花と獅子

アトロポスの涙


 ドン、と大気が震える様な衝撃音が未明の空に響き渡る。
列車の車両から脱出する人々の手助けをしていたゆきは、肌がびりびりと痺れる様な大きな音にそばにいた鈴音と目を合わせる。いつも冷静な彼女が青い顔で震えている。

「お嬢様、これは鬼です」
「でも列車の鬼はもう…」
「その様ですが、これはもっと・・・」

鈴音は鬼の恐怖を知っているからこそ、これがただ事ではないと気づく。しかしそれを主人であるゆきに伝えるべきか悩んでしまう。彼女の恋人は鬼殺隊でも最上位の強さを誇る柱だ。その強さは鬼殺隊へと入門を試みた鈴音には分かる。だがそれと同じように鬼が持つ圧倒的な力というものもよく知っている。たとえ柱といえども不死身ではない。柱であろうとも鬼との戦闘で命を落としたものが数多くいることも。

「鈴音・・・?」

黙り込んだ鈴音の様子に、ゆきの足元には植物のつたの様に不安が巻きついてくる。心臓が痛いくらいに大きく脈を打っているのに、指先は凍える様に冷えていく。
ゆきはぱっと身体を反転させると震える脚がもつれそうになりながらも音のする方へと走り出す。

「ゆきお嬢様! いけません、行ってはだめです!」

 鈴音が後ろで悲鳴の様な声で叫ぶ。
そこに行ったって何もできないと知っている。それでもゆきは止まることが出来なかった。
この世で一番愛しい人が、すぐそこで命がけで戦っていることに、身体中がバラバラになりそうな苦しみを感じる。剣も持てない、非力な自分が戦場で足でまといになることなど分かりきっている。不快なほどに早鐘を打つ心臓に悪い予感がぐるぐるとゆきの胸を巡り、たいして走ってもいないのに空気の重さに息が上がる。

「煉獄様…」

 地が揺れるほどの轟音と、金属の高い音が混じった音がどんどん大きくなる。それに伴って、酸素が薄くなる様な圧を感じる。これが殺気というものなのだろうかと、肌が粟立つ感覚に短い呼吸を繰り返しながら走る。
鬼というものに出会ったことがないからこそ、ゆきはその恐怖よりも恋人の身の危険を優先した。もしも今までにゆきが鬼と出会っていたら、きっと鈴音と同じ様に足が竦んでいただろう。震える足を叱咤して走り続けた先に人影が見えたところで、前方に大きく炎が上がる。ついで衝撃波の様な空気の波が押し寄せてきた。顔の前に両腕を翳してその風圧に耐えると、砂埃に痛む目で先ほどの人影を探す。

全身に刺青の入った男と向かい合う、刀を持ったよく知る男の姿に、煉獄様だと確信する。
真っ白な羽織の所々に大きな血の染みが出来ているのが目に入り、思わず短い悲鳴を上げてしまった。一気に周囲の視線が自分に向いたことがわかる。

「来るな!」

空気がびりびりと痺れる様な声量とともにこちらを振り向いた彼の顔は大きな傷が目元を覆っていた。まだどくどくと血が滴る深い傷に、来るなという制止の言葉も耳に入らず煉獄様の元へと走っていた。涙で滲む視界から彼の姿が消えたと思った時、ぎゅっと強い力で抱き抱えられていた。鬼と自分の間に割って入る様に駆け寄ってくれたのだと理解する。

「女、邪魔をするな。杏寿郎が本気を出せないだろう?」

ぞくりと背骨から這い上がって来る恐怖に、指先まで震えが止まらない。鬼の男から向けられる剣呑な視線を断ち切る様に煉獄様の腕が私の肩をさらに引き寄せた。

「猪頭少年!彼女をここからできるだけ離れたところへ!」
「無駄だ、杏寿郎。この拳がお前に届く方が速い」

自分が邪魔になっていることも戦闘において足手纏いになることも、全て分かっている。生きるか死ぬかという戦いにおいてなにもできないことなど百も承知であった。ぽたぽたと潰れた左目から流れ出た生温かい血がゆきの頬に落ちて来る。

