花と獅子

ナイトメア星雲


覚えている最後の記憶は鬼の頸を切り落としたところだった。
開いた口元から醜い牙が覗き、絶叫しながら地に転がるように落ちた頭部はボロボロと崩れるようにその姿を消していく。最後の一欠片が灰になって消え失せる様を見届けて杏寿郎の視界は暗転した。

炎柱に就任して以降、任務の数は増える一方であった。より強く、より特殊な血鬼術を使う鬼に当たるようになり、さらには先行で任務に当たった隊士たちの救援で出向くことも多くなった。母の教えである、強く生まれた者の務めだという言葉と、隊士たちの絶望した暗い目に映った、強い柱に向けられる希望と安心の視線に杏寿郎はどんどん戦いの中から抜け出す機会が無くなっていった。一度深く沈むように戦闘に切り替わった思考と振る舞いは、頸を切ってもその集中が途切れることが無くなった。日輪刀による赤い炎を背に、見開いた目で無表情に鬼を斬る様は、人というよりは神や仏、阿修羅の如き様相であった。

「大丈夫か」と声を掛ける炎柱の、隔離世を見るかのように交わることのない視線と、手も足も出なかった鬼を葬り去る桁外れの実力に隊士も隠たちも憧れよりは畏怖に近い念を抱いていた。


そんな杏寿郎が昏倒するほどの怪我を負い、倒れているところに遭遇した隠は大層驚いた。大急ぎで蝶屋敷に運ばれた杏寿郎の様子に、胡蝶しのぶは一瞬だけその表情を硬らせたがすぐにいつもの冷静さを取り戻す。てきぱきと指示を出しながら処置に取り掛かったしのぶの頭に、ふと花の香りを纏ったゆきの顔が過ぎる。

「アオイ、手紙を飛ばしてくれますか」

側で処置の準備を手伝ってくれていた少女はしのぶの言葉にすぐさま反応し、蒼い瞳でしっかりと頷いた。しのぶが杏寿郎の処置の手を止めずに、口頭で内容を伝えると彼女はさらさらと書きつけて鴉の足元に括り付けると澄んだ冬の空に飛ばす。

すぐに蝶屋敷からは黒い点の様に見えなくなった鴉は、大きな羽を伸ばして未だ珍しい洋館の二階を目指して空を急ぐ。
手紙受け取ったゆきは長い髪を揺らして血の気の引いた白い顔で、蝶屋敷に向かう。日が暮れる前にぎりぎり辿り着けるだろうかと言う瀬戸際であったが、行かないと言う選択肢はゆきにはなかった。
がたがたと揺れる自動車の中で、握ったままの手紙に皺が寄る。握り締めた形のまま手が固まってしまったようで、付いて来てくれた鈴音がそっとゆきの指をゆっくりと動かして強張った手から手紙を抜き取る。開いた掌をぼうっと見たゆきは、焦点の定まらない目を瞬いて鈴音の顔を見る。
美しい顔は白く、熱の籠もらない黒い瞳は人形めいて恐ろしいほどだった。

「しっかりなさってください!」

思わず主従の関係を忘れて鈴音はゆきの細い肩を両手で掴む。泣くことも言葉を発することもない、こんなに動揺を表に出すゆきを見るのは初めてだった。どんな大舞台でも緊張した様子さえ滅多に見せない彼女が、これほどまでに打ちのめされている。たった一人の男の安否でで、泣くことも出来ないほどに心を痛めているのだ。

「ゆき様を置いて、煉獄様が死ぬはずがありません!やっと思いが通じ合ったばかりではないですかっ、そんな貴女を一人にして、どこに行くと言うのです」

言いながら鈴音は自分が泣いていることに気づいた。ゆきの上等な外套の上にぽたりぽたりと小さな丸い水滴の跡がつく。根拠のない願望であったが、言葉にしているうちに本当にそうであると思い込んでいった。
鈴音の言葉にゆきの大きな水面のような瞳が波打つ。睫毛の先に引っ掛かるように溢れ出た涙が零れないように、ゆきは少しだけ顎を上げてすぐそこの自動車の黒い天井を見る。

「ありがとう、鈴音。…もう、大丈夫、大丈夫よ」

しばらくすると、普段通り感情を抑制した、耳障りの良い声が穏やかな眼差しとともに鈴音に注がれる。輝く宝石のようだった涙の粒はもうすっかり目元から無くなっていた。
しゃんと背筋を伸ばして、もう一度ありがとう、と呟いたゆきはその後はいつも通りの気品のある佇まいでじっと窓の外を見るだけだった。
泣かせてあげるのが優しさだったのかもしれない。けれど鬼殺隊に関わると言うことは死と関わると言うことだ。一度崩れた彼女が、もう一度それと向き合えるはしないだろう。辛くとも悲しくとも、私たちは向き合って見届けるしかないのだ。凄惨で無情な現実を。


