辞書にのらない
夏を齧る


「わぁ、海!」
「きゃー!海ねー!」

七瀬と甘露寺のきゃいきゃいといした黄色い声が後部座席から上がる。クーラーの効いた車内と灼熱の炎天下とを隔てる窓をウィーンと下げたのは七瀬か甘露寺なのか。熱風がむわりと潮の香りとともに車内になだれ込む。二人の長い髪が風に煽られてぱたぱたとそれぞれの白い頬に当たっていた。

「あちぃから気が済んだら閉めろ」

運転席の宇髄の声にはーい、と二人揃って返事をする様を助手席からバックミラー越しに確認する。
「煉獄、のみもんちょーだい」
運転中の宇髄が前を向いたまま左手を差し出してくるので、先ほどドライブスルーで購入したアイスコーヒーをその手に渡す。すっかり汗をかいたプラスチックの容器はもう半分以上入ってないのでこれでは足りないかもしれない。
「七瀬、すまないがペットボトルを一つ取ってくれ」
「うん、何がいい?コーラ?お茶?」
「コーラ」
ごそごそと足元に積んだ食料の詰まったクーラーボックスを漁ってくれる七瀬に宇髄が返事をする。
「あ、宇髄さんのね、はい」
宇髄がサンキュ、と空になった容器を返してきたのと入れ違いで七瀬から、受け取ったペットボトルを軽く開けてから手渡す。あー炭酸最高ーと宇髄がグビグビと飲み始める。よく炭酸飲料をあんなに一気に飲めるなぁと感心する。
「甘露寺、悪いが俺も飲み物をもらえるか」
「もちろんよ、伊黒さんはお茶がいいかしら?」
「ありがとう」
ワゴン車の3列シートの一番後ろを陣取った伊黒は眠たそうに目を擦っていた。出発する時から眠るから後ろがいいと言い出しただけあって熟睡だった。甘露寺との海とあって、昨夜は気合を入れて仕事を片付けてきたのだろう。かく言うこちらもなんとしても呼び出しなど食らいたくないので昨日は夏休みの静かな学校へ出勤していた。

「煉獄さん、ゴミもらうよ」
「ありがとう」
首を捻って七瀬に空いた容器を手渡す。少しだけ触れた手を周りから見えないように指先で撫でると七瀬がぴくりと反応する。表情だけで、もう、と可愛らしい抗議を表して手を引っ込められてしまった。

「それにしても、宇髄さんが本当に車出してくれるなんて思わなかったわぁ」
「あぁ?お前らが海行きたいって騒ぐからだろうが」
「だって、二人で水着買っちゃったんだもの
ね、七瀬ちゃん」
「そうなの、思わずね」

二人してにこにことご機嫌なのはいいのだが、そう、この水着が今回の発端である。
買い物に行って水着を買ってきたらしく、蜜璃ちゃんとプール行こうかな、と軽く言い放った七瀬に食後の洗い物を危うく落とすところであった。そんな隠すところもないような格好で二人で行かせるわけにはいかないと、それならばみんなで海に行こうと提案すると、キラキラした目で行きたい!と話にのってきてくれたのだ。
七瀬と甘露寺と三人では伊黒に申し訳ないなと思い昼休みに声をかけると、宇髄まで行きたいと言い出したのだ。
職員室で夏休みらしい夏休みの予定を立て始めるとどんどん盛り上がりその日のうちに海辺のコテージも予約してしまった。


大学を卒業してからはなかなか縁がなかったが、こうして来てみると潮風と青い海は眠っていた少年心を擽られる。
五人で荷物を今夜の宿であるコテージに運び入れ、早速海に行こうと準備に取り掛かる。最近人気のグランピングにパラソルやビーチのシートなど海辺の備品も込み込みの宿泊料金は夏休みということで些か割高ではあったが、一度盛り上がった熱を冷ます程の障害ではなかった。

「飲み物だけでいいだろうか?」
「そうだな、屋台で飯買うだろ?磯焼きうまいよな〜」
「俺は貝は食べない」
「また食わず嫌いかよ…伊黒の分は全部甘露寺が食うだろ」
「宇髄、スイカ割りするんじゃなかったのか」
「おお、そうだったな。やるやる」

男の着替えなどものの数分ですんでしまう。水着に履き替えて、半袖シャツを羽織ってしまいである。伊黒はこんな時でも長袖を来ているが、団扇や日焼け止めの入ったトートバッグと浮き輪を持ちそわそわとしているので存外この海を楽しみにしていたようだ。
宇髄は全くもって教師には見えない、むしろ的屋の兄さんに見える格好で、サングラスをかけてこれでもかと荷物を持ってくれた。体格がいいのでクーラーボックスもスイカもタオルも抱えているのに、辛そうには見えないのがすごい。

もうあとは出るだけだというところで七瀬と甘露寺の登場を待っていると、ガチャっと女性陣の部屋の扉が開く。

「お待たせ」

二人は色違いの水着を買ったようで、上下に分かれた水着からはきゅっとしたくびれとおへそが見える。下着ほど面積が少ないものだったらと危惧していたが、キャミソールのようにひらりとした素材の上と、ショートパンツのような下の水着は際どい短さだが、思っていたよりは肌が隠れていて安心してしまった。


