花と獅子

青色と吐息


何を選ぶべきか、何を選ばざるべきか、私はずっとそれを知っていた。

松方家の娘が選ぶものはこれだと、公爵家のご令嬢が選ぶならばこれと、いつでも一番の正解を選んできたのだ。それはとても簡単な問題であり、両親や良く出来た兄たち期待に応えるべく作り上げて来た理想の自分自身である為に、間違うことなどありえない選択の数々だった。そこにはやりたいとか、すきだとか、こうしたいだなんていう私の心の声は無く、一番の優先順位は完璧なお嬢様でいることだった。
いつしかそれは完璧な<奥>の管理者になることになり、松方の会社を代表する一人としての理想像になっていた。私は私を上手く演じて生きて来たのだ。最良で最善を選び抜いて来た。その結果が今の松方ゆきである。

私が私に求める理想があり、それを体現していくことは苦痛や忍耐の必要なことではなくごく普通のことに思えた。今思えば、私の心が求めるものが完璧な理想の自分になることだったのだから、そこにはやりがいや達成感があったのだ。
だからこんなふうに心が思考と違う答えを望んでしまう状況は生まれて初めてのことだった。

頭の中の自分の静止を全く聞かずに、解き放たれた怪物は私の体でどんどん大きく強くなっていく。
眠れなくさせたり、彼のことばかり考えさせたり、急に言葉を失くさせたり、衝動的に振る舞い、私を振り回し、疲弊させ、そして知らなかった感情を連れてくる。苦しいくらい痛い胸も、目があっただけで泣きそうになるくらい嬉しいことも、繋いだ手が溶けるんじゃないかと思うくらい熱いことも、彼の声で呼ばれる名前がまるで呪文のように甘く耳残ることも、全部全部知らなかった。


「ほー、すきだと言われたのですか!」
「…彼は私の言葉を待つと言って下さいました」
「なるほど、紳士ですね」

産屋敷邸に訪問する目処が立ったシュルツ先生を伴ってのこの旅路も二度目となる。兄から自動車を借りることができたので、後部座席に先生と並んで座ると移動の間、手持ち無沙汰を慰めるような世間話からそれで最近どうなんですかと確信に迫る質問が飛んできた。鈴音とともに煉獄様との逢瀬を見ていたと知っているので隠し立てすることも出来ず、言葉を選びながら街に出かけたことや手紙をやり取りしていることを明かす。

心に素直になりなさいと、私に一歩踏み出させた人は間違いなく先生である。
自分の心や煉獄様への気持ちを言葉にして人に話すことはとても恥ずかしいのに、私はまた先生に背中を押してくれる何かを求めるように気づけば相談のようなことをしてしまっている。

「で?お嬢様も愛の営み、知ってしまいましたか?」
「先生、それは早過ぎます!」
鈴音がすかさず諫めてくれるのでなんとか会話になるけれど、羞恥でどんどん顔に熱が籠もっていく。
「はは、冗談です。肉欲も人間の本能ですがまだ早いですかねぇ?まぁ、会いたいので会う、話したいので話すも良いですケド」
「けど?」
「それだけじゃあ物足りなくなってくるものですよ、恋というやつは」

その指摘に私は心のうちを見透かされたような気持ちになる。隠していたわけではないのだが自ら目を背けていたことを言い当てられて泣きたくなるような恥ずかしさで思わず俯いてしまう。
はしたない。これは、とてもはしたない感情だ。
嵐の夜に熱のこもった目で見つめられて撫でられた唇の感触が消えない。もっと違うところに触れたいと言われて、彼になら触れられたいと思ってしまった。触れて欲しい。触れさせて欲しい。そんな邪な願いを知ってしまったのだ。