「もうやめてください、お願いです。死んでしまうわ…」
「ゆき、ダメだ!」

赤い血を滴らせてもなお剣を向けた相手から逃げようとしない煉獄様の姿に気がつけば勝手に体が動いていた。鬼に背を向ける様にして自分の体で煉獄様の体を守ろうと身を投げ出す。一つしか見えなくなってしまった金環の目を見開いた煉獄様が、大きな声で叫ぶ。その瞬間に肩のあたりにドン、と衝撃を受けるとそのまま煉獄様の胸から体が滑り地面にぐらりと体が傾ぐ。一拍遅れて強烈な痛みが右肩に走り、冷や汗がどっと吹き出した。

「ゆきっ!」

 抱き抱える様にしてこちらの顔を覗き込んできた煉獄様を見上げて力なく微笑む。今まで生きてきた中で一番痛いが、腕が千切れたわけではなさそうだった。痺れた様な感覚が左肩を覆っており気道が圧迫されたのかけほけほと咳が出る。返事と言える様なものは出来ずとも、大丈夫だと安心してもらえる様にその羽織を握る。

鬼の男はその様子をただぼんやりと見つめていた。たった今この身に当たった拳を強く握りしめた姿勢のまま、負傷した私のことをじっと見つめてくる。
この鬼が本気で攻撃していたら、きっとこの体には大きな穴が開いていただろう。鍛錬を続けてきた煉獄様の体でさえもこの大怪我なのだ、人並みの体力もすらもない私のことを殺すつもりであれば簡単に貫くことができたはずだ。

「なぜ、なぜだ。その柔で脆い女の体などすぐに壊れる。俺は強さを求めているんだ、杏寿郎と俺の邪魔をするな」
「私は、」
「よせ、鬼と口をきく必要などない」

煉獄様の言葉を聞きながらも、鬼の男に向かって言葉を続ける。

「私は、貴方の言う通り弱い人間です。ただの女の身ですが愛する人を守るためならばこの身がどうなろうとも構いません。この人を失いたくないのです、煉獄様がいなければ、私に生きる意味などないの」

大怪我だと一目で分かるほどの傷を負いながらも、彼は決して逃げるようなことはしないだろう。この場でこの鬼と命が尽きるまで戦い抜くだろう。負傷した人々を守るため、戦えない人々を逃すため最後までその身を削る人だ。
そんな彼を守ってくれる人は誰もいない。だから自分だけは彼を守ってあげたかった。そのせいで命を落としたら、きっと煉獄様はひどく悲しんでくれるだろう。けれどこの身ひとつでこの人を守れるのならば喜んで差し出せる。そう思えるほど人を愛せたことが誇らしいと思うのだ。

 青白い顔の鬼は、人の心などわからないと聞く。命乞いなど無駄だと思ったが涙を溢す私を見つめる鬼は、顔を顰めて決まりが悪そうに握りしめた拳を体の前で静かに下す。

「愚かな。失いたくないのなら、力を持つしかない。そうでないならーーー」

その後に続く言葉は聞き取れなかった。山際から徐々に明けの空を照らし出した太陽の光が鬼の男の足元にやんわりと差し込む前に、彼はダン、と強く地を蹴ると鬱蒼とした林の中へと姿を消した。
辺りが薄明かりに包まれていく中、煉獄様はからんと音を立てて刀を手放すとぎゅうと痛いくらいの力で抱き締めてきた。肩口に埋目られた彼の額からぬるりとした血が、ゆきの
着物の合わせから肌に伝う。

「・・・もう二度と、あんな無茶はしないでくれ。君を失って、生きていけないのは俺も同じだ。本当に肝が冷えた。無事で、良かった。本当に・・・」

喉の奥から絞り出すような言葉に、また涙が溢れる。感覚のない左腕は持ち上がらなかったが、右腕を煉獄様の首に回すと、その頭を抱えるように抱きしめる。

「申し訳ございません、煉獄様」

腕の中に愛しい人がいる。熱を持った体と、お互いの鼓動が生を実感させてくれる。安心したせいか、涙は止まるどころか余計に溢れてきて煉獄様の纏う隊服の黒に染み込んでいった。

長い長い夜が、ようやく明けた。