紙の月

密約は密室で

 「お、おかえりっ」

 噛みながら少し裏返った声で迎えてくれた透は、真っ直ぐに任務から戻った三人に視線を向けていた。いつも俯きがちで、目が合うことを一番嫌がる彼女の大きな変化に驚いて戸惑ってしまった。

「透、ただいま。どーしたの、顔ちゃんと見せてくれんのはじめてじゃん」
「硝子、あのね…」
「ただいま、透。本当だ、やっぱりすごく可愛いな」
「夏油くん…あの、恥ずかしい」

 玄関で靴を脱ごうとしたまま固まっていると、さっさと硝子と傑は透のそばに行ってしまった。右側から硝子に反対側から傑に頭を撫でられる透が白い頬を薄く染てもごもごと口籠もっていた。それでもいつもならばすぐに地面に向けられる視線が、硝子や傑の顔に向けられていると言うことは、彼女は呪物であるあの目を抑えることが出来たのだろう。任務で数日開けただけなのに、こんなにも透が変わるなんて思いもしなかった。

「五条、なに突っ立ってんだ?」
「あ? なんも」

 硝子の声でようやく体が動いた。何でもないような顔で透の前に行くと、黒い瞳がこちらをしっかりと見上げている。無理やり顔を固定しなくても、彼女の意思で目を合わせてくれている。

「…やればできるじゃん」
「うん。できた」

 透は、小さくはにかんで笑う。その顔を見ていると胸の奥がきゅうきゅうと痛くなったような気がして、慌ててガシガシとその小さな頭を撫でてその傍を通り過ぎる。どくどくと心音が速っていくのが不思議で、どこかおかしいのかもしれないと左手で胸を押さえながら寮まで荷物を運ぶ。後ろで透と硝子が話す声を聞きながら、自分ももっと透と話す予定だったのにと悔しいような、つまらないような気がした。


 自室に入って一人になると少し落ち着くことが出来た。ぎゅうぎゅうに詰め込んだ荷物を引っ張り出し、片付けを始める。対して広くもない部屋なので、三日分の荷物はすぐに元いた場所に戻っていく。洗濯物もさっさと洗ってしまおうと、大きめのトートバッグに寄り分けて共有のランドリーに向かう。
 傑に会うかと思っていたが奴はまだのようだ。大方任務中も何度もバイブ音を立てていた携帯電話で女の相手でもしているのだろう。まめな奴だ。
 ゴウンゴウンと回り出した洗濯機を待つ間、誰かが置いて行ったであろう週刊誌を読もうと手に取る。備え付けのギシギシと音を立てるベンチに寝そべって暇つぶしにぺらぺらとページを捲る。寝転ぶと人より長い手足が収まりきらず、結局足は地面についてしまった。

 脱力しきった姿勢でぼんやりとしていると、ふとランドリールームの前を見知った顔が通り過ぎて行った。寝そべったままのこちらには気づかなかったのだろう彼女は、男子寮へと続く廊下を真っ直ぐに進んでいく。白いコックコートに黒いパンツ姿はまぎれもなく透だ。彼女がここへ来るのは珍しい。硝子が一緒でない時に来たのは初めてではないだろうか。
 用事があるのは自分だろうと思ったのは、透と傑は特段仲が良いとは思わなかったからだ。透が傑にだけ話しかけに行くことなどないはずだと。だから体を起こして透の後を追いかけた。個室が並ぶ廊下の前で、ぴんと背筋を伸ばしてコンコンとドアをノックする透に追いついた時、それが自分の部屋の奥にある傑の部屋だと気づきぱっと体を隠してしまった。

「透? どうしたんだい」
「あの、ちょっと相談があって…」
「そう…じゃあ入んなよ」

 どうして隠れなくてはいけないのかよく分からないが、見てはいけなものを見てしまった様な気がする。こっそりと廊下の角から半分だけ顔を出して透の様子を覗いていると、彼女はそのまま傑の部屋に入っていった。

「え?」

 思わず口から漏れた声に返してくれる声はない。
用事とはなんなのだ、二人で何をやっているんだ、と傑の部屋が気になって仕方がない。木造の寮の壁は薄いので、扉からでも話し声くらいは聞こえるはずだ。足音を忍ばせて傑の部屋の前にしゃがみ込むとそっと耳をそばだてる。