「誰だってそうですよ、僕だって昔はそういう気持ちに振り回されたりしました。決して悪いことではないです。そのうちそれが愛になればいいですね」
「愛、ですか」
「えぇ、見返りを求めずとも相手に与えること、ですかね?まぁ愛の定義が出来るほど僕が知っていることなどないのですが…一緒にいたいならいれば良い、抱きしめたくなれば抱きしめれば良いんじゃないですか。キスもハグも僕の国では挨拶ですし、小さい頃はお嬢様もよくしてくれましたねぇ!」
確かに先生の頬にキスをした覚えはあるけれど、それは親愛のものであるし、先生からのリクエストで兄とともに先生にしていた挨拶だ。同じことを煉獄様に出来るかどうか考えただけで火が出そうなほど頬が熱を持つ。

「どうですか、心を自由にしたら色々なことを知れたでしょう?君は賢い子だから先の先まで、周りの人のことまで考えて行動していますが、君自身が幸せだと思えなければ心が死んでしまって誰も幸せにはなれません。お嬢様が彼がいいのなら、それを貫いても良いのではないですか?お父様に言ってみたら良いと思うけど」
「…それは、あまり上手くいく気がしません。そんな我が儘を言って許されるはずありません」
あれだけの名家からの縁談を断らせておいて、煉獄様と結ばれたいだなんて家族に言えるはずがない。
苦い薬を飲んだように胸が重苦しくなり、また見えない茨に捕まったような心地がする。私の婚約者を私が選んで良いはずがない、それは育ててくれた父や兄への裏切りに他ならない。

「まぁそんな外面に拘っていられるうちはまだまだです。近いうちにお嬢様は彼の手を離せなくなります、彼以外はどうでもよく思えてしまいますから安心して下さい」

先生の薄氷の瞳が楽しそうに弧を描いて睫毛の間に消える。
予言めいた恐ろしい言葉にそんなふうになりたくないと思うけれど、確かに私は一度その未来を思い描いていたことを思い出した。

何もかも捨てて、空っぽの両手で煉獄様だけを抱きしめて生きていけたならば、どんなにいいか。
遠くない未来、私は本当にこれまでの自分を捨てて彼を選んでしまう日が来るのかも知れない。
それは正解じゃないのに。


産屋敷邸は今日もひっそりとお寺のような静の空気が流れていた。
耀哉様は庭先で鴉に隊士たちへであろうかいくつかの指示書を持たせてから、ゆっくりとした足取りで客間の上座に座るといつものように笑みを向けてくださった。
先生が分かりやすい言葉を選んでご病気についての見解と対処療法とおっしゃていた薬の内容や治療について説明してくださる間、自分の見識と先生の見立てをすり合わせる。専門的な医療の知識までは持ち合わせていないけれど、それでもご病気の状態を理解できるところは理解したい。楽になる方法や薬があるのであればなんとしても手に入れよう。

しかし先生の言葉は残酷だった。検査結果からも現状の薬では進行を遅らせることが出来るかどうかも不明だと、近い症例を当たってみたものの目覚ましい成果はないと完結に伝えた。それでも先生は後世のため、これからもあなたの血を研究に使わせてもらえないかと申し出た。どういう反応が返ってくるのかわからなかったけれど、お館様はもちろんだと即答で了承してくださった。
「試せる薬があるのなら何でもやってみるよ。私の命の先は見えている…もう5年も10年も生きれるような体ではないからね。それでもまだ私は子供たちのためにやるべきことがある」
「立派な方ですね、貴方は。僕に出来る治療は全てやります…それでも必ず治すと言えないことが申し訳ない」
私の知り得る中でも先生は最も優れたお医者様の一人だ。
不治の病を手の施しようがないと匙を投げるのではなく、やれることを探してくれたことには感謝しかない。

「非科学的なことを言いますが、貴方自身が生きることを諦めずにこの病と戦っていくことが一番の薬です。明日を諦めず、日々笑って過ごすことが大切です…人の気持ち、心というのは素晴らしいエネルギーですから」

