花と獅子

嵐の夜に囁く


二人で並んで歩く自然とあの夏の日が思い出されて頬が緩む杏寿郎は、遠くから迫り来る雷音さえも聞こえていななかった。炎柱邸へと向かう道すがら、差し出した腕を掴んでくれるゆきさんのほのかな温もりを感じて満たされた心地になる。

「本当は、お会いしたら一番にお伝えしたかったのですがいろいろとあったので…煉獄様、炎柱へのご就任おめでとうございます」

柱への就任を祝う言葉とともに、花が綻ぶように目を細めて笑みを向けてくれる。誰にどんな言葉で「おめでとう」と言われるよりも彼女の口から聞く言葉が何よりも甘美な賛美だ。褒められたくて剣を振り続けたわけではない、それでも、一つの区切りを成果として認められることを喜ばない人はいないだろう。

「ありがとう!ゆきさんから祝ってもらえて本当に嬉しい」
「何かお祝いの品をお持ちすべきでしたね…前回も頂いてばかりでしたし」

朱色のリボンについては丁寧にお礼と大切にするという言葉を手紙の中でもらっていた。艶やかな髪にその色が揺れる姿はまだ見ていないけれど、容易に瞼の裏に思い描くことができる。よく着ているような洋装の白いシャツ、あのリボンで髪を一つに纏めて背中に癖のある黒髪を流すゆきさんが振り返るとそれに合わせて髪もリボンも揺れるのだろう。


「煉獄様、煉獄様?」
ひらりと白い手が目の前で泳ぐ様に揺れている。どうやら想像に思考を傾けすぎていた様でゆきさんがこちらを見上げて小首を傾げていた。
「どうかされましたか?」
「ははは、すまない」
本物の君が側にいると言うのに想像でも君を見ていたなんて言えるはずもなく、滅多にない二人の時間を贅沢に使ってしまった様な気分になる。

「では、なにか考えておいてくださいね?」
「ん?」
「ですから、何か欲しいものを教えていただきたいと…やはり任務後でお疲れなのではないですか?」
「そんなことはない!元気だ!欲しいもの、を考えるのだな?」
ゆきさんは私に差し上げられるものでお願いしますね、と付け足した。そうか祝いの品をと、言ってくれていたのだったな。君が選んでくれたものであればなんでも嬉しいのだがな、と思いながらゆきさんと目を合わせると目元を緩ませて俺が一番好きなあの春のような眼差しを向けてくれた。

陽だまりの様な暖かいこの眼差しで自分だけを見ていてくれるのならば、他には何も要らないだなんて女々しいことを言えば彼女はどんな顔をするのだろう。


それにしても、一つ屋根の下で一晩ゆきさんとの時間がもらえるなんて思ってもない幸運であった。
鈴音がてきぱきと荷物を運び入れ夕飯の支度をします、と申し出てくれたのでゆきさんを炎柱邸に届けると一旦生家に顔を出し、千寿郎に訳を話しながら二人で台風対策に雨戸を閉めたり庭を片付けたりと備えをする。少し寂しそうな千寿郎に明日ゆきさんと会えるか確認しておこうと言えばころりと機嫌が良くなり手を振って見送ってくれた。

だいぶ風も雷鳴も大きくなり、そろそろ振り出しそうな空模様に少し慌てて屋敷に戻るとゆきさんと鈴音が台所に並んでいた。
「お嬢様、あっ、指が…あぁ、あぶな、っもう見ていられません!」
「…お料理って難しいのね」
「お嬢様は煉獄様のお戻りをお待ちになっていてください」
「だってやることないんだもの…」
「そんな可愛い顔をされても駄目です。その指に傷など作っては、私が喜壱様から叱責されてしまいます」
「鈴音を叱ったりしたら私がお兄様を叱るわ。でもそうね、ここにいても邪魔にしかならないわね」

