花と獅子

仮初の春


『会いに来てくれますか』

初めて彼女の本当の声を聞いたような気がした。甘い声が鼓膜を揺らしたことが一体どれほど杏寿郎の胸を満たしたかきっとゆきは分かっていない。朝日の中に佇む彼女の白い手が自分の固い手の中にあったことが忘れられず何度も己の掌をながめては確かめるように握りしめる。そんな動作を朝から繰り返していると本日の同行任務の相方である宇髄が不審そうにこちらを見ていた。

「煉獄、お前手怪我したのか?」
「いや、花を手にした感覚が消えなくてな」

思わず笑顔で答えてしまうと、はぁ?と顰められた白皙が、瞬時に人の悪い顔に変わる。

「ははーん
あれか、あの高嶺の花のことだな?
俺に顔すら見せねぇ執着ぶりの」
「む…あの時はただ彼女の身分を考慮して行動したまでのことと言ったはずだぞ」
「ふーん?そう?そうは見えなかったぜ。まぁ俺も大事なもんは絶対人には触らせないからなぁ、気持ちは分かるぜ煉獄」
「だから宇髄、違うと言ったはずだ」
「おい、いいのか?俺はついに音柱だぞ?派手に敬え!」

派手に敬うとはなんだ、と文句の一つも言ってやりたかったが宇髄が先に柱に就任したことは事実であり厳格な階級制度を敷く鬼殺隊では序列には厳しい。

「申し訳ございません、音柱様」
「坊ちゃんは素直だな!冗談だよ、どうせ次の会議でお前も炎柱を襲名するんだろ」
「…まだ決まったわけではない。お館様に内々にお話を伺ったわけでもないしな」
「それでも、お前の腕で柱にならねぇのはありえない。次でなくてもその次の柱合会議だ」
その時は派手に祝ってやるから覚悟しろ、と宇髄に背中をバシンと叩かれる。2mの長身から繰り出されるしばきは結構痛いのだが、苦笑いとともに咳き込みそうになった息を整える。

柱になるのは己の目標の一つであり、炎の呼吸を継ぐ者としては責務であった。不在の柱の座を一刻も早く埋めて、体制を整えねばならない。諸悪の根源であり、我ら鬼殺隊の悲願である無惨の頸を切る為に。


夜。
日の光が地の果てに消えて、無音の闇が辺り一帯を包み込むように広がるとどこからか薄らと血の匂いが漂ってきた。まるでこちらだと誘うような香りに眉を顰める。
長屋の連なった民家の奥に鬼の気配を察知し、同じように血の匂いで冷えた顔をしている宇髄と南北に分かれて臨戦態勢に入る。

派遣した隊士が二度も戻らなかったことで、今回柱である宇髄との同行任務に就くこととなったのだが、確かに今回の鬼はただの魑魅魍魎ではないようだ。上弦か下弦か、どちらにせよ数字付きならばこちらも柱への就任が早まるというものだ。
敵の間合いに入ったと肌で感じた瞬間に音もなく飛んできた攻撃を受け流し、宇髄の場所を確認するとどうやら向こうも戦闘に突入したようだ。 
鬼は群れないと聞いていたんだが、よもや事実は小説よりも奇なりということか。
暗闇から飛び出すこちらの頭部を狙った二撃目を刀の嶺ではじき返して姿を現した異形の鬼と相対する。

「覚悟せよ。その頸落とすまでこの剣は止まらぬぞ!」

日輪刃を構えて今度はこちらから飛び込む。鬼の姿を目視で捉えたと思った瞬間に、きらりと何かが光りその姿はいつでもまぶたに思い描ける程に可愛がっている弟へと容姿を変える。幼い顔で今にも兄上、と呼びかけてきそうなその顔に剣を握る手が僅かに緩んだ。空かさず飛んでくる攻撃を後ろに飛び去り躱す。
千寿郎の姿を模した鬼はその手で丸い鏡を抱えてこちらに相対していた。

「よもやよもや…斬れないものを見せる仕掛けか。だが鬼よ、その思い違いを正してやろう」

右脚で深く踏みこんで、平時と変わらぬ笑みを浮かべた千寿郎の首目掛けて斬りかかる。

壱ノ型 不知火

「ヒイッ!」

柔らかな表情とは相容れぬ醜い叫びを上げながら鬼は首を切り落とす前に身を捩って逃げる。やはり顔を見ながら斬るとなるとこちらもいつも通りとはいかぬようだ。

「下手に斬ってすまないな。すぐ楽にしてやろう…」

首を押さえながら逃げようと足掻く千寿郎の姿は、表情だけが和やかで行動との乖離が実に歪であった。刃についた血を払って構え直すと目に見えて鬼が慌てた様子で後ずさった。
逃さないと再度斬りかかるとにたりとその顔が笑みを浮かべる。千寿郎の姿で手に持った鏡がもう一度己の姿を映す。瞬く間に今にも日輪刀を受けんとしていた千寿郎の姿が、ゆきに変わる。悠然と笑みを浮かべるゆきはどう見ても本人に見えてしまう。先程までは鏡を握っていた手にはどういうことか己と同じ赤い日輪刀が握られている。