そのあと先生はあまね様や御息女の血も採取して、丁寧に頭を下げて産屋式邸を後にする。


「先生、耀哉様には本当に何もできないのですか…」
あれだけきっぱりと患者に対して宣言した人に何を言っているんだろうかと思う。それでも可能性を確かめずにいられなかった。
「残念だけど、今の医術でどうにか出来る術はない。根本的な治療法が分からないんだ。ごめんね、お嬢様の大切な人を助けられなくて」
無言で首を振って、涙がこぼれそうになるのを瞼の裏で受け止めて、一つ呼吸を吐いてから分かりましたと顔をあげる。泣いたってどうにもならないのなら、涙を流す意味はない。
「では、皆さんの血を集めていらっしゃたのは?」
「うん、このままいくと血をうまく作れなくなるんじゃないかと思ってましてね。まだ研究段階だけど、人の血は分け与えることができると思う。ただ種類があるのか受け入れるものと受け入れられないものがあるみたいだから…早く実用化までいければ良いんですがねぇ」
「…それは事故で大きな傷を負ったりしても、血を足すことができるということですか?」
「そうですね、失血性のショック死などを防げるようになると思いますよ」
「ではあとは血液の保管が可能になれば広く流用できる…保管方法については科学や機械分野に強い方の助言が必要ですね」
流用できるようになればもっと多くの命が救えるはずだ。すぐに費用や依頼先を考え出してしまうけれどこれはまだ研究段階なのだ。
「流石です。松方の人間は金を生む手を持っていると社交界で言われるだけあります」
商才を妬んで付けられた渾名と知っているけれど、今ではそれも悪くないと我が家の人間は思っている。利益を生み、世の中を豊かにすることを誰に憚る必要があろうかと。
「先生、では私のお金を生む血も研究材料として提供します。必ずものにしてくださいませ」
にっこりと頬を引き上げて先生の青い瞳をしっかりと見る。意表を突かれたように一瞬表情を崩した先生は、次の瞬間にはくしゃっと顔に皺を寄せる。
「それでこそお嬢様です」


今回は車を借りれたので一泊せずにとんぼ返りで市内の家に戻ると、メイドから長兄の喜壱が来ていたと聞かされる。なにか急ぎの用だったのだろうかと思いながら明日の朝電話を掛けることにして、浴室に向かう。

暖かいお湯に浸かって体を伸ばすと緊張が緩んで頭がぼんやりと取り留めのないことをつらつらと考え出す。最近はずっと煉獄様のことばかりが胸に去来する。
ゆきさん、と呼んでくれる溌剌とした声や、日の光のような瞳の色を思い出してはあれから何日会っていないのか、今日は彼は無事だろうかとその身を案じてしまう。強い方だ、柱になるほどの実力を持つ、頼もしい方。でもそんな彼を守ってくれる人はいるのだろうかと不安になる。きっとそんな人はいないと、分かっている。彼は弱きを守り、助ける側の人間だ。

「私の元に帰ってきて下さい」
小さな声で呟いた祈りがどうか、叶いますように。次の約束をするようになっても、別れてしまえばこの前の会話が最後になるかもしれないと地面がなくなるような恐怖を感じる。明日を諦めないと、戦っている煉獄様が言ったのだ。待っていると言った自分が信じなくてどうするのだと、叱咤しても不安は消えない。それでも会えない時間が長いほどに、鴉の運んでくる手紙や、会えた時間が掛け替えのないものとなり余計に離れ難くなるのだ。

『もし君が俺と同じように愛しく思ってくれているのなら、それ以上に幸せなことはない』

貰った言葉を思い出しただけで頬が熱もつ。誤魔化すようにお湯の中にとぷんと頭まで浸かって音が消えたお湯の中で言葉を零し、泡になって消えていく様をバスタブの中から見送る。

(お慕いしています)

伝えられる日は来るのだろうか。
もう二度と伝えられない恐怖に駆られて本当は今すぐにでもお伝えしたいと思う。そうすれば彼はあの大きな両腕に迎え入れてくれるだろう。壊れ物を扱うような優しい手を思い出してすっかり消えてしまった右手の痕が恋しくなった。