ゆきが蝶屋敷に到着した事がしのぶの耳に入り、迎えに出た彼女は落ち着いたゆきの様子に少し驚いた。焦りや動揺でもっと青ざめた様子ではないかと心配していたが杞憂であったようだ。

「しのぶ様、ご連絡ありがとうございました」
「いえ、こちらです。…まだ意識は回復していませんが傷は全て処置できています」

背を向けたしのぶの後をゆきと鈴音の二人で歩く。日が落ちて薄闇が広がる外はひっそりとして、不気味な影を伸ばしていく。その影が完全に闇と溶け合って、灯がなければすぐに何も見えなくなってしまう。ぎりぎりまだ目視できる視界でしのぶの蝶の鱗粉の羽織りが前を揺れる様子は、本物の蝶の羽ばたきのように見えた。白く薄光りする羽に導かれるように一つの病室に入ると、よく知る黄金色の頭髪が目に入る。

出来るだけゆっくりと、走り出しそうになる足を我慢して寝台に近づく。いつもゆきが見上げるばかりで、こうして彼の顔を上から覗き込むことは初めて出会った。琥珀の瞳は今は瞼で覆われて見えない。すぅすぅと、規則的な呼吸が漏れ聞こえ、ゆきは少し安心する。

「…ひどい怪我なのでしょうか」
「外傷はどれも致命傷ではありません。ただ頭部に傷を負っているので、意識が戻るかどうかが気になります」
「そうですか…、あの、今晩、煉獄様に付き添っていてもいいでしょうか」

いつもより血の気のない頬を眺めたままゆきはしのぶに頼む。黒い瞳に枕元の蝋燭の炎が反射して、艶々と輝く。水面のような瞳はいつもなら柔かな光を放つが、こと暗い部屋で見ると底のない海のようだった。

「どうぞ。ただしゆきさんが風邪を引いては本末転倒です。しっかり暖かくしてくださいね」

個室だったこともあり、付き添いを許されたゆきは深々としのぶに頭をさげる。それから鈴音と二人並んで椅子に座り、貸してもらった厚手の毛布を二人で肩にかけて身を寄せる。冬の夜は静かだ。ゆきの邸宅があるような都市部とは違って、自動車のライトの光が見えることもない。音が染み込むような冬の静寂と、ぼんやりした暗がりの中で、ゆきは鈴音の肩にこつりと頭をのせる。鈴音が今朝櫛を通した艶やかな長い髪が、二人の繋いだ手にぱさりと掛かる。

「煉獄様ね、よく待っていてくれるか、ってお聞きになるの」

部屋の隅の影たちに吸い込まれてしまうような、静かな声がぽつりぽつりとゆきの薄紅の唇から零れる。

「君のところに帰るから、諦めないから、待っていてくれるか、と。
だからいつもお待ちしています、と言うのだけど」

言葉を切ったゆきに続きを促すように、じじっと蝋燭の炎が揺れる。

「笑顔で、ただいまと言ってくださると自分に言い聞かせて待っていたのだけど…待つしかないということは、本当に苦しいわね」

淡々と鈴音に聞かせるゆきは、未だ目を覚まさない煉獄杏寿郎の右手に重ねた左手を撫でるように動かす。

「おかえりなさいと、はやく言わせてください」


そうしてゆきと鈴音は、身を寄せ合ってうとうとと微睡ながら蝶屋敷の病室で夜を越した。ゆきはずっと杏寿郎の手を握っていたのだが、時折その手が握りかえしてくれた気がして顔を見るのを繰り返していた。
早朝の薄青の空に変わった頃、握った手が一際強くびくりと反応した。ゆきは腰を浮かせてじっと杏寿郎の顔を覗き込む。動いた表紙に毛布がずり落ちてしまい、ひんやりとした空気に首や背中が粟立ったが、気にならなかった。

「…煉獄様、煉獄様、聞こえますか」

瞼がひくひくと痙攣している様子に必死で呼びかける。意識が戻るか心配だと言っていたしのぶの言葉を思い出し、今呼び戻さねばもう2度と意識が戻らないのではないかと恐ろしかった。

「煉獄さま、目を覚ましてくださいっ、杏寿郎様」

ゆっくりと持ち上がったまぶたは薄明かりの光でさえも眩しそうに瞬いた。琥珀の瞳がゆきを映すと、遅れてその顔に笑みが浮かぶ。

「…ゆきさんに、名を呼ばれるのは良いな」
「いくらでも呼びますから…ちゃんと帰って来てくると約束して下さったではないですか」
「すまない、少しどじを踏んだようだ」

杏寿郎の手がそっとゆきの頬に伸ばされる。寝不足で隈のできた目元を親指の腹で撫でていく掌に、頬擦りをするようにゆきは首を傾ける。

「…ただいま」
「おかえりなさい」