花と獅子

緑眼の涙


「宮中晩餐会ですか」

お兄様の邸宅を尋ねた際に聞かされたのは久しぶりに催される陛下主催の晩餐会への招待についてだった。主だった華族の他、名士や知識人を招いての大規模なそれは余程の理由がなければ辞退することなど許されない。

「うちは全員呼ばれているよ。…前回は母さんの葬儀と時期が重なっていたからね。」
「そうでしたね…」

お母様がお爺様の後を追うように持病から亡くなってしまい、相次いで愛する人を失ったことで父は世間と距離を置いて別宅に閉じ籠るようになり、家督を築いた喜壱お兄様を中心に私たちは兄弟は大人にならざるをえなかったのだ。当時を思い出し少ししんみりした空気を打ち消すように明るい声で兄がそうだ、と話を続ける。

「ドレスの色、すまないが友人のご令嬢とそれとなく相談しておいてくれるかい?皇后様や皇女殿下との相性もあるしね…」
「もちろんです。皆様も気にされてますでしょうし…耳が早い方には心当たりもございます」
すまないね、と肩をすくめた兄は少し疲れたように眉間に手を持っていく。美貌の貴公子だと言われるその顔には薄く隈が出来ていた。
「お疲れのようですね」
「大丈夫、世界で一番可愛い妹がこうして訪ねてきてくれたからね」
色白の長い指がするっと私の指先を掴む。柔く握り返すと兄の親指が関節の骨の上を擽るように撫でる。
「ゆきこそ大丈夫かい?鬼殺隊の方も僕と譲治で見れたら良いんだけどね。そしたらもうゆきはすきに生きていけるだろう」
こちらを思いやっての言葉だと分かっていても、今、煉獄様との縁が切れることだけは嫌だった。
お兄様の黒い切れ長の瞳の奥を覗くように見つめて、喉まで出掛かった言葉を音にする勇気を持てずに黙り込む。
どうかしたのかと問われても答える言葉を紡げず、複雑な心のうちを話したいような話したくないような葛藤に苛まれた。

鬼殺隊のために働くことを辞めたくない。ずっと続けていたい。もっと勉強もしたい、専門知識も、人を説得できる教養と態度を身に付けたい。できるなら産屋敷邸の近くに住んでしまいたい。婚約なんてもう誰ともしたくない。好いた人がいるのだと言ってしまいたい。

でも何よりも小さい頃から追いかけた尊敬する兄を失望させたくない。

「…どんな私でも許してくださいますか」
「許すも何も…どうしたんだい、いつでもゆきは一番の宝物だよ」

優しく微笑まれると泣いてしまいそうになる。涙の膜が張った瞳を瞼に閉じ込めて、こくんと一つ肯く。
こんなに愛してくれている家族を裏切るような恋慕の情を捨てることもできずに、どんどん大きく育ててしまった己の愚かさに嫌になる。

「どうしたんだい、根を詰めすぎたんじゃないか?さぁ楽しいことを考えよう。晩餐会用のドレスは早めに仕立てよう…また店に買いに出向いても良いし。もちろん当日のエスコートは僕がするから、勝手に誘いを受けないようにね」

泣きそうな私を気遣ってくれる兄の優しさに甘やかされながら、心はどこか空になっていく。


ある晩、コツンコツンと窓を叩く音で目を覚ます。暗闇に寝ぼけ眼を擦って目を開き彼の鴉だろうと予想をつけて窓辺に行く。予想通りきらりと光る螺良な瞳がこちらを見上げる。鍵を開けて招き入れると、慣れた様子でぴょんと差し出した腕に飛び乗った鴉を連れてさっきまで寝ていた寝台に腰掛ける。
「こんばんは、少し久しぶりね」
返事のように指先を甘く噛む鴉の艶やかな羽を撫でてから、脚に括り付けられた筒に手を伸ばす。この作業にももう随分と慣れたものだ。丸められた紙を伸ばすと彼の筆圧の強い字が並んでいる。ベッドサイドのライトをつけて一文字一文字を大事に読み進める。