「っは!趣味が悪いな!ここで断ち斬る」

五の型 炎虎

悪趣味な舞台には早く幕を引こう。こんな場面は今生も来世も想像だにしたくない。
どちらも愛しい人に変わりはないが、鬼狩りの家に生まれた千寿郎を斬るのと、非力なゆきを斬るのでは杏寿郎の無意識下で刀を鈍らせた。

「煉獄生きてるか!悪いが助太刀には行けそうにない!そっちはお前1人でどうにかしろ」

爆音と共に近くで宇髄の声が響く。剣戟の音でこちらも生きていることはわかっているだろう。
生憎こちらも宇髄へ助太刀にいく余裕はない。
杏寿郎と同じ姿勢で切り掛かってくるゆきと剣を交え、その威力に驚く。

「ようやく理解したか鬼狩り。これはお前の写身だ。お前が斬ればこちらも斬るぞ」

ゆきさんの口で汚い声を出すなと言いたいところだが、それどころではない。この術は思ったより厄介だ。
右から打ち込めば向こうも鏡合わせに向かって左から打ち込んでくる。何度剣戟を交えても埒があかない。体術で脚を払ってやろうと蹴り上げると自分の足にも同じ衝撃が飛んでくる。
技を出そうが同じものを返されては堂々巡りである。
そしてその目に映る容姿が本人すら分からぬほど僅かに刃を躊躇わせていた。視界に入れてしまえば斬りたくないと心が叫ぶ。そんな声に耳を貸さずに体はただただ頸を斬ろうと染み付いた無駄のない動きで剣を振るう。俺はもうとっくに覚悟を決めたのだ、この世から鬼を消し去ると。この剣を止めるものはないのだと。

ごうごうと燃え盛る炎のごとき音を立てて呼吸を整える。
じっと目の前の鬼を見つめて戦法を考える。
無闇に打ち込めば同じものが返ってくる。あの鏡のせいであろう。

鏡、写す、映す、反射。

不意にじわりと視界が赤く染まる。先ほどの攻撃で頭部を切ったようだ。流れ出る鮮血を拭うと眼前の敵も同じ仕草で目元を拭った。
その仕草で一つ閃いた。試してみる価値はあるだろう。
あれが俺の反射であるならば、向かい合って見える部分しか反射されないはずだ。ならば、太刀筋を隠してしまえば奴には真似るものがないのではないか。

もう一度姿勢を低くして隊服の上着を脱ぐ。
ぐっと深く踏み込んでばさりと鬼との間に隊服を広げて手元を隠す。ゆきの姿で同じように何も持たない腕を掲げた鬼は明らかに動揺を見せた。しかしもう遅い。

「不知火」

鬼とぶつかる直前まで翳していた隊服で偽りの日輪刀を防ぎ、炎刀を振り抜く。
パリンと鏡が割れる音ともに鬼の体が焼けて崩れていく。
やはり眼に映る姿しか写せないという読みは当たっていたようだ。カチりと刃を鞘に納めて振り向くと割れた鏡を覗き込むように倒れ伏した鬼が炎に焼かれて消えていく。

きっとこの炎が煉獄の地獄へと導くだろう。



「よもや隊服がズタボロだ!」
「煉獄、派手に額割れてんぞ」
「大丈夫だ止血したぞ!宇髄、君も泥、、いや血、、ん、砂か?とにかく汚いぞ!」
「うるせーな、派手に戦った証だ!」

隠に長屋を改めるように依頼して、二人で帰路につく。
朝日が昇ってお互いの姿がよく見えるようになるとそのぼろぼろ具合がよくわかった。
隊服で鬼の剣を凌げたはいいが、もう一度身につけるとそこら中裂けていた。

「…妙な血鬼術だったな。お前もあれか、高嶺の花を見せられたのか?」
「そうだな、君は奥方か?」

見上げると寂しい笑みを浮かべた宇髄が土埃のついた肩を払う。
殺せてしまうことを悲しいと思うことは、剣士にとって不要な感情であろうか。

「鏡の細工をどう攻略したのだ?」
「あー視界を遮ってやろうと地面を爆発させたんだが、ちーっと火薬が多かったようだ。まぁしかし派手な轟音だっただろう!崇めてくれていいぜ!」
「なるほど、煙か。思いつかなかった!」
「俺は天才だからな!」