「おー!似合ってんじゃねーか!やっぱ女は肌出してこーぜ!」
「あらぁ宇髄さんありがとう!」
「宇髄さん、海の家の人みたい…」

一番に七瀬を褒めようと思っていたのに宇髄に先を越されてしまった。宇髄からこちらに目線を向けた七瀬は目が合うと恥ずかしそうにはにかんだ。可愛いがすぎるぞ!と腕の中に隠してしまいたい気持ちと、同僚の手前だということが胸の中でぐるぐるとせめぎ合う。

「うし、じゃあ行くか!」

宇髄の号令でコテージから、すぐそこのビーチまで歩き始めると真夏のからりとした太陽が肌に刺さる。
甘露寺を真ん中に伊黒と宇髄が前を行くので、七瀬と並んでその少し後を歩く。ビーチから飛んできた白い砂が薄らとつもったアスファルトは熱気でもやもやとしている。

「夏の日差しだねぇ、煉獄さん帽子なくて大丈夫?」
「あぁ、髪を縛ってしまったからな」
「一つ縛り…格好いいよ」
「…揶揄わないでくれ」

不意打ちで七瀬が背伸びして耳元に唇を寄せるものだから、どきりとして誤魔化すように右肩のジュースやら缶ビールやらの詰まったクーラーボックスを背負い直す。

「あの、煉獄さん。水着どうかな…?」

くん、とシャツの裾を引かれて足を止めると七瀬が恥ずかしそうに頬を染めて見上げてくる。普段なら絶対に野外で見えないところがこうも日の光の下に晒されていることに、何とも言えず落ち着かない。
身長差もあり自然と華奢な肩や柔らかそうな二の腕、そして慎ましい谷間、果てはまろやかなヒップのラインを目で辿って、はぁと一つ息を吐く。

「うん、可愛い…世界一可愛い。よく似合っている」

口元を左手で隠してどうにか返事をすると、目に見えて七瀬の頬がぽぽっと色づいた。

「ありがとう」

少し早口に言葉にした彼女の照れた顔に、もう一度可愛い、と口にしてしまう。外見ももちろん可愛らしいのだが、こうして自分の言葉に対して素直に感情を表してくれるところが、胸が苦しいくらい可愛いのだ。

二人して照れあっていると、前を行く三人から早く来いとどやされてしまった。目を合わせてくすりと笑った七瀬と、ビーチサンダルをぺたぺたと鳴らして駆け出した。



2本のパラソルが作る円形の影の中で海の家で仕入れた昼食を五人であっという間に食べ終える。イカ焼きや海老や貝の磯焼きに焼きそばまでどっさり買ったのにいつの間にか全部なくなっている。早い段階から七瀬と伊黒の手にはお箸からお茶に変わったというのに、どうしてこのメンバーの食事は毎度こうなるのだろうか。

「飯食ったし海入るか!ビール飲みてぇから先に一通り泳ぐか」
「うんうん、行こう!」

待ち切れないとばかりの甘露寺がそわそわと浮き輪を手に波打ち際に目を向ける。

「甘露寺が行くなら、俺も行く」

陽射しなんて大嫌いだと宣言していた伊黒が嘘のようだ。七瀬も同じことを思ったのか、こちらを見上げて無言で目を瞬いている。

「ん。七瀬、俺たちも行こう」

手を差し出すと、七瀬がうん、と笑顔で握りかえしてくれた。もう片方の手で浮き輪を持つと、二人で手を繋いですぐそこの波打ち際まで行き、そっと足を浸けるとひんやりとしていた。


「わっ思ったより冷たい」
「ひんやりしているな」

裸足の足にぱしゃんとゆったりした波が打ち付ける。引いていく白い波に誘われるように足を進めるとあっという間に腰の辺りまで浸かってしまう。
太陽の光を反射してきらきらとひかる海面を覗き込むと自分の足までよくに見えた。

「煉獄さん、まだ足着く?」
「ん、もうちょっとで着かなくなりそうだ、っと」
「わっ波に押されちゃうね、煉獄さんも掴まっててね」

七瀬を浮き輪に入れて、少し深いところまで引っ張っていくとビーチの喧騒も遠くなる。浮き輪に上半身を預けた七瀬と向かい合うように浮き輪に腕を乗せて二人してぷかぷかと浮かぶ。時たま来る大きな波でふわりと体が浮かぶ感覚が心地よい。

「夏だな!」
「うん、海きもちい…」

燦々とした日差しに抜けるような青い空。
水平線の上に浮かぶ真っ白な入道雲、寄っては返す青い波。

絵に描いたような夏の日に、このまま閉じ込められてもいいかもしれない。

「ずっと浮かんでられるな」
「でもずっとこうしてると真っ赤になっちゃう」
「いいじゃないか、日焼けも」
「だめ、私赤くなって痛くなるだけだもん。小麦肌にはならないの」

そう言いながらも気持ちよさそうにぱしゃんと海面を指で撫でていた七瀬は、海水に濡れた指で髪を耳にかける。

「楽しいね、煉獄さん」

七瀬は子供のように目が線になるように笑う。
もう少しだけ二人でこの海を独占したような気分で波に揺られていたい。遠くで甘露寺が七瀬を呼ぶ声がするから、そうだな、あと一回七瀬が笑ったら戻ろうか。


君の白い肌が赤くなってしまうのは、可哀想だから。


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