何処にいるのか明確には書かれていないけれど手紙書ける状況であることに安堵する。山で見た紅葉が鮮やかに色づいていること、しのぶ様に君の様子を聞かれたこと、もらった手紙の束が厚くなったこと。たくさんの言葉が会えない寂しさと不安に満ちた胸の中に染み込んでいく。
どこにも直接的に好きだと、会いたいと、君を思っていると書いていなくても言葉の端々に彼の誠意と好意が溢れている。
返事を書きながら、任務の終わりの日付を目に留めて次のあまね様との面会日の前日だと気付く。会いに行ってもいいだろうか。すっかり公私混同しているなと自覚しながらも一月以上会っていない彼の姿を瞼の裏に描いては恋しく思う。
手紙に書かずに行けば、驚いてくれるだろうか。
猫のような大きな目を瞬いてすぐに目尻に皺を寄せて笑う顔が思い浮かんだ。


驚いてくれるだろうかと考えていた私の思惑とは正反対に、前回泊めていただいた炎柱邸の門扉の前で私の方が目の前の光景に驚かされた。

彼女は一体誰なのだろう。

女性らしい体つきに大きな瞳と鮮やかな髪色が可愛らしい。肌けた隊服から覗く豊満な胸元からは思わず視線を逸らせてしまうほどだ。

『師範』と煉獄様を呼ぶ声で弟子なのかと想像する。扉から盗み見るように隠れてしまったけれど、どうして私が隠れないといけないのだろう。何ら恥ずべきこともない、声を掛ければいいのだと頭でわかっているのに足が竦む。こんなことなら鈴音に付いてきて貰えば良かった。お二人の方が宜しいでしょう、としたり顔で見送られてしまったが声すらかけられないなんて、どうしたものか。

剣術の指導中なのか彼女の背後から腕や手を持って太刀筋を教える様子に、胸が苦しくなってきた。
大きな目で煉獄様を見上げる彼女が彼に好意を向けているように見えてしまう。言葉を交わす中で彼女に笑顔を向ける煉獄様にひどく傷つけられた心地だ。酷いことなんて彼はなにもしていないのに勝手に一人で傷ついてしまう、どうしてと。
どうしてそんな優しい顔を彼女に向けるの。笑顔を向けないで欲しい。触れないで欲しい。
胸の中に次々に湧き上がる言葉がどれもこれも氷のように固まって身体中の血が凍っていくようだ。

「ゆきさん?」

背後から掛けられた声にようやく二人から視線を離して振り返ると、千寿郎さんがお盆の上に山盛りのおにぎりを持って立っていた。

「あ…千寿郎さん」
「お久しぶりです!あ、兄上は稽古中ですね。ちょうど休憩にと思っておにぎりを持ってきたので、一緒に行きましょう」
「いえ、私は…」
にこやかにいつものように駆け寄ってくれる千寿郎さんの言葉にうまく返事ができずに今すぐここから逃げ出したくて堪らない。断りの言葉を入れる前に彼はまだ声変わり前の高い声で兄上、と高らかに呼びかける。ついとこちらに向けられた陽光の瞳と目が合うとみっともない姿は見せられず、背筋を伸ばして微笑みの仮面を被る。
「ゆきさん!千寿郎!」
溌剌とした声と朗らから笑顔を見て、自分がちゃんと笑えているのだろうと安心する。
それでもその隣に佇む可憐な女性にはどうしても目を向けられなかった。

縁側におにぎりの載ったお盆置いた千寿郎さんと一言二言話した後で煉獄様は少し距離をとって三人を見ていた私の方へやってきた。ずっと会いたいと、顔を見たいと思い続けた人が目の前にいるのに素直に喜べなくて、真摯な眼差しを向けられて泣きたい気持ちになる。

「驚いた!手紙に書いてくれれば迎えに行ったのに」

心から嬉しそうに笑ってくれる彼に同じように思えない自分が酷く醜い存在に思えた。何か言おうと思っても言葉にならなくてせっかく被った仮面がすぐに役に立たなくなる。
「どうかしたか?」
黙り込む私に心配そうな声音で眉を下げる様子に、緩く首を振って答えるだけで精一杯だ。

