辞書にのらない
出来そこないの感傷


ーあ、という短い声の後、ガチャン、パリン、と陶器の割れる音がした。
休日の朝らしく遅めの朝食を食べ終えて、クローゼットの中で今日の洋服を選んでいたのだが不穏な音に一旦中断してリビングに急ぐ。ジャーと音を立てて出しっぱなしになっている水を止めると、キッチンに立つ煉獄さんが泡に塗れた無骨な両手でそろりとシンクから持ち上げたカップとお皿は綺麗に半分に割れていた。大きな手で摘まれた食器だったものたちと、見るからにしまった、と目線を下げる煉獄さんを見比べる。

「すまない、…割ってしまった」
「いいよ、仕方がないよ。それより怪我はしてない?」
「俺は大丈夫だが、2つとも君と一緒に買ったものだ…」

どんどん溜まっていくピザやお寿司の出前の紙を探し出してキッチンへ持って行く。煉獄さんが泡を落とした食器の破片を悲しそうにその上に置いていくので、破片が揃ったところでくるくるとまとめて袋に入れる。油性ペンで割れ物と書いて、指定の曜日まではゴミ箱の隅に置いてくしかない。
洗い物を終えてもソファでしょんぼりとしている煉獄さんの隣に座って大きな体に腕を回す。

「洗い物ありがとう」
「うん、だが、せっかくお揃いだったのに。すまない」
「…あのプレートとカップどこのメーカーのか覚えてます?」
「む…、七瀬がすきな店だろう。何だったか…アフリカ?」
「ふふふ、おしい。アラビア。
あそこのお店、先月から海沿いのアウトレットに出店したんだって」

見に行ってみる?と首を傾けて煉獄さんの顔を見上げると、大きな目を瞬いてようやくいつものように笑顔を見せてくれた。善は急げと言うように煉獄さんはいそいそと外出の用意をし始める。
元気になってくれてよかったと、安心して自分も洗面所でメイクをして髪をゆるく巻いて仕上げに煉獄さんがプレゼントしてくれた彼と同じ香りの香水を付ける。今まで使っていたレディースの香りではなく、ユニセックスとして販売されている香水は甘すぎず、スモーキーな香りが特徴的だ。初めはメンズっぽい香りで煉獄さんがつけている方が似合うような気がしたが、二人一緒にいると香りが濃くなり、それが二人の香りなのだと思うとお揃いもいいなと今ではすっかり気に入っている。

着替えの終わった煉獄さんと交代でクローゼットで先ほどの続きで洋服選びに頭を捻る。楽しいのだ、なかなか服を決めるのも時間をかけ過ぎると着る服がない気がしてくるから不思議だ。
こうして世の女性は洋服に大金を注ぎ込んでしまうのだろう。

「どうしようかな」
「…俺はこの服が好きだぞ」

煉獄さんが後ろから筋張った手を伸ばして白いワンピースの裾を掴む。もう身支度を終えてしまった彼は、髪を一つに束ねて運転用の色付きのサングラスをかけて準備万端のようだ。

「じゃあこれにする」
「うん、可愛いな!車のエンジンを掛けておくから鍵を閉めて来てくれ」
「分かった、すぐ行くね」

体に合わすと可愛いと褒めてくれて、その一言で簡単に機嫌のよくなる私はへらりと笑い返し、もぞもぞとワンピースに着替える。長めの丈のシャツワンピースはウエストの細いリボンが可愛らしくて先月買ったばかりだったのだが、煉獄さんはこういう爽やかなお洋服が好きみたいだ。たくさん歩くだろうとスニーカーに踵を滑り込ませて、部屋を出て鍵をかける。