『本当にいいのかい?』
『うん、お願いしてもいい?』
『わかった。なるべく痛くない様にするよ』

 痛いこと、とはなんだろうか。そもそもどうして透は傑にお願いをしているのだろう。どんなお願いなのだと、考えれば考えるほど分からなくなる。

『準備するからそこ座ってて』
『準備がいるの?』
『そうだよ、いきなりやったら痛いからね。透痛いのは嫌だろう?』
『…や、優しくしてね』

 やる? こいつらヤるって言ったのか? 
あれだけ俺が傑は女誑しだからやめておけと言ったのに、透は傑が好きなのだろうか。ということは先ほどのお願いは、私の処女をもらってください、なのか。
 こんな展開になるなんて思っていなかったので、だらだらと冷や汗が出てきた。止めるべきだろうか、とドアノブを見つめる。そうだ、こんな壁の薄い、しかも煩悩を抱えた男子ばかりの寮であんあん喘がれたらやばい。まず俺がだめだ、耐えられる気がしない。

「なにやってんの」
「うわっ!!」

 後ろからかけられた声にびっくりして小さく叫んでしまった。大きめのTシャツにゆったりとしたハーフパンツの部屋着に着替えた硝子が、タバコを片手に首を傾げていた。

「やばいんだって、透が傑の部屋に入ってった!」
「まじか。あいつ手早いからな…残念だったな五条」

 驚いた様に目を瞠った硝子の腕を引いて二人で傑の部屋の前にしゃがみ込む。

「なぁ開けるべき!? 透が傑の魔の手にかかってからじゃおせーよな… 」
「え、3Pしたいの? さすが御三家の坊ちゃんは違うな。惚れた女を他の男が抱いてても混ざるとかウケる」
「んなわけねーわ! 硝子のバカ!」

 にやりと人の悪い笑みを浮かべてからかってくる硝子と口論していると、がちゃりとドアが開いた。こちらを覗き込む様に腰を曲げた傑の顔に浮かんだ綺麗な微笑みが逆に怖い。

「うるさいんだけど。二人ともなにやってるのかな」
「「ごめんなさい」」


「まじでやんのかよ・・・」
「悟、静かにして。いくよ、透」
「は、はい!お願いします!」

 傑が右手に握った器具を動かすとバチンと派手な音がした。ぎゅっと強く閉じられた瞼をおそるおそる開けた透の目元には涙が滲んでいた。同じ様に反対側の耳元にも器具をあてがい、バチンと音を立てた傑は「終わったよ」と透に笑いかけた。

「まだ感覚ないんじゃないかい?」
「うん。まだ冷たいのしか分からない」
「おー、ピアス開いたね。ちゃんと毎日消毒しろよ」

 透のぽってりとした柔らかそうな耳たぶにはシルバーのファーストピアスが鈍く光っている。全く人騒がせな話である。ピアスを開けて欲しいならもうちょっと分かりやすくして欲しかった。あらぬ誤解を招いたことなど本人は知らないので、不機嫌な態度で透を見ていると困った様に眉を下げる。

「ピアスなんて俺でも開けてやれるし」
「でも五条くんピアス開けてないし…」
「うるせーな。傑の部屋に一人で入るとか二度とすんなよ」

 透の頬に掛かる髪を指先で掬って引っ張ると、透の眉がさらに下がる。

「透、そこは私も五条に賛成だわ。まじでこいつヤリチ「硝子? 本人を目の前にして謂れのない悪口はやめてくれるかな」
「なにが謂れのないだよ。ありまくりだろーがスケコマシめ」
「悟、言いたいことがあるなら聞くけど?」
「べっつにー? 誰もお前に興味ないしー」

 べーっと舌を出して傑を煽ると、綺麗な顔に青筋が走る。
 硝子はそんな二人を見てやれやれとため息をつき、巻き込まれる前に透を部屋から連れ出そうと立ち上がらせた。

「それにしてもなんでピアス?」
「呪術師には魔眼を使わないって制約をつけたら、外に出てもいいってことになって。その制約の要として身に付けられるものでなにがいいかなって考えてたら、ピアスかなって。なくさないし、簡単には外れないし」
「まじ? じゃあ外出できる様になったんだ」

 二人の会話に傑との睨み合いを中断して顔を上げる。床に座ったままの姿勢で透を見上げ、思わずその腰を引いていた。よろける様にこちらを向いた透は、長い睫毛を瞬いている。

「外出れんの?」
「う、うん」
「じゃあ出かけよう」
「え…」
「…嫌なのかよ」
「いやじゃ、ないけど…」
「約束な」

 頷いた透から手を離すと、逃げる様にドアの前の硝子のそばに戻っていった。傑の部屋から出ていった二人の足音が遠ざかると、向かいに座った傑に「よかったね」と言われた。緩みそうになっていた口元を慌てて引き締めると、傑が吹き出す様に笑い出した。