俺に向けられる口調よりも幾分気安いそれが珍しく思わず立ち聞きしてしまった。毎日一緒に過ごしている付き人なのだからその親密さはそれなりの物だと思ってはいたが、二人の時はこんなに親しげだったのかと驚く。それとともに自身に対するゆきさんの態度はやはりまだまだ壁があるのだと実感する。彼女が少しづつその心を開いてくれていることは分かっている、分かっていてももっと奥深くまで見せて欲しいと思うことは強欲であろうか。

気を取り直して今帰った様に「ただいま」と二人の背中に声をかける。笑顔で迎えてくれた二人を見ていると、こんな生活があるのかもしれないと一つの未来を夢見てしまう。

台所ではあまり役に立たないらしいゆきさんとまとめて鈴音に居間で待つ様にと追い出されてしまい、机を挟んで畳に腰を下ろす。
いつもとは違う状況で相対すると、今日この家に彼女が朝までいると言う事実に少し緊張してきた。白いシャツに黒いスカートを纏い正座した姿は清楚な女学生のようで、なぜそんな人がここにいるのかと今更ながら違和感がある。いつぞやの病室でも感じたがやはり彼女のもつ清廉な雰囲気は場所など関係なく、その佇まいから気品が溢れる様である。
その時大きな雷鳴が響き渡った。微かな振動が伝わってくるほどでありどこかで落雷があったのだろう。
「驚いたな…存外近くに落ちたのやもしれんな」
見えないのだが天井を見回してゆきさんに視線を戻すとぎゅっと目と口を引結んでいた。スカートの上で握られた両手が指先がしらむほど握られていて全身で外界を遮断する様であった。
「ゆきさん、大丈夫か?」
言葉の途中でまたも地鳴りの様な落雷が響きびくりとゆきさんの体が跳ねる。そろりと長い睫毛を震わせて目を開いた彼女は俺を見て眉を下げる。
「…大きな音は苦手でして」
「なに、女性はそうであろう…だが雨音も強くなってきたし今晩は少し辛いやもしれんな」
「…嵐が来るといつも不安になります。何か神様を怒らせてしまったのか、とかお家が壊れて水に流されてどこか遠く知らないところに連れて行かれてしまうんじゃないかとか…子どもっぽいですね」
困った様な照れた顔をして体を縮ませるゆきさんの様子に、そんなことはない、と言いつつも一般的なの女子供と同じ様なものが怖いことを意外に感じる。
爵位のあるお偉いさん方の相手でも堂々とした会話が出来るゆきさんの振る舞いにはいつでも気品と余裕があった。自身をきちんと律している大人びた印象を持っていたが実は俺よりも年下の少女であったなと思い返す。
嵐のたびにその体を小さく小さく丸めて雨風の吹き荒れる夜をやり過ごしてきたのだろうか。
「ならば眠くなるまで側にいよう、そうすれば嵐の夜も怖くないだろう」
名案だなと笑いかけるとゆきさんは頬を染めてしばらく逡巡したあとに小さく頷いてくれた。


鈴音の作ってくれた夕食を三人で頂いて、本格的に雨音も風の音も強くなり今日は早めに就寝しようとそれぞれ寝支度に取り掛かる。障子を隔てた客間を二つゆきさんと鈴音で使ってもらい自身の寝室で寝支度をしていると煉獄様、と鈴音に呼ばれる。
「どうした」
蝶屋敷の患者と似たような寝衣に身を包んだ鈴音は髪をおろしていたが、涼やかな目元は凛とした光がある。いついかなる時も彼女はゆきさんの護衛なのだろう。
「…煉獄様、お嬢様に一緒に寝ようなどと仰いましたか?」
「む、少し違うぞ、眠くなるまでだ!」
「…柱である煉獄様に無礼を承知で申し上げます。添い寝は特別に許して差し上げますが、万が一にもお手を出したりしないで下さい」
微笑を浮かべる鈴音は顔は笑っているが怒っているのだろうか、そんな気がする。しかし彼女の主人を思っての心配もよく分かる。
「勿論だ!約束しよう!」
俺の言葉に頷いた鈴音は最後に、破ったらもう二度と逢引のお手伝いはしませんからと恐ろしいことを言ってから先に寝ます、と背を向けて廊下を去っていくのだった。


