花と獅子

春の花


「煉獄様」

砂糖菓子の如く甘やかな音で名を呼ばれて視線を上げると、ゆきさんが白い外套を羽織って廊下の奥から小走りで駆けてくる。まるで最初からそこに納まるべくして作られたかのように差し出した杏寿郎の掌にぴったりと合わさった彼女の手を取って軽く抱きとめる。

「元気そうだな、ゆきさん」
「はい、とても
今日を楽しみにしておりました」

いつもよりも少しはしゃいでいるのであろうゆきさんが身動きをする度にふわりと花の香りが漂う。彼女が出てきたドアから遅れて鈴音と揃いのメイド服に身を包んだ女中の子たちがそわそわとこちらを見ていて、目が合うときゃあと高い声が上がった。どうやら主人の恋人を見にきたようだった。

「お嬢様走ってはいけません。また熱が出ますよ」
「走ってないわ、少し…急いだだけよ…?」
鈴音がいつも通りのつんとした顔で宥めるも、ゆきさんは子供のように言い訳をして桃色の唇を少し突き出して見せた。
「熱?体調が悪いのか?」
「いえ、…楽しみであまり眠れなかったので鈴音が心配してくれているのです」
「そうか、それは嬉しいが…無理をさせないように気をつけよう!」
眠れないほど自分と出かけることを楽しみにしてくれていたとは。思いが通じあったと言ってもこうして目の前で喜んでくれるゆきさんを見ると毎回改めて愛おしく思う。

「では行こうか」
「はい」

彼女の大きなお屋敷を鈴音たち使用人に「行ってらっしゃいませ」と笑顔で見送られながら敷地を区切る鉄格子の門を出る。左腕にゆきさんが両手を添えて寄り添ってくれるので、めっきり寒くなったにも関わらず左半身だけが日向のように暖かく感じる。
ゆきさんに目線を向ければ、同じようにこちらを見上げてくれる黒い瞳が滲むように綻ぶ。
ずっと欲しかった春を溶かした柔らかな眼差しに自分だけが映っていることが杏寿郎の胸を内から広げるように幸福で満たしていく。



「私、もう隠すのは止めに致します」
晴れて思いが通じ合い浮かれていた杏寿郎にそう宣言したゆきさんはこちらの予想以上の行動に出たのだった。
これは鈴音から聞いた話だが、彼女は先日開かれた貴族や士官しか招かれていない上流階級の集まりの最上級でもある「宮中晩餐会」なるものに出席したそうだ。その時の装いが見惚れるほどに綺麗だったそうで、見れなかったことが非常に残念なのだが、ゆきさんは相変わらず注目の的だったようだ。婚約者のいないご令嬢ということもあり男性陣からはそれは熱烈な視線を受けていたことは想像に難くなく、そのことを思うとじりと心の奥底に火種が生まれる。しかし彼女の魅力を持ってすれば致し方ないことだろう。
そんな彼女はご婦人からの好奇心に満ちた「ご婚約はもうお決まりになったのですか?」という質問に堂々とこう答えたそうだ。

「もう心に決めた人がおりますの」

そこからゆきさんが興味津々の御婦人方をどのように煙に巻いたのかは不明だが、一夜にして彼女の言葉は彼女の生きる世界に広まったらしい。
ゆきさんは新聞に載るほどの名家のご令嬢だ。そんな彼女が婚約者ではなく好きな男がいると言い出したことは家と家の結びつきを重んじる貴族社会の中にどんな旋風を巻き起こしているのか。鬼殺隊という特殊な世界に身を置く杏寿郎に取ってはピンとこないが、さぞ好奇の目に晒されていることだろう。
大丈夫なのかと心配したが、彼女はけろりと、これで二人で外で会うことも何も疾しいことはありません、とにこやかに曰うのだった。


「本当に、ゆきさんには驚かされる」
「え?」
「いや…、それより俺の物ばかり見なくてもいいのだぞ?」
いつぞやの気さくな主人の雑貨店で手袋や襟巻きをあれでもないこれでもないとこちらの首に巻いたり外したりするゆきさんはきょとんと首を傾げる。
「今日はいつも頂いてばかりなので、私が煉獄様に贈り物をすると最初に言ったではないですか」
「そうだが、男の俺の着るものなど楽しくないだろう…君が選んだものなら何でも良いぞ?」
「まぁ…私とても楽しんでおりますよ?」
俺はゆきさんのものを選んでいる方が何を付けても着ても可愛らしいので見ているだけで楽しいのだが、こうして背伸びしながらこちらの身体に触れてくれる一生懸命な彼女の相手も悪くない。
悩み抜いて選んでくれた暖かい羊毛の襟巻きと革の手袋を包んでもらっていると、店主はこれ見よがしに良かったなぁ色男と揶揄ってきた。

また来いよ、と見送る店主に一礼してから背を向けて人手の多い通りを並んで歩くと道ゆく人の目がゆきさんに向いている気がしてしまう。丸い襟のついた白いコートに包まれた彼女の肩に腕を回してしまう俺は狭量と言われても仕方がないだろう。しかし恋人をあまり見ないで欲しいと思うのは至極真っ当な感情だと自分に言い訳をして人混みを抜けるまで、あの角を曲がるまで、と結局甘露寺に教えてもらった喫茶店に着くまでその手を離すことが出来なかった。

