花と獅子

崇高なる背徳


大きなガラス窓から柔らかな陽の光が降り注ぐ瀟洒なサロンでは、多くの招待客がグラスや煙草を片手にそこかしこで話に花を咲かせていた。
蓄音機から流れる緩やかメロディの上に、囁き合うような抑制の聞いた言葉たちが重なって煉獄杏寿郎には言葉というよりもまるで海の波音のように聞こえる。
女性たちの色とりどりの裾の長いドレスは天鵞絨や絹の光沢が目に美しく、一目で高価な品だと察しがつくものばかりであった。そんな女性たちとは対照的に墨色のスーツに身を包んだ紳士たちは、社交的な態度とは裏腹に抜け目のない眼をしている。

大凡今までの人生において関わることなかった所謂”上流階級”の集まりに自分のような人間がなぜ放り込まれているのだろうか。

気をぬくとすぐに思考は不満の種を探してしまう。
窓際に佇む杏寿郎は適当に手に取ったグラスを飲むともなしに傾けて、いかん、と軽く首を振り任務中であると自身に再度言い聞かせる。

ご内儀、あまね様の警護。
それがしばらく前に親方様から依頼された特殊任務であった。

いつもより少し色味の多い着物姿のあまね様は、貴族階級の集まりの中にもすっと馴染んで溶け込む生まれながらの品があった。静謐な美しさは人目を引く。長椅子に座って周りの声に時々相槌を打つ、たったそれだけでも周りの男は頬を赤らめる。
その穏やかな瞳が時折こちらにちらりと向けられ、無言で大丈夫だ、と言われるとこちらも軽く頷くしかない。

そんな時、一際密度の高い人の輪からわっと笑い声が上がる。
その場の空気を、羨望の視線を一身に集める女性が身を捩ると、美しいその顔が杏寿郎の視界に入る。

松方ゆき。
まだ10代のあどけなさと、妙に大人びた瞳がアンバランスで、それゆえに言葉に尽くせない魅力があった。
白い頬をうっすらと薔薇色に染めて屈託なく笑う彼女のまあるい瞳は光を集め放つ。それに魅せられたように周囲は彼女に視線を向けてしまうのだ。
華族である松方公爵家の令嬢であり、その莫大な資産と事業を同じく成人したばかりの兄とともにこの若さで支えているという。

そしてそんな彼女がこの任務のもう一人の護衛対象である。

「ゆき様、空を飛ぶって本当ですの?」
扇で口元を隠して心配そうな、でも好奇心が隠し切れない声で一人の女性が彼女に問いかける。
「えぇ、今建造中の飛行船が完成すれば皆様も空の旅ができるようになりますわ。その際はぜひご招待させて下さいませ」
にっこりと首を傾げて周囲に提案する彼女にまた周囲が騒ついた。

「松方家の新しい物好きは血ですな」
「いやあ、商才もお持ちとはこれはますます縁談も増えましょう」
「造船技術で我が国一と評されるだけでは足りないようですな」

一回り以上年かさの男性からの賛辞にも恐縮するそぶりを見せず笑みを浮かべた彼女は、
ついと視線を彷徨わせ杏寿郎に目を止め、その漆黒の双眼を安心したように細めた。
その視線を暫く受け止め、ふい、と杏寿郎はあまね様に視線を戻し小さく息を吐いた。

それからも波音のような会話がひっきりなしに続いたが、漸く茶会はお開きになり、招待客が順々に席を立っていく。
その流れに紛れてあまね様と二人で屋敷の奥の部屋へ足を進めた。

「煉獄様、此度も付き合わせるかたちになり申し訳ありませんでした」

「特別な任務を御館様に任せていただけて光栄に思えこそ、あまね様に謝罪されるようなことは何もございません!」

産屋敷邸から立ち代わり数名の隠に先導され、この松方公爵家にたどり着く。
毎度同じ洋館の離れを充てがわれ、茶会や夜会に合わせたタイミングで松方ゆきに面会する。そしてまた産屋敷邸に戻る。
そのあまね様に随行し護衛することがこの任務の全てであった。

あまね様と話しながら荷物をおいた居室に入ると、隠の数名がメイド姿で膝をついていた。

「あまね様、煉獄様、ゆき殿がもうすぐ来られます。そのままご報告を始めたいとのことですが、よろしいでしょうか?」

「かしこまりました」
「うむ、異存ない」

隠に促されてあまね様と並んで長椅子に腰かけるとコンコンと控えめなノックが響く。
隠の開けた扉から入室したゆきは軽く腰を追って叩頭しテーブルを挟んだ二人の向かいの椅子に座った。

「お待たせいたしました。あまね様、煉獄様におかれましてはお変わりなくお過ごしのようで、安心致しております。毎度のことですがご挨拶が遅れて申し訳ございません」

丁寧に再度頭を下げた彼女はテーブルにひと束の書類をおいた。
姿勢を正し、顔をあげた彼女からはさきほどのあどけなさが抜け落ち、代わりに厳しく強い光がその瞳に宿っていた。

「早速ですが、此度の《奥》の報告をさせていただきます」

この令嬢もまた、鬼と戦う道を選んだ者。
その細腕に剣はあらねど、そのことに違いはないのだと杏寿郎もまた背筋に力が入った。

ただ杏寿郎はさきほどの春の日差しのような彼女の眼差しがどこにも見当たらないことにひどく落胆した。
あの陽だまりのような幸せを溶かした目。
どちらが彼女の本当なのだろうか。