花と獅子

エフェメラル論


松方ゆきは多くの顔を持つ。

松方家のご令嬢、事業主、鬼殺隊の資金調達部門の元締め。そして最近の彼女は自由恋愛の象徴のように世間では持て囃されていた。

松方ゆきと恋仲になった相手が誰なのかということは、貴族社会の間で様々な憶測が飛び交っていた。さる高貴なお方の庶子と禁断の恋、絵描きや物書きに入れ上げている、異人の男と一緒にいるのを見ただとか、一体どこからの情報なのかと耳を疑うようなもなものまである。

そしてその噂話は渦中の松方家の使用人の間でも盛り上がっていた。

「お嬢様のお相手だからハンサムで華やかな方だとばかり思っていたのよ」
「それがまさか鬼殺隊士だとは驚きよね」
「炎柱様、確かに端正なお顔で素敵だわ」

先日顔を見た主人の恋人は、見目麗しい貴族のお坊ちゃんとはタイプの違う美丈夫だ。そのことを話のネタにしてついつい掃除の手を止めてしまう元々は隠のメイドたちを後ろから、パンと手を叩く音がする。

「こら、そこ。さぼらない」
「鈴音、ねぇ炎柱様ってどんな方なの?」

ハタキを片手に鈴音は全く聞いていない同僚たちの様子にため息を吐く。彼女たちも鈴音と同じようにゆきに拾われた孤児だ。ゆきのことはお嬢様と慕っているけれども、やはり噂話や恋物語がすきな年代の女子ばかり集まるとすぐに姦しいお喋りが始まる。

「煉獄様は誠実で実直な人。お嬢様を笑わせるのも得意みたい。さ、もうすぐお嬢様がお戻りだから早く終わらせましょう」

鈴音の号令にはーいと高い声の返事がお屋敷の中を木霊する。鈴音が埃を落としながら窓から外を覗くとはらはらと白いものが空を舞っていた。


「お帰りなさいませ」

使用人たちの声にただいま、と返すゆきは外気で冷えた頬や鼻先がほんのりと赤くなっていた。今日は年末の挨拶で関係各所を回っていたので移動も多く、微笑んではいたが少し疲れが見えた。後から家に入った兄の喜壱も同じようにその白皙を赤く染めていて、使用人たちは急いで温かいお茶の準備を始めた。

「あぁ疲れた」
「お疲れ様です、お兄様」

居間のソファに腰掛けた兄の隣で温かい紅茶に口をつけたゆきも、ようやく落ち着けたようで一つ長い息を吐いている。長い髪を後ろで一つにまとめたゆきがゆっくりと首を巡らせると、髪の束もゆらゆらと彼女の背中で揺れる。その毛束を撫でるように喜壱の指が梳いていくのを気持ちよさそうに瞼をとじたゆきを、兄は愛おしそうに見つめていた。

「珍しいね、赤いリボン」
「あ、これは煉獄様に頂いたものです」

嬉しそうにはにかみながら答えたゆきに、喜壱は露骨に顔を顰めた。ゆきはそんな兄の様子を意に介せず、彼の髪紐と同じ色なのだと無邪気に伝える。

「使っていなかったのですが、煉獄様の任務中は願掛けとして付けることにしたんです」
「わざわざ鬼殺隊士なんかを選ばなくたっていいじゃないか…」
「…隊士でなくても私は、、でも彼が隊士でなかったらきっと私たちは巡り合わなかったと思います」
「そういう並行世界があるのなら、僕は是非ともそっちに行きたいよ」
「そう邪険にしないで、一度ゆっくりとお話しなさってみてください。とても良い方ですよ」

可愛がっていた妹の恋人に対して邪険にならない兄がいるだろうかと、喜壱は思ったがこちらを見つめるゆきの顔を見ていると嫌だとは言えなくなる。
どうせもうゆきのことだから家族に紹介する段取りを付けているのだろう。彼女のそつのなさは自分の教育だが、この時ばかりは悔やまれた。しかし端から喜壱にはこの交渉に勝てるカードがないのだ。ずっと自分の後ろを付いて来ていた何より可愛い妹の願いを無碍にできるほど、冷酷にはなれない。

