花と獅子

高潔なる暴虐


「これは一体どういうことなんでしょう」

 それは五月のよく晴れた暑い日だった。天気に反してゆきは涼やかな笑みを浮かべ向かいに立つ男性陣に問いかける。

「いやいや、ご令嬢の手を煩わせるほどのことでもないと言っているんですよ」
「そうです、我々はお忙しい貴方のためを思ってでして」
「もう一度精査したものを改めてお送りしますから」

 諂うような笑みを貼り付けて答える彼らに表情を変えずに畳み掛ける。

「お気遣いありがとうございます。わたくしの為とおっしゃるなら、できるだけ早く決算資料をお持ちいただけないでしょうか?皆様のおっしゃるように、楽しくお話ししている時間は限られておりますの」

 姿勢を変えずに目の前の男達の顔を右から順に目をやってもう一度、お願いできますか、と笑みを深くする。明らかにうろたえたり、苛立ちを見せる者に顔を向けると、さっと視線をそらされてしまった。

 これはなかなか、分かりすい方々だ。

「もしや、貴方の指示で書類を隠蔽していらっしゃるのかしら」

 おろおろと視線を動かす初老の男に狙いを定めて、こてんと首を傾げて尋ねると、途端に汗の量が増した。

「そんなはずないでしょう、ご冗談はやめて頂きたい!」
「そうですか、ではどなたが責任者でしたか?貴方だと思っておりましたが」
「それはそうだが、、というか今期の報告は貴方の兄である松方侯爵に出しています。なぜ資料がいるのです」
「私はその兄の名代で本日こちらに参りました、と最初にお伝えしておりますよ。責任者が貴方であっていてよかったです。資料が出ないということは職務怠慢になりますよね。それともまさか紛失ですか?それなら機密事項漏洩の可能性も出てきます。責任者には言葉通り責任を取っていただかなくてはならないかと思いますが…いかがでしょうか?」

「…もう一度、探させます。こちらでお待ちを」

 苦虫を噛み潰したような表情で初老の男は汗を拭きながら、残りの男性をゾロゾロ連れて退室していった。


 きっかけは、暫く前に次兄から見ておくよう預かった松方の経営する会社の決算資料だった。どうもこれまで聞いていた業績と数字が合わない。使徒不明の経費にも疑問があり手紙で何度か経理資料を詳細を伺ったがのらりくらりとかわされた。埒があかないので、仕方がなく本社へ乗り込んだのだが、侮る素振りを隠そうともしない経営陣には辟易した。
 女であることは社会の中では不利なことが多い。兄の名代、としてしか物が言えないのだ。
そんな女をうまく使って人を動かすのはやはり社交場が一番だ。今回のように直接ものを言うようなやり方はあまり得意ではない。相手が自分からそう思ったように、思考を誘導するような方が私には向いていると思う。

 それにしても資料を渡されてからここまでが兄の掌の上のように感じる。あの人は私を甘い、剛柔使い分けろ、と言う。兄の真似をして経営陣に詰め寄ったが、果たしてこれが正解なのか。試されている感じがしてどうも落ち着かない気分だった。人には向き不向きがあるし、奥の管理をするわたしは兄のような政治家になるわけではないので、あまり干渉して欲しくないのだが兄達はやたらと過干渉である。

 身分上、相手も無下にはできないので、結果としては望んだ物が手に入るだろうからなるべく早く受け取って、暗くなる前には屋敷まで戻りたいところだ。顔には出さないが、この暑さに少し参ってきていた。少し汗ばんだ洋服を早く着替えてゆっくりとバスタブに浸かりたい。

 そんなことを考えて暫く待っていたが一向に扉は開かれない。むしろ物音一つしないではないか。ソファから立ち上がり、唯一の出口である木製のドアに手をかけるとガチャリと硬い音が響いた。開かない。これは、軟禁、されたということでいいのだろうか?

 もう一度ドアノブに力を入れるが一定のところで止まってしまう。暫く1人で閉じ込めれば泣いて帰ると思われたのか。そこまで舐められていると思うと、胸の奥がすっと冷たくなる。ガチャガチャと回すのも扉を叩くのも大声を出すのも「お嬢様」のすることではないし、嵌められて喚くのは癪に触る。仕方がない、我慢比べなら付き合ってあげよう。別室には鈴音もいることだし数時間もすれば出れるだろうと、諦めてソファに戻りぽすんと体を預ける。いっそのこと寝てしまおうか。じとりとした髪を背に流し目を閉じる。

 あぁ、お化粧室にいけないということだけは気掛かりだ。


 そんなゆきの状況を知らない鈴音は青ざめた顔で大きなビルの前で途方に暮れていた。お客様はお帰りになりました、と言われたかと思えば一方的に建物から追い出された。ゆき様がお一人でお帰りになるはずがなく、どう考えても中にいるのに顔が割れてしまって門前払いをくらいっていた。警察や軍人に助けを求めようかと思ったが、松方の名前を傷付くのではと脚がすくんでしまう。近くに隠がいないかと、藤の家紋の民家を探すがこんな都市部ではあまり見かけないのが現状であった。途方に暮れて、もはやなりふり構わず正面から突っ込んで大声でお嬢様をお探ししようかと思っていた時、よく通る声が名前を呼んだ。