「あの!師範、こちらの女性は?」

煉獄様の後ろからひょこりと顔を覗かせた彼女は、近くで見れば見るほど愛らしい。夢見るような瞳と薔薇色に染まった頬はふっくらとしてとても純真そうだ。年頃の少女らしく好奇心のありありと浮かんだ目が私を映す。
彼女の目には私はどう映っているのだろう。

「あぁ、彼女は鬼殺隊の関係者だ。名は…」
「松方ゆきと申します。お見知り置きください」
強張る頬を無理やり動かすように微笑んで軽く会釈すると彼女は礼儀正しく両手を揃えて同じように礼を返してくれた。
「甘露寺蜜璃です、よろしくお願いします!」
「甘露寺は俺の継子になったんだ」
「師範にはお世話になっています!」

継子というものがどういう存在か説明しつつ千寿郎さんが休憩の準備してくださっている縁側に案内される。甘露寺様、煉獄様、私、千寿郎さんの並びで腰掛けて会話に相槌を打ちながらもやもやした気持ちが胸いっぱいに広がりどうしてここにいるんだろうかと、やるせない気持ちになる。

「そうですか、呼吸の継承者として選ばれたのですね。」
「そ、そんなことないんですっ!でも師範が誘ってくださって本当によかったです!」
話しながらも煉獄様と同じように次々におにぎりを口に運ぶ甘露寺様を見ていると、だんだん大丈夫だろうかと心配になってくる。にこにこと嬉しそうにその様子を見守る千寿郎さんからこれが彼女の普通なのだと分かり、彼女もまた普通ではない人なのだと理解した。
「あ、もう無いですね、もう一度お茶を淹れてきますね」
「千寿郎、俺が持とう」
兄弟が屋敷の中に行ってしまうと二人きりになってしまった。私が勝手に意識しているだけだと、分かっていても甘露寺様にはいつものように社交的にふるまうことが出来ず沈黙が生まれる。

「あ、あの!ゆきさんは師範と恋人なんですか?」

きゃあ聞いてしまったわ!と小さく叫ぶ彼女の質問に構えていた肩の力が抜ける。
「…甘露寺様は煉獄様を慕ってらっしゃるのでしょうか?」
「そうですけど、そうじゃないと言うか…あの、私は自分より強い殿方と添い遂げたくって鬼殺隊に入ったんです!」
「…左様でございますか」
予想と大きく違う返答にどうしたものかと思いながら笑みを貼り付けたまま一つ肯く。
「師範はとても強くて厳しくて、憧れてはいますけど…それだけです!ゆきさんのこととっても愛おしそうに見るんだもの…きゅんきゅんしちゃいました!」
「きゅんきゅん…」

「甘露寺、随分楽しそうだな!」
「し、師範!!」
きゃあと可愛い悲鳴をあげる甘露寺様がとても素直な人だと分かり少しだけ気持ちが楽になる。それでも一度芽生えた嫉妬の芽は簡単には消えないようで、ゆっくりと私の中にその根を伸ばしていた。
二人の訓練の様子を千寿郎さんと並んで見ながら、夕飯を一緒にどうですかと誘われたけれど今日は鈴音も置いてきてしまったので遠慮しますと言うと目に見えて寂しそうにするので申し訳なくなる。千寿郎さんを家に招待できれば良いのだけれど、まだ会ったことのない当主のお父様の許可なしに連れ回して良いものか悩むところだ。
「甘露寺さんもたくさん召し上がる方なので、最近いっぱいご飯を作るんです」
「…彼女はこちらにお住まいなのですか?」
「そうです。継子は柱の側で生活する人が多いんです。」
一緒に住んでいるのかと、また胸が重たくなる。喜んだり落ち込んだり、まるで情緒が安定せずに振り回されることに疲弊してくる。