カタカナのメニュウからおすすめのランチセットを5つ頼むと店員に怪訝な顔をされながらも、次々にお皿がテーブルに並ぶ。コロッケやオムライスなどどれも熱々で美味しかった。ゆきさんは初めの頃は食事の度に目をぱちぱちと瞬いていたが、最近は慣れたように食べ終わる時間を合わせるようにゆっくりと食事をしてくれる。

「煉獄様の『美味しい』を聞いてから食べると本当にいつもより美味しいから不思議です」
「それは良かった!それにしてもさすが甘露寺、美味い店をよく知っている」
「甘露寺さんに教えていただいた和菓子屋さんもとても良かったですね」

食事を終え、色づいた落ち葉もそのほとんどが地に落ちた冬の訪れを感じさせる庭をゆっくりと散策する。有名な寺院だが紅葉が終わってしまった事で人手は疎らで、二人で話すにはちょうど良かった。

休日に恋人と出かけて買い物をして流行りの店で食事をする。きっと世の男女にはさして特別でない、普通の事なのであろう。
ゆきさんと恋人らしく連れ立って出かけられるだけでも俺は幸運を使い切ってしまっているような気がする。
全く普通では無い世間から外れた二人にはこの逢引はもう二度と出来ないかもしれない、人生で最後かもしれない、そう毎度思うのだ。
どれだけ会えない期間があっても会えば変わらない笑顔でそれまでの血生臭い世界から遠く離れたところへと連れ出してくれる。そんな彼女との時間にどれだけ救われているか、君がどれだけ俺にとって掛け替えのない人なのか、言葉では言い尽くせない。同じように愛おしく思っていると言葉をくれるゆきさんに俺はこれ以上なにを返せば良いのだろう。

「どうかされましたか?」
「うん、俺はこれから君に何をあげられるかと思ってな」
「まぁ、もう十分に頂いてますよ?」
可笑しそうに口元を指先で隠して笑うゆきさんは首を傾げてじっとこちらの様子を伺う。その目にはきらきらと光が輝き、何の不安も恐れも浮かんでいない。愛おしいと目線だけでも雄弁に伝えてくれる彼女の瞳に自分はどう映っているのだろうか。

「君は今まで生きてきた社会にもご家族にも、俺のことを隠さない道を選んでくれたんだ。
俺もゆきさんの為ならどんな苦労も厭わないつもりだ。
けれど結局俺は鬼殺隊であり、君を守るのは鬼からであって人ではない…」
「大丈夫です…
ずっととても悩んでいました。煉獄様に惹かれている事は分かっていても、正しくない事だと自分に言い聞かせていました。けれど正しいとか間違いとかではないのだと、ただ、貴方を愛しているのだとようやく認めることができたのです」
恥ずかしそうに頬を染めて目線を彷徨わせるゆきさんが可愛らしくて今すぐ抱きしめてしまいたいくらいだが、人目のある屋外なので己の腕を掴んでいる彼女の白い手に掌を重ねるだけに抑える。
「煉獄様は素晴らしい方です。優しく誠実で、いつでも真摯に私と正面から向き合ってくださる。
そんな貴方との関係を公にすることを憚る理由などあるはずがない…今ではそう思えるようになりました。ですから私はもう大丈夫です」
「社会での身の振り方は君の方が俺より上手いことは百も承知だが、無理はしないでくれ。お父上や兄上とも険悪になっていないか?」
「父は驚いてはいましたが、私が良いなら良いと、思いの外すんなりとしたものでした。
先生に言われた時はそんなにあっさりといくものかと思ったのですが…兄は…そうですね、暫くすれば落ち着くと思います」
ゆきさんに関しては兄上が一番の障害であった。今度改めて会う事になっているが、果たして何を言われるのだろうかと少し怖いのであまり考えないようにしている。

「それにもし認めてくださらなくても、私は煉獄様を諦めません」

まるで男性が女性を口説くような言葉をもらって、こちらも頬が熱を持つ。
よくよく考えればこちらの想像以上の大金と人を動かし、堂々とした立ち居振る舞いのできるゆきさんが見た目通り大人しい守られるだけのお嬢さんのはずがない。
人を魅了してやまない天性の魅力と聡明さを持ったゆきさんは今までも、これからも日の当たる道を歩んでいく人だ。前を向いて歩く隣に彼女が自分を選んでくれたことが心の底から嬉しかった。

「いざとなれば駆け落ちしてくださいね」
「そうならないように、認めてもらわねばな!」

茶目っ気のある丸い目にまた彼女の新しい顔を見れたようだ。少しずつその完璧な微笑みの下にある、彼女の本来の顔が見えてきてそれがとても愛おしい。口では駆け落ちだなんて言っても、彼女は決してそんな道は選ばないだろう。日陰を行くような、そんな生き方は彼女には似合わない。

手を引かずともゆきさんは自分の足で歩いて行ける人だと知っている。それでもその手を引く役目を与えて欲しい。繋いだ手をいつ終わるともしれない戦いの一つの灯とさせて欲しい。
彼女が待ってくれているのだから、これから先どんなことがあっても俺は帰らねばならない。
この春のひだまりに。