自分で言い出しておきながらこれは確かに、鈴音の心配がよく分かるほどに忍耐のいる状況であった。俺はゆきさんの可愛らしさを甘く見ていたようだ。

良家の御息女が一体どんな寝衣を着ているかなど知るはずもなく、想像したこともなかった。居間に戻ったときにゆきさんが身に纏っていた洋風の水色の寝衣は浴衣よりももっと薄く柔らかそうな生地だった。ゆったりとした形の長い裾を揺らして枕を抱えた彼女の可愛らしさをなんと表現すればいいのだろうか。結っていた髪をおろして少し恥ずかしげに目を逸らす彼女は、普段目にしている凛としたゆきさんとは違う人間に見える。
嵐が怖いという可愛らしい弱点を聞いてしまったことも相まって、いつもより幼く儚げである。

「煉獄様、あの、本当にすみません」
「いや、いいんだ話したいこともあるしな…」

客間には既に布団が敷かれており俺は本気で彼女が寝るまで何もしないでいられるのか不安になる。しかしここで約束を破ればもう二度と逢引に誘えない事態に陥るのだ。疾しい気持ちを押し戻しゆきさんに布団に入るように言ってその隣で畳の上に肘をついて寝転ぶ。蝋燭の灯だけの部屋は光のあたる場所だけどこか別世界のようだ。
ガタガタと家屋が揺れる音やごうごうと風の音が鳴っていなければ緊張でどうにかなりそうである。
掛け布団に顎先まで包まれたゆきさんは時折大きな音を立てる風に恐々としながらもこちらを見て安心したように小さく笑みを浮かべるのだから本当に心臓に悪い。

「お話したいことってなんですか」
「あぁ、うん、ゆきさん明日は時間はあるだろうか。できればうちに寄ってやって欲しいのだが」
「まぁ、千寿郎さんにお会い出来るのですね」
嬉しそうな声をあげるゆきさんは弟を可愛く思ってくれているようで、なんだかんだと菓子を用意していてくれたらしい。それから会わなかった間の出来事をお互いにぽつりぽつりと話す。ザアアアと銃弾のような大粒の雨が屋根を叩く音もゆきさんの声を聞いているとそちらに集中してしまうので気にならなくなってくるが、彼女はそうではないようで音が大きくなるとぴたりと話すのを止めて不安そうな顔でこちらを見るのだった。

「あの、手を…握っていてくれませんか」

布団の横から小さな手が伸びてくる。どうしてこの人はこんなに可愛いのか、叫びそうになる心を必死で落ち着けて細い手に指を絡めて握り返す。

「これでいいか?」

布団の中にその手を戻そうとして、その手首に痣があることに目を止める。
思わず上半身を起こしてまじまじと蝋燭の光の元で繋いだままの手を確認すると俺よりも大きな手の跡のようだった。寝転んだままのゆきさんが罰の悪い顔をするので、隠していたのかと緩々と体を戻し同じように肘をつき彼女の顔を覗き込む。
「…宇髄か」
「すぐ消えますし、痛みもあまりありませんので大丈夫です」
そうは言っても白い肌に残るほどの跡だ、痛かっただろうと思うとまた沸沸と怒りが戻ってくる。ゆきさんの言葉が終わらないうちにその赤い痣に唇を寄せる。宇髄の付けたものだと思うと消したくてたまらずべろりと舐めてから鬱血痕を重ねる。唇を離して上書きできたことに満足したところで、真っ赤になったゆきさんの顔を見てやってしまったと正気に戻る。

