辞書にのらない
どしゃぶりの真ん中で


朝倉七瀬を一目見た時から俺はきっと惹かれていたのだと思う。

話す言葉の選び方や、髪を耳にかける仕草、女性らしく整えられた扇状の長い睫毛に艶めいた唇。それら一つ一つを目で、耳で、感覚器官の全てを総動員して、追いかけてしまうようになるのにそう時間はかからなかった。

ティーンエイジャーをとっくの昔に卒業した大人の恋は、それなりに駆け引きもあって楽しいものだ。
七瀬はそういうことに慣れている様にみえて、時に初心な少女の様に頬を染めて素直な反応をする。それが堪らなくて、どんどん彼女にはまってしまうのだ。
しかし、憎からず思っていることは分かっていたが、決定的一歩を拒む様な七瀬の態度にこちらも足を止めざるを得なかった。
ここで無理やり押し切って気持ちを伝えれば、彼女は自分の前から姿を消すだろう。もう二度と、会ってはくれない。そんな予感めいたものを感じていた。
だから七瀬がこの手をとってくれるまで、彼女の不安や恐れを無くしてやりたいと心に決めたのだ。それが時間のかかることだと、面倒なことだと分かっていた。
そして、彼女の心に他の男の残像が残っていることも。

それでも時間をかけて、彼女に会う事でしか伝えられない事がこの世にはあると、俺は知っているから。


「煉獄さん、この間お借りした本面白かったです」
「そうか、それはよかった」

ちょうど二人の住まいの中間地点である駅から少し歩いたところにあるカフェはもう常連となっていた。大きな窓の前のカウンター席に並んで二人であれやこれやととめどなく話す。そんな休日ももう何度目だろうか。

来年映画化の決まった時代物の原作小説を、カウンターのテーブルに置いて感想を言い合いながらコーヒーを飲む。歴史に最近興味を持ち始めた七瀬の質問に答えながら、ぼんやりと宇髄の言葉を思い出す。早く付き合え、と昔馴染みの友人から急かされてしまった。七瀬は彼に何か言った様だったが、その話は二人の議題には上がらなかった。

「映画化したら、一緒に観に行きませんか?」

七瀬から笑顔で提案され、もちろんだと返す。
一週間先、一ヶ月先、一年先まで君との予定が詰まっていれば、それだけ七瀬と一緒にいる事ができると安心できる。少し遠い未来の約束が、それまではこうして俺とあってくれるのだという確約の様で、嬉しかった。
じゃあ初日に行きましょうね、約束ですよと七瀬が映画の公式サイトを見せる。スマホに予定を打ち込む七瀬と違い、今でも紙とペンを愛用する杏寿郎は、鞄から取り出した今年の手帳の残り少ないページに手を止める。

「そういえば、もうそろそろ手帳を買わないとな」
「手帳って格好いいですよね」
「そうだろうか?」

飴色に変わった革の手帳は毎年中身を入れ変えながら、ずいぶん長い間使っている。今時アナログだと、職員室でからかわれたこともあるくらいだが、どうも文字は直接書く方が覚えていられるようで、この習慣をやめる予定は今のところない。

「男の人の仕事道具って感じです。ジェームズ・ボンドみたい」
「諜報機関で働けるだろうか」
「ふふふ、煉獄さんなら剣術で敵をやっつけちゃえますよ」
「じゃあ君は敵側の送り込んできた女スパイでもやるか?」

七瀬はぱちぱちと目を瞬いた後、徐ろに脚を組んで頬に手を当てると澄ました顔でぱちりとウィンクを飛ばしてきた。

「どうですか?できそうですか?」

いつもより気の強そうなツンとした顔をして見せる彼女の可愛らしい仕草に、思わず笑ってしまう。七瀬は頬を赤くしながら、むくれてしまった。

「笑うほどダメってことですか」
「いや、こんな可愛らしいスパイならボンドも陥落するだろう」

瞬時に耳まで赤くなる七瀬の様子に、抱きしめたいと思う。彼女の華奢な肩に伸びそうになる手を、押さえつける様に握り拳を作る。
君に触れたい、そう言ってしまえばきっと彼女は真っ赤な顔をしながらも、瞳を陰らせるのだろう。どうすれば七瀬に信用してもらえるのだろうかと、杏寿郎は頭を悩ませた。


ほてった顔を冷ます様に指先で両頬を触っていた七瀬が、手帳を買いにいきましょう、とそそくさと空になったコーヒーカップを二人分カウンターに返却に行く。

決定打を打たせないように、少しでも俺が彼女に熱を向ければすぐに逃げてしまう。追いかけると逃げるものだと分かっていながらも、すでにどっぷり七瀬にはまった俺は追いかけるしかできないのだ。

「さ、さむい!」
「寒いな!」

外気は温もった体にはひどく冷たく感じられた。二人で並んで歩きながらマフラーをきつく結んで歩き出す。イルミネーションが至る所に施された街中は、人で溢れるほどだ。七瀬が人とぶつからない様に気をつけながら、大型の文房具専門店を目指す。クリスマスシーズンの百貨店のショーウィンドウを眺めながら、七瀬が欲しいものをさりげなく聞きていると、ぴたりと七瀬が足を止めた。

「七瀬?」
「朝倉くん?」

杏寿郎の声に被さる様に、前方から低い声が響く。血色の良かった七瀬の表情が強張る様子に、何事だろうかと声の元に目を向ける。品の良さそうな紳士と、その男と腕を組む女性の姿に、知り合いだろうかともう一度七瀬に視線を戻す。そこには先ほどの氷の様な固い表情は既になく、口角を上げて上品な微笑みを浮かべていた。

「先生、ご無沙汰しております」
「あぁ。元気そうだね」
「あなた、お仕事の方?」
「コンサルティング会社の社員さんでね。次の個展も彼女の会社に頼む予定だ」

和やかに交わされる会話に、彼女の仕事の関係者なのだと理解しながらも七瀬から感じる違和感を拭えず、失礼だと分かりながらも目の前の男をじっと観察する。

「次の個展も楽しみにしています」
「あぁ、社長にもよろしく」

姿勢を正して目礼する七瀬を通り越して、杏寿郎の目を悠然と見返す男に、この男だ、と直感する。

「七瀬、行こう」

別れる際、彼女に向けられる視線を断ち切るように七瀬の肩に手を回す。男に背を向けた途端、表情が抜け落ちた七瀬はその手を振り払うこともなく、こくんと小さく肯くだけだった。

怒っているのか、悲しいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、自分でない、あんな男に七瀬が傷つけられているということが、やるせなかった。



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