「分かったよ、会うからそんな顔で見ないでくれ」

兄の言葉に表情を明るくしたゆきは、昔のように兄の首に抱きついた。紅茶のカップを溢さない様に避けながら喜壱は仕方がないとばかりにゆきの背をぽんぽんと軽く叩いたのだった。


この頃のゆきは、煉獄杏寿郎への自身の思いを認めたことで少しは自分の気持ちが落ち着くのではないかと期待していた。ずっと押し込めていたからこそ、暴れる様に心を支配していた恋心が穏やかになるのではないかと。
しかし、愛しいと認めてしまうとまた次の欲が湧く。もっと会いたい、もっと話したい、もっとあの大きな手に触れてもらいたいと、人に言う事が憚られる様な、はしたない願いが首を擡げる。どこまで行っても尽きない願いの積み重ねだ。でもそれも全て彼が生きて帰ってきてくれればの話である。
ゆきは今日もどこかでその刃を振るっているであろう、煉獄杏寿郎の無事を毎日祈り続けるしかなかった。

ゆきも煉獄杏寿郎も人に吹聴する様な質ではなかったけれど、二人が恋仲であることは鬼殺隊の方でも両方に面識のある者には知るところとなっていた。
定期連絡である収支報告に産屋敷邸を訪れたゆきは、報告後にあまねに声をかけられた。

「ゆき、煉獄様と恋仲になったそうですね」

ぽっと花が咲く様に頬を赤くしたゆきは恥ずかしそうに「はい」と小さく肯首する。大きな目を細めてあまねは妹のように可愛く思うゆきの手を取る。

「良かったわね」
「あまね様と耀哉様のような方と巡り会いたいと、以前から思っていました」
「ふふふ、では煉獄様と縁が繋がって良かったですね。彼ならゆきのことを大切にして下さるでしょう」
「はい、とても大事にして下さいます」

そこで言葉を切ったゆきは、あまねの黒檀の瞳を縋る様に見つめる。いつもの気丈さではなく、泣き出しそうな迷子の子供の様に弱々しく繋がれたあまねの手を握る。

「煉獄様に何かあったら、すぐ私にもご連絡を頂けないでしょうか」
「…すぐに連絡します」

繋いだ手が力強く握りかえされる。
誰もゆきに大丈夫だと言ってあげることは出来ない。それを覚悟して彼の手を取ったのだと、ゆき自身も分かっているはずだ。ただ不安が尽きないことはあまねにもよく分かる。ずっと、帰らぬ隊士の数を数字で突きつけられてきたのだ。

数字の上の「1」が「煉獄杏寿郎」でないとは言い切れない。

「特別扱いをしてはいけないと、煉獄様は強い方だから大丈夫だと何度も何度も自分に言い聞かせているのですが、どうしても怖いのです。でも、こんなこと誰にも言えません」

眉を下げたゆきは、あまね様にだけです、どうか今だけお許し下さいと大きな目を潤ませた。

「分かりますよ、あなたの不安が…」
「皆の期待に背いて、私が煉獄様を選んだのに、、別れる時は笑顔で見送れるのに、毎日連絡がないと恐ろしいのです。待っていると言ったのに、行かないで欲しいと思ってしまう。そんなこと鬼殺隊に関わる私が言えるはずもないのに」

誰にも言えなかったであろう不安を口にしたゆきの背を撫でながら、あまねは柱になるほどの実力の持ち主ならばそう簡単に死なないと、慰めるくらいしか出来なかった。
涙こそ零さなかったが、あまねにはゆきが泣いている事が分かった。


どれだけ大人の振りをして何でもない様に聞き分け良くしていても、ゆきは今も崩れ落ちそうな足で必死に立っているのだ。


彼女の本当の顔は、ただ恋人を案じる普通の女の子なのだ。