ブオンとエンジン音を立てているセダンの助手席に座ると、運転席の煉獄さんがナビをセットしてくれていた。

「お待たせしました」
「いや、大丈夫だ!では行くか!」
「はーい、運転お願いしますー!」

運転するのが好きだという煉獄さんに甘えて普段殆どハンドルを握らない私は、ドライブ中もお気に入りの曲を掛けてあげたりするくらいだ。助手席から見る煉獄さんの横顔は彼女の特権だなと、少しの優越感に浸りながら見つめる。
誰に対する優越感なのかは不明だが、彼は男女問わず人気者だから私が知らないだけできっとたくさんの好意を向けられているのだ。その顔も知らない相手にヤキモキしても仕方がないのだが、時折少し不安になるのだ。

「どうした?」
「ううん、なんでもない」

目敏く黙り込んだ私を横目で確認した煉獄さんは目元を薄緑のサングラスで覆っているので、今はあの真っ直ぐ心の中まで見透かすような強い瞳がはっきりと見えなかった。


アウトレットは週末ということもあり盛況だった。きょろきょろと辺りを見回しながら、目につくものがあると足を止めてあれやこれやと煉獄さんと話しては、案内図を覗き込む。広大な敷地は歩いて全部回るとかなり時間がかかるので、本命の食器屋さんの他にいくつか寄りたいお店を決めて歩き出す。案内図をポケットにねじ込んだ煉獄さんは、左手でするりと私の右手を捕まえる。大きな硬い掌に包み込まれるようにして、お互いの指の股に指を嵌める。こうしてすぐ手を繋いでくれるところも、年甲斐もないけれど好きだなと思う。大人だから、とか恥ずかしい、とかそういったことを考える間も無く自然と繋がれた手が愛おしい。

洋服や靴を何店舗か回ってから、お目当ての食器屋にたどり着く。割れてしまったものと同じタイプの色違いが売られていたので、二人で相談して色を決めた。この前はセットで売られているものだったからこうやって単品で選ぶ事が出来なかったし、これはこれでよかったかもしれない。煉獄さんはこれは俺が払うと頑なに譲らず、いそいそとレジに並んでしまった。

「二人の共有のお財布から出せばよかったのに」
「それはもう言いっこなしだろう」
「分かった…ありがとう」
「ん。で、次はどこを見に行く?」
「んとね、クッションとか欲しいかも。インテリアのお店を…」

煉獄さんが広げてくれたマップを二人で通路の隅で覗き込んで確認していると、きゃあきゃあと黄色い声が近くで上がる。どうしたのだろうかと、顔をあげるのとほぼ同時に「煉獄先生ー!」と今時の派手な女の子たちが駆け寄って来た。



「先生私服だぁ!かっこいい」
「あぁ、三組の…、みんなで買い物か?」
あっという間に囲まれてしまった煉獄さんは、いつも私に笑いかけてくれる態度と変わらないにこやかな表情で対応している。デート中にこうして生徒さんに出会ったことはなかったので、どうしていいのか分からず、そろそろと後ろに下がって終わるまでじっとしていることにする。
「そうだよぉ!先生も一緒に回る?」
「てか髪括ってるの初めて見たー!いいじゃん、学校もそれで来てよ」
「そうだよ、そんでまた写真撮ろうよ」

女子高生なんてもうすっかり昔のことになった私には、彼女たちのエネルギッシュでストレートな好意が眩しかった。きっと毎日学校でもこうやって囲まれているのだろう。

終わるまで静かに待っているつもりだったのだが、輪から離れた彼女たちの一人にずいと詰め寄られてしまった。

「あの!」
「は、はい」
「先生の彼女ですか?」

じっとまだ大人になりきっていない純粋な瞳で見つめられると、どうしたものかと迷う。
唇をきゅっと噛んだ彼女は、『煉獄先生』に特別な好意を持っているのだろう。取り囲んだ彼女たちの口にする「すき」ではなく、私と同じ「すき」だろうとなんとなく分かる。

「…違いますよ。友人です」

嘘をつくことに少しだけ良心が痛んだけれど、微笑みを浮かべて彼女に答えるくらいは大人の私には朝飯前だ。目に見えてほっとした彼女がぺこりと頭を下げてみんなの輪に戻るのを見届けると、煉獄さんと目が合う。

