花と獅子

カンゴオムの夜


 その列車に乗ったことは、小さな躓きの連続の結果であり、意図していたわけではなく全くの予想外であった。ただ今になって思い返せば全てがこの列車に乗るべくして起こったことだったのだろう。
私が、あの日、あの時間の列車に乗ることはきっとはじめから決められた、そういう運命だったのだと思う。

私は神様によって、あの場に使わされたのだ。



「どうして君がここにいる…」

喉の奥から絞り出した様な低い声は、今にも泣き出しそうな、張り詰めた糸のような、そんな声だった。

夜に出歩くことがどういうことか、知らぬはずはなかった。どれだけ大勢の人間がいる場所であっても、街頭が多く賑わう場所も人の少ない深い山奥も、日が沈めば等しくそこは鬼の時間だ。
忘れていたわけでも、慢心していたわけでもないが、静養のために家を離れている父の容体が悪くなったという電報ににどうしても早く会わねばならないという思いがゆきをこの列車に乗せていた。しかしそのことを知らない杏寿郎にとっては何故、という疑問が胸を占める。

鈴音の肩に頭を倒し長い睫毛を伏せてすぅすぅと眠るゆきから目が離せない。
数日前に「いってらっしゃいませ」と炎柱邸で別れた時の彼女の微笑みが蘇る。柔らかい春の日射しを思わせる眼差しが、ぽっと赤く染まった頬の丸みが、さらさらに梳られた長い髪の甘い匂いが、杏寿郎の心を締め上げる。
任務中だ、俺はこの乗客全てを守らねばならない。ゆきだけを特別扱いはできない。そう分かっているのに、ここでゆきだけ連れてこの列車から飛び降りてしまいたいという思いが、杏寿郎の胸に浮かんでしまった。

「ゆき…」

目を閉じていると、精巧な人形の様に見えてくる美しい顔からぎゅっと目を閉じて視線を逸らす。もしゆきの意識があったならきっと彼女は早く行けと言うだろう。自分だけを助けてほしいなどと、彼女は絶対に言わない人だ。子供や女性、老人を先に降ろしてからしか自分は降りないと言い張るだろう。この状況でゆきに意識がないことはむしろ良かったのかもしれない。彼女は初めて遭遇する鬼の恐怖に怯えることなく、平時と同じ様に眠っているのだから。目を覚ました彼女にいつも通りの世界を見せてやれるのだと言い聞かせて、杏寿郎はゆきの座席からなんとか一歩後ろに離れることが出来た。まだ守らねばならない車両は他にもあるのだ。こうしている間にも、年若い彼らが鬼の首を探してくれているのだから。

「乗客は誰一人死なせない。君も、必ず俺が守る」

ゆきに聞こえていないと分かっていても、それだけは伝えてから杏寿郎は大きく息を吸い込んで後方車両に駆け出した。


鬼と融合した列車は乗客の人間を取り込もうとその身体を蠢かせる。その肉塊に日輪刀でできるだけ細かく斬撃を刻んでは車両を移動するということを何度も繰り返していると、大きく車両が揺れ動きレールの上を弾む様にして金属音を立て始めた。
杏寿郎は少年たちが鬼の首を見つけたのだろうと確信し、ガタガタと不安定な列車の中を一足飛びで移動する。ゆきの元に戻ろうと急いでいると空気を裂く様な醜悪な叫び声が響いた。それとほぼ同時に波打つ様に大きく車両が揺れ動き、安定しない足場をなんとか踏み込みゆきの席まで戻ることが出来た。完全に車両がレールの上から浮き上がったふわりとした感覚に、衝撃に備えてゆきと鈴音を抱き寄せた。轟音を立てて止まった列車に乗客も次々に目を覚ましていく。

「ゆき、ゆき!」
「…煉獄様?」
「良かった。どこも痛くないか?」
「…はい。あの…煉獄様がいらっしゃるといことは、ここに、鬼が出たのですか?」

起き抜けのぼんやりとした表情から次第にさぁっと青ざめたゆきのことを一度ぎゅうと抱きしめる。安心させる様にその背をぽんぽんと叩く。

「どうして夜に出歩いているのかと叱りたいが、それは帰ってからだ。他の隊士もこの列車で戦っていたので俺は様子を見てくる。君はこのまま列車の外に出ていなさい。もう直ぐ夜明けだ」
「はい・・・申し訳ありません」
「君に何かあったら、俺は自分が死ぬよりも辛い。だから本当に無事で良かった」

憔悴した顔で頭を下げるゆきの隣で鈴音も目を覚ました様だ。彼女がいれば少しは安心だと、杏寿郎はゆきを腕の中から離す。鬼の気配が薄れていくから少年たちは首を斬れたのだろうとほっとしながらその姿を探しに車外に出ると、前方の車両のそばに倒れた少年の姿を見つけた。


怪我をして出血している少年に呼吸で止血する方法を伝えながら、彼の額に指を置く。

「集中」

少年は痛みを堪える様に顔を顰めながらも、なんとか出血してる血管を圧迫し止血に成功した様だ。物覚えが良い、と感心した杏寿郎はうむ、と一つ頷く。

「呼吸を極めれば様々なことができるようになる。なんでもできるわけではないが、昨日の自分より確実に強い自分になれる」
「…はい」

少年は地面に寝転がったまま呆然と杏寿郎を見上げて、ただ一言返事を返した。

「皆無事だ!怪我人は大勢だが命に別状はない。君はもう無理せず…」

無理せず休んでいなさい、そう言い終える前に杏寿郎の背後に凄まじい鬼気とともに衝撃音が響き渡った。肌を刺す様な圧迫感にこれはただ事ではないと気を引き締める。対峙した鬼はその瞳に上弦の参と刻まれている。一目も逸らすまいと瞬きもせずに相対していると、その鬼はあろうことか少年に向かってその拳を振り上げる。

「なぜ手負いの者から狙うのか理解できない」

昇り炎天で下から切り裂いた鬼の腕は瞬く間に再生していく。ぴたりと切り口が合わさるとその上を鬼はべろりと舐めてみせる。

「話の邪魔になるかと思った、俺とお前の」
「君と俺がなんの話をする?」

すらすらと人語を話す点も、高い知能を有した鬼であることを証明している。会話を続けながら杏寿郎は少年のこと、そしてまだこの近くにいるゆきのことを思う。この鬼を自分が今ここで倒さなければ彼女に危険が及ぶ。あの華奢で細い体躯は剣を握ったこともない、杏寿郎が力加減を間違えればぽきりと折れてしまうのではないかと怖くなるくらいか弱いものだ。鬼との戦いに巻き込むなど、あってはならないと杏寿郎は刀を握り直す。
ここで、自分が斬るしかない。それしか道はないのだ。

「初対面だが俺はすでに君のことが嫌いだ」

鬼はその言葉すらも嬉しそうに、にやりと笑って見せた。