「うし、帰るか煉獄」
「うむ!」

目を合わせて思いっきり地を蹴る。
音を立てずに走る宇髄の姿を追いかけながら、早く、早くと珍しく心が逸った
とにかく早く帰りたい。そう、とにかく早く君に会いたかった。

(偽物の、紛い物の君だとわかっていても、その頸を切る感触がまだ手のひらに残ってる)

結局報告やら着替えや湯浴みを終えて、千寿郎に薬や包帯を巻いてもらうと昼下がりもとうに過ぎてしまった。
数日の滞在だと言っていたがいつ帰るのか聞いておかけばよかったと思いながら、青紅葉の庭を進むと欄干から庭を見ていた鈴音を見つけた。
「鈴音!」
「煉獄様…!?」
「すまない、ゆきさんを呼んでくれるか」
こくこくと頷いた鈴音が一つに結わった髪を翻して部屋に引っ込んだのを見送って、まだこの宿にいることにほっと息をつく。

朝日の中で佇むゆきの姿を今も鮮明に思い描ける。
つやつや光る髪、伏し目がちの長い睫毛、見上げる大きな目。
困った、一旦伝えてしまえば愛しいと思う気持ちが無限に湧いてくる。
自重せねば、とまだ青い空と緑の紅葉の織りなす景色を見上げて落ち着けと深く息を吸い込む。

「煉獄様」

甘い声に聞こえるのは、俺の耳がおかしいのだろうか。
ゆきさんの姿を視界に入れると、無意識に頬が緩む。

「ただいま戻りました」

ふわふわとした白い生地の洋装はゆきによく似合っていた。異国の絵本から出てきたような姿に着物もいいがこちらもよく似合うとじっと見つめる。歩くたびに裾がふわりと風を孕み彼女自身が白い花のようだ。

「包帯が…お怪我を?」
「擦り傷だ。千寿郎が大袈裟に巻いただけだ」

遠慮がちに伸ばされた手がそっと額の傷を撫でる。自分自身が怪我を負ったかのように顔を顰めた彼女は耐えるように目を瞑ってから、こちらへ、と庭の奥へと足を進める。
小川を望むように作られた東屋風の離れは茶室のようだが、今日は人気もなく、日向にあってもどこかしんとした静謐な空気を抱えていた。

「本当に、擦り傷ですか?他にお怪我はないのですね?」
縁側に腰を下ろしてすぐにゆきさんはこちらを検分するように見回す。
「本当に大したことはない。しかし傷を作るようではまだまだということだ」
格好が付かないなと苦笑いを浮かべると、ようやく安心したのかゆきさんもほっと肩の力が抜けたようだ。
それから不在の間に産屋敷邸に行った際の話やら宿の話を聞いて、こちらからは任務の血生臭い話を聞かせるのは忍びなく、千寿郎から次はいつ会えるのかと催促された話をした。言葉が途切れた時に、ゆきさんが和服が似合っていると褒めてくれた。そう言えばいつも用意された礼服やら軍服やらで普段着で会うのは初めてだった。

「変な意味ではないのだが、少し、首を見せてくれないか」

話しながらどう切り出そうか迷ったが、いかんせん場所が悪くどう取り繕ってもなかなか頓狂な申し出であったのでそのまま言葉にすることにした。

「…くび、ですか。これでよろしいですか…?」

長い髪を片側に寄せて後ろ手に抑える仕草は、想像以上に目に毒であった。
こちらから見せろと言っておきながら直視するのが躊躇われる白いうなじが眩しい。決してこちらを見ないように俯きながらも素直に首を晒してくれたゆきさんに心の中で謝りながら、そっとその首に右手を添わす。

繋がっている。斬れてない。傷もない。

右手に残っていた後味の悪い残滓がすうと消えていった。

「…よし!助かった、ありがとうゆきさん」

恥ずかしそうに髪を戻して、いえと小さく微笑む彼女にもっと触れていたかった。しかしそろそろ部屋に戻った方がいいだろう。急に呼び出したのだ、忙しい身を引き留めておくわけにもいかない。

「ゆきさん、次の休みはいつだ?2人で出掛けよう」
「2人ですか…あのそれは」

「逢引の誘いだが?」

目に見えてぽっと頬を染めるゆきさんは珍しく口籠もる。

「嫌なら断ってくれていい、無理強いはしない」
「…嫌ではないとご承知の上でのお誘いでしょう?」

困ったようにこちらを見上げる彼女の輝く黒い瞳にはやはり春が溶けているようだ。瞳に映る自身の顔を認めて杏寿郎は満足感を覚える。春の陽だまりがここにある。自分のためだけに、ここにあるのだ。