剣を振るう煉獄様の様子に、その筋肉質な腕の陰影や流れた汗の軌跡を目で追ってしまう。
どうすれば彼を自分だけのものに出来るのだろう。
思い浮かんだ不遜な考えにひやりと首筋が冷える。人を自分のものにするなんて出来ないのだ。メイドだってそうだ、彼女たちは賃金で契約しているだけだ。私のものではい。
なんの契約も約束もない彼など尚更、心を通わしてお互いの意思で時間を共有するものだ。

今日は自身の醜さと惨めさを思い知らされてばかりだ。


日の沈む前に鍛錬を終えた煉獄様に送ろうと云われ、烏の行水のように早い湯浴みと着替えを終えた彼と並んで定宿までの道を並んで歩く。余程急いでくれたようで、金糸の髪はまだ水分を多く孕んでいるようでいつもは上向きに跳ねる癖毛も一つに纏めるために撫で付けられてどこか知らない人のようだ。

「それで、今日はどうしたんだ。ずっと様子がおかしいぞ?」

きっかけを見つけられず、いつもは彼の腕に回す右手を反対の手に納めて外気に冷たくなった指先を温めるようにすこし強めに握る。

「女性と一緒に生活されているとは聞いてませんでした」

言わないでおこうと思っていたのに、二人きりになった途端に責めるような言葉が溢れる。はっとして唇を噛んで俯くとじわりと熱い涙が目頭に溜まる。

「甘露寺は…」
「分かってます、彼女は純粋に剣術の教えを乞うためにこちらにいらっしゃるのだと。私的な目的はないと、甘露寺様の口からも伺いました。ただ、私一人が、私的な理由で嫌なのです」

考えも言葉も纏まらずにぽたぽたと流れ出る涙を隠すように両手掌で瞼を覆う。ぐちゃぐちゃの胸の中が痛くて痛くて死んでしまいそうだ。血が出ていないことが不思議なほどに痛む理由は考えれば考えるほどちっぽけな事だ。
不意に石鹸の香りとともに柔らかく体を抱きしめられる。自分の掌で覆った視界は真っ暗で見えないけれど、煉獄様の腕の中にいるのだと分かると余計に涙が出る。
「おやめください、こんな同情のような抱擁は嫌です。もうこれ以上惨めになりたくないのです…」
泣き出すだけでもどうかしていると思う。人前で泣いたのなんていつぶりだろうか。それを一番見られたくない人に見られてしまった。外套の上から体を包む腕の力が強くなって額を彼の肩に預けて両手で着物を握りしめる。流れ落ちる涙がどんどん着物に吸い込まれて二つの濃い染みを作っていた。
「どうしていいのか分からない。ずっと胸が苦しくて、気持ちがぐちゃぐちゃで、嫌なことばかり考えてしまう…」
子供のように嫌だと駄々を捏ねて挙げ句の果てには泣き出して、煉獄様を困らせて私は何がしたいのだ。

「それだとゆきさんが俺のことをとても好きだと聞こえるが、合っているだろうか?」

恐る恐る顔を上げると随分近くに陽光を固めたような燃える瞳があった。
蛇口が壊れたように止めどなく流れでる涙で滲んだ視界でもはっきりと分かる、喜色の混ざった眼に見つめられてこくりと一つ肯く。

「嫉妬してくれたのか。君が、俺に。よもや、驚いた…泣くほどに嫌だとは、俺は存外ゆきさんに好かれているのだな」

「えぇ、そうです。お慕いしております、煉獄様」

何度も頭の中で呟いた言葉を音にして仕舞えば、これほど簡単なことだったのかというほどに胸の痛みが和らいだ。口にした言葉を彼がどれほどしっかりと受け止めてくれたのかは、再び強くなった抱擁と溶けてしまいそうなほどに綻んだ表情が語っている。

「あぁ、今日この言葉を聞くために俺は生まれてきたのだろう!」

勢い余って抱き上げられた身体を煉獄様の首筋に腕を回して落ちないようにぎゅうとしがみつく。ずっと抱きしめたかった人をこの腕に閉じ込めて、ようやく涙は止まったようだ。