「…すまない、俺まで跡を付けてはどうしようもないな」

嫌がられてしまっただろうかと絡めた指を外そうとすると控えめながら確かに彼女の指が離れるのを拒むように握り締めてくれる。
「煉獄様に、なら、嫌ではないですから…」
潤んだ瞳に蝋燭の炎が反射してゆらゆらと揺れる。見上げるような視線に誘われてそのまま口づけしてしまいそうになるのを何とか理性で押し留める。これでは約束を破ってしまう。
そんな俺の心情など全く知らないゆきさんはさらに言葉を繋げる。

「宇髄様に腕を引かれたとき、とても強い力で驚いたのですが…それよりも煉獄様が常日頃どれだけ私に対して慎重に、丁寧に触れて下さっていたのかよく分かりました。その事がとても嬉しかったのです。」

それは華奢な君を壊さないか心配なのだ、触れるだけでも壊してしまいそうで、いつも恐る恐る触れているのだ。俺には過ぎた人だと分かっていても好いてしまったのだから、出来るだけ大切にしたい、ただそれだけだ。それをそんな嬉しいだなんて言われてしまうと勘違いしてしまう。

今度こそ握った手を布団に戻して俺を喜ばすようなことばかり言うゆきさんにもう一歩踏み込んでみる。

「…今日、俺に欲しいものを聞いてくれたが実は君以外に欲しいものはない。手を握ることも嬉しいが、もっと違うところにも触れたいと思っている」

絡めていた指を解いて、掛け布団の中のゆきさんの寝衣ごしに肩先から鎖骨を辿って首筋から細い顎を撫でる。彼女の喉がこくりと動く様が淫美な陰影を作り潤んだ瞳には戸惑いが見て取れたが、気付かないふりをして親指の腹で小さな唇を柔く押し撫でる。ふにふにとした感触にここに口付けたらどれだけ気持ちがいいのだろうかと邪な想像が巡る。
静止の声が掛からないのをいいことに上唇も下唇も堪能して指先で彼女の唇を覚えるように触る。清廉無垢なゆきさんに疾しいことをしているという背徳感と、本能的な征服感で胸が満たされていく。

「れんごくさま」
指で触れただけでも刺激が強かったのか泣きそうなゆきさんの声を合図に、指先を離して彼女の小さな手に戻し再度指を絡める。
「すまない、怖がらせただろうか…君の許可なしには何もしない。だから教えて欲しい、今すぐでなくても君の言葉で聞かせて欲しいと思う…急がないからもし君が俺と同じように愛しく思ってくれているのなら、それ以上に幸せなことはない」
嫌ではない、という言葉は彼女の中で精一杯なのだろう、それでももっと直接的に求めてくれたら、ゆきさんから俺を欲しいと言葉にしてくれたならば、もう遠慮はしない。

雷雨の音はまだ響いていたけれど、真っ赤になったゆきさんにはもう聞こえていないだろう。そろそろ寝なさい、と前髪を撫でるとゆきさんは眠れそうにないと零す。
「もっと俺の気持ちを聞きたいのならいくらでも話すが…」
「それは、恥ずかしすぎて死んでしまいそうです」
「ははは、ではもう寝るんだ…今日は1日疲れただろう。目を瞑って手足の先から力を抜いていくと、すぐに眠れる」

言葉通りに大人しく目を瞑ったゆきさんからしばらくすると穏やかな寝息が聞こえてきた。やはり一日の間に色々あって疲れていたのだろう、緩くなった指の拘束から名残惜しく思いながら手を外して布団を掛け直し客間を後にする。

「おやすみ」

返事のない彼女を最後にもう一度見つめてから障子を閉めて自室に戻る。降り止まぬ雨音にこの屋敷だけが外界から切り離されたような感覚がする。今日の出来事も交わした言葉も全部閉じ込めていくようなこの雨がこのままゆきさんをここに閉じ込めてくれたらいいのにと、ありもしないことを願う。

しかし止まない雨はないのだ。
閉じ込めることはできないから、彼女の方から側に来てくれたのならば一生をかけて大切にするのに。
そのための苦労など喜んで背負う覚悟を、俺はもうとっくに決めている。

あとは君だけだ。