「すまないが俺も連れときているから、今日はこれで。休みだからとハメを外し過ぎるなよ!」

えー、という不満そうな声を背に隣にやってきた煉獄さんと並んで生徒さんに小さく会釈して背を向ける。さっきのように手を繋いでくれようとする左手から逃げるようにスマートフォンを探す振りをして、彼女たちの視界から見えなくなるまで少しだけ距離を開けて歩く。

角を曲がったところで後ろを確認すると、もう見えなくなっていてほっと安心する。

「…七瀬?」

煉獄さんがどうしたのかと、不思議そうに首を傾げて徐ろに頭に手を置かれる。びくりと大袈裟に反応してしまい、慌てたようにその手が離れていった。周りは賑やかなのに、二人の間には妙な沈黙が広がり気まずさに目線を落とす。
帰ろうか、と一言だけ言うと、駐車場に向かって歩き出す煉獄さんの背中を追いかけて、せっかくのデートを台無しにしてしまったことに悲しくなってくる。

バタンと音を立てて扉を閉めた車内で、エンジンをかけたまま発車しようとしない煉獄さんを見る。どう声をかけようかと悩みながら、口を開いたところでぽつりと煉獄さんから漏れた言葉にぎくりとする。

「…君は俺の彼女のはずだが」
「聞こえてましたか…」

女生徒相手に吐いた嘘など小さなものだと思ったが、運転席からこちらを見る煉獄さんの不満そうな、拗ねたような顔に罪悪感が広がる。

「あの、ごめんなさい。そんな気にすると思わなくて…
彼女の真っ直ぐな目を見ていたら、付き合っていると伝えるのが忍びなくて」

謝りながら太腿に置かれた煉獄さんの手をそっと包む。

「俺は嘘や偽りは嫌いだ。
七瀬があの子に嘘をついたところで、俺はあの子に応えることはないんだぞ」
「うん、ごめんなさい。軽率でした」
「どうしてあんなことを?」
「…あの子みたいな子供に、わざわざ苦しいこと教えたくないなって。これから嫌でも苦しんだり、悲しんだり、大人になっていかなきゃいけないんだし…
学校に好きな先生がいて、たぶんそれだけでも苦しいし。女子高生の間くらいはあまり…
って結局偽善だよね。私が煉獄さんを離してあげる気もないんだし」

言いながらどうしたって言い訳だなと思う。ただあそこで事実を突きつける悪者になりたくなかっただけだ。あの子だって彼女だったと分かれば、私の発言に腹を立てるだろう。

「七瀬は優しいな。俺はあの子らの指導者だがそこまで心情に沿ってやれなかった」
「でも結局表面的なものだよ、私は煉獄さんみたいに教育者じゃないし」
「そんなことはない、いろいろ考えてくれた発言だったのだな…まぁ次は君が困る前に交際相手だと紹介してしまうさ」
「うん、でも出来たら生徒さんとはあまり鉢合わせたくないな」

煉獄さんはきょとんと首を傾げる。あれだけ女の子たちに囲まれて人気者だというのに、自覚がないのだろうか。

「いつも学校であんなに可愛い子たちに囲まれてるなんて、知りたくなかったな」

大きな猫目をさらに大きく開くと、煉獄さんはぱちりと濃い睫毛を瞬いてよもや、といつもの口癖を口にする。安心させるように大人の顔で微笑まれると、子供っぽい嫉妬を口にしたことを少し後悔する。

「心配には及ばないぞ、俺は七瀬しか見ていないからな」

蜂蜜色の目を柔らかく細めた煉獄さんを私だけが独り占めしていることに、安心感と罪悪感が綯交ぜになる。今日まで顔も知らなかった誰かの顔を見てしまったことは、少しだけ私の胸に小さな棘を残していった。

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