「君!お鈴ではないか?」

 人通りの多い道でも目立つ出立。燃えるような明るい髪に黒い隊服。

「煉獄様…」

 人波を縫ってこちらに来た彼は、もう一人鬼殺隊の隊士と一緒のようだった。白い髪に白皙の面はこれまた印象的な長身の男である。
「今日は暑いな!息災であったか?」
「はい、あの」
「なんだぁ?煉獄こんな身なりのいい女と知り合いなのかよ。どこの嬢ちゃんだ?」
じろじろと物理的に上から値踏みしながら会話に割り込んできたその男の無遠慮さに思わず黙ってしまった。
「彼女はお鈴だ!知り合いの連れで隠の一員だ。それより宇髄、あまり顔を近付けるな…怖がっているぞ」
「かくしぃ?あいつら黒い服しか着ねーんじゃねぇのか。こんな派手な隠、隠れてねぇじゃねぇか」
「もっともだな!しかしそれでもお鈴は任務中だ!」
はぁ?と美しい顔を思い切り粗野にしかめる宇髄という隊士にさっと頭を下げる。煉獄様に名前が違います、と訂正したいがそれよりもまずはゆき様だ。

「申し訳ございません、宇髄様。私はある御仁の側仕えをしておりますゆえ、このような出立です。しかし隠の一員に違いはございません」
疑問ばかりではぁ??と呻いている宇髄様には申し訳ないが、それよりも私には役目がある。
「煉獄様、いま少しお時間を頂けませんか。ゆき様がいないのですっ」
必死の訴えに、煉獄様の大きな瞳がぴくりと動いた。



 なんだろう、騒がしいような気がする。

 眠りから覚めようとする頭は霞がかかったように重く、意識がうまく浮上しない。ゆきは目を開けようと試みるも、目蓋ひとつ満足に動かせなかった。眠る前に如何していたのか思い出せない、頭が痛い。騒々しい音がだんだん大きくなって、ぴたりと止んだ。ガチャンと金属質な音がして、扉が開く。冷たい空気が流れ込んできてようやく薄く目が開く。涙の幕でぼやける視界が揺らめいた。そうだ、どこかに閉じ込められていたのだった。鍵が開いてよかった、鈴音が心配しているはずだ、帰らなければ、とそんなことを思っているとふわりと体が持ち上げられた。

「…触れることを許してほしい。意識はあるか?」

 低い声が近くで聞こえた。この人を知っているような気がする。こくりと頷くと、よかったと息をついたその人を確かめたくてもう一度目を開く。彼の歩みに合わせてゆらゆらと揺れる視界で見上げると、あの眩い炎のような瞳が心配そうにこちらを見ていた。

「れんごく、さま?」

 喉が張り付くようでうまく声が出ない。どうして彼に抱かれているのだろう。どうしてここにいるのだろう。
「医者に診せるまで眠りなさい。お鈴も一緒だから安心するように」
いつもの敬語とも違う、年下の者に言い聞かせるような口調が妙に心地良くて大人しく彼のいう通りまぶたを閉じる。暑くて仕方なかったのに、起きてみると体は冷たい氷のようになっていて、抱えられて煉獄様に触れているところだけお湯に浸かったように温かく心地良い。
たくさんのなぜ、が浮かんだけれど、どれもうまく思考出来なくて結局揺り籠のような腕の中でもう一度意識を手放した。


 線が細い人だとは思っていた。少食でいつも人と話すばかりであまり口にしない彼女の体は思っていたよりも随分軽い。もっと食べた方がいいな、今度会ったときはちゃんと口に入れさせようと杏寿郎は心に決めた。着物と違って、洋装の柔らかい生地は直に人を触っているような心地がして、ひどく頼りない。

 前回別れてから一月ほど経っていたが、杏寿郎はあの春の陽だまりのような柔らかい眼差しをふとしたときに思い出していた。

 先程目を開けた彼女が自分だけを写していることになんとも言えない高揚感が湧き上がった。その目に映ることで幸福を溶かした春の日に閉じ込められたような心地がして、それは何にも変えがたいものに思えた。それと同じように、この美しい人は自分のような男がどうこう出来る人ではないとも痛感した。触れれば壊れるような繊細なガラス細工のようで、鬼狩りの自分の側に置いておけるような人ではない。恋慕うときのあの焦がれるような、苦しいような激情が湧かないのは、ゆきの凛とした高貴さ故だろうか。尊く美しいからこそ遠く、手の届かないもの。

 それでも、杏寿郎は腕の中の彼女を抱えて歩くのが自分で良かったと思いながら、部屋を後にした。