんと交代で洗面所に出て身支度を整える。
濡れたままの髪がパジャマにつかないよう、バスタオルを肩にかけてリビングに行くと、部屋着に着替えた煉獄さんが晩ご飯を覗きにキッチンに立っていた。

「ごめんなさい、お腹すいたよね」

パタパタとスリッパでキッチンの煉獄さんの元に行くと、徐ろに大きな手に頬を包まれた。耳元や頬骨を確認するように硬い親指が撫でていくのを不思議に思いながら煉獄さんを見上げると、ぱっちりとしたオレンジ色の大きな目がじっとこちらの瞳を覗き込んできた。お日様色の金環のある不思議な目で瞬きもせずに見つめられると、見えるはずないのに心の中を見られているんじゃないかと思う。

「先に七瀬の髪を乾かそう」
「え?」
「ほら、おいで」

いつもなら心底楽しみだというように晩ご飯の献立を知りたがるのに、煉獄さんはキッチンに背を向けると洗面所からドライヤーを取って来た。呆けていた私の手を掴んでリビングのソファまで連れてくると、ソファに座った煉獄さんの足の間に座るように手を引かれる。そのままラグの上に座り込むと、ドライヤーの風音が鳴り出し、後ろから大きな手が髪を左右に揺らしながら風を当てて乾かしてくれる。濡れた髪を持ち上げたり、地肌を優しく撫でていく指先が心地よくて、三角座りをしたまま身を委ねてしまった。
しばらくすると長い髪を丁寧に乾かしてくれる大きな手が、頭を撫でてくれているような気になってくる。よしよしと猫でも撫でるように、五本の指が柔らかく動くのだ。男の人の硬くしっかりした指だということを忘れてしまうほど、優しく丁寧に触れてくれるのでうっとりと瞼を閉じる。
面と向かって頭を撫でて欲しいだなんてお願いするのは少し恥ずかしいけれど、こうして髪を乾かしてもらうという行為でそれを代替できてしまうのだとは知らなかった。

「さらさらだなぁ、七瀬の髪は」

冷風モードになったドライヤーで毛先まで指で軽く引っ張るように風を当ててくれる煉獄さんがしみじみと呟く。

「煉獄さんが乾かしてくれたからだよ」
「そうだろうか?」

かちりとスイッチを切る音がしたので髪を手櫛で確認しながら煉獄さんを振り返ると、まだその長い指先で髪を弄んでいた。

「ありがとう、煉獄さん」
「ん。いいんだ…大丈夫か?」

触っていた髪から離した煉獄さんの大きな掌でもう一度頬を撫でられる。真っ直ぐな瞳に見つめられるとうっかり涙が出そうだ。声を出すと泣いてしまいそうなので、こくんと一つ肯く。煉獄さんは困ったように眉を下げて苦笑いを浮かべた。

「七瀬」

低い声で呼ばれるとソファに座る煉獄さんに、小さい子を抱き上げるみたいに持ち上げられる。

「わっ!」
「よいしょっと…む、少し痩せたのか?」

驚いて目を白黒しているうちに煉獄さんの体に体重を預けるように抱えられて二人でソファに体を横たえる。ぎゅうと力強く私の体を抱きしめる腕の中で徐々に力が抜けていき、歴史の先生とは思えない逞しい胸板に頬をつける。規則的な心音を耳にして、目を閉じる。

「…お腹、すいてるでしょう?」
「すいてないといえば嘘になるのだが…君と少しくらいこうしてからでもいいさ」

そんなことを言いながら、ちゅと額に唇を寄せる煉獄さんは満足したようにその口角をあげた。

本当に、この人は私の甘やかし方をよく心得ている。

どうしたのかと聞き出すこともせず、その大きな腕の中に包み込んで、心底大事だというように扱ってくれるのだ。
幸福感と安心感がこぽりと心の奥から溢れ出すと、もやもやとした嫌なものが少しづつ薄れていく。胸の奥に溜まっていた淀んだ空気を固めた風船が一つづつ、パチンと弾けてその形を失くしていった。

「さっきまでお腹すいてなかったのに、煉獄さんが帰って来たらお腹すいてきたかも」
「ははっ、それは良かった…一緒に君の作ったご飯を食べよう」
「うん」

お風呂で温もった体よりもさらにあたたかい煉獄さんの体は、香水と一緒に仕事帰りの少しくたびれた男の人の匂いがする。決して嫌ではないその匂いを吸い込んで目を開けると、頬が自然に笑みを浮かべることができた。


上半身を起こして煉獄さんの頬にありがとうの意味を込めてキスをすると、きゅう、と煉獄さんのお腹が空腹を訴えた。


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