紙の月

掴めない手

  硝子と透が女同士の結束を強めていったことで、そこに悟と自分を加えた四人で空き時間を共に過ごすことが増えた。透は食堂を手伝っていたから毎度というわけではなかったが、時間が空けば寮の談話室を覗きに来るようになった。習ったばかりの呪力操作や封印の術式の書かれた簡易的な呪具の性能を試したりもしたが、誰かの部屋でゲームをしたり、硝子の持ち込んだ雑誌をああだこうだ言いながらみんなで読んだりと、本当に普通の高校生のように遊ぶことが多かった。

御三家のお坊ちゃん、反転術式の唯一の使い手、呪物扱いの美少女、それが今の交友関係の全てであり、きっと昔の自分はこんな学生生活を送ることになるとは思ってもみなかっただろう。


「明日の昼飯外で食えんのかな?」
「どこかSAにでも寄ってくれるんじゃないかな」

 悟は明日の任務兼実戦授業のプリントをひらひらと指先で弄びながら、ソファの上に投げ出した足を組み替える。自分もそれなりに背が高いと思っていたが、それよりもさらに上背があるので三人掛けのソファでさえも窮屈そうに見える。

「ちゃっちゃと祓ってどっか遊び行こうぜ」

楽勝と言いたげに目を通すとぽいと紙を放り投げた悟は青い目を悪戯を思いついた少年の様に細める。傑自身も悟と二人で任務に行って呪霊を祓えないというイメージは全く湧かない。きっと少し楽しいとさえ思うだろう。

「いいけど、私あまりお金ないよ」
「いいじゃん、祓ったら学生でも金入るし」

事実、呪術師は結構な金になる職業だ。階級があがればそれだけ危険度が増し、その分報酬が上がる。呪霊というものを世間から隠し、その駆除を引き受けることで、表の世界となんらかの利権取引があるのだろう。
悟はもともと呪術師の大家に生まれ、それこそ小さな頃から金に困ったことはないと思う。そのせいか世間ズレしているところも多いし、こいつ本当に同い年かと疑いたくなるくらい子供っぽい振る舞いをする時がある。特に透の前では、聞いているこちらが止めに入りたいと思うくらいひどい。

「…透にお土産でも買って帰ってあげれば?」
「え?あー…まぁ、あいつ高専から出れねーしな…」

今日もその小学生のような振る舞いで、透に植木の放水用のホースから冷たい水を浴びせるというガキ大将のようなことをしていた。もちろん傑もずぶ濡れになった被害者である。夏日に迫る暑い日だったと言っても、名前を呼ばれて近づいてきた相手に水をかけるのは良くない。透は言葉もなく水を含んで重たくなった長い髪をぎゅうぎゅうと両手で絞ると、何か言いたげに悟の手元を見つめていたが諦めたのか煙草から帰ってきた硝子にどうしたのだと驚かれながら寮に帰っていった。今までもむくれたり、眉をしかめる程度の嫌悪の表情を悟に向けていたが、今回の口元をきゅっと結んだ彼女の暗い瞳は本気で怒っているんじゃないかと思う。そのあたりの機微に疎く、手加減をしないこの男には透がただ一言、「嫌い」と言うのが一番効く気がした。

「それ持っていってちゃんと謝りな」
「なにを? あいつなんか怒ってるわけ?」
「私の知る限り、水に濡れて喜ぶ女子は少ないかな」
「えーでも暑かったし、プールもねーし、傑も俺も濡れてたじゃん」

そういうことではない、と思う。



 傑に言われたからというわけではないが、ちゃんと透への土産に菓子を買った。
ご当地ものの和菓子の紙袋を片手に放課後の校舎で透を探す。せっかく訪ねてやったと言うのに寮の部屋にはおらず、食堂で夕食の準備を手伝っているのかと覗くもいつもの婆さんしかいなかった。彼女が他に行く場所など、夜蛾のところくらいしか思い浮かばない。体術の稽古だろうかと、仕方がなく屋外の練習場へ足を向ける。これでいなかったらもう探すのも面倒になってくるが、右手に引っ掛けた紙袋を見るとここで部屋に戻るのも癪だった。

 夕方の空気はまだ少しだけひんやりとしている。風に乗ってどこからか香る花の匂いに、生家の庭先を思い出した。石畳の長い小道の両脇には、いつも何かしらの花が咲いていた。花の名前などほとんど覚えてもいないが、一つ好きな匂いだと思った花がある。庭師の爺にこれは何かと聞けば、珍しく興味を持ったことが嬉しかったのだろう長い説明と共にその名を教えてくれた。あれは、なんだっただろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、角を曲がった先で透の背中を見つけた。後ろ姿だけで、透と分かるのは黒い服ばかりの呪術師の中、真っ白なコックコートを羽織っているからだ。男女兼用の量産品なのだろう食堂の制服は彼女には随分大きく、余った袖を折り返したところから華奢な手首が頼りなく伸びている。いつも伏せ目がちで、俯く癖のある透ではあるが真っ直ぐに地面を見つめてうなだれた様に立ち尽くす姿に違和感を覚えた。

「呪物がうろうろするな!」

その時、知らない男の声がした。透の奥にもう一人誰かいたことに気づくのと、透に向かって吐かれた侮蔑の色が濃い言葉の意味を理解するのと、同じくらいだっただろう。

「夜蛾はどうしてこんなことを許しているんだ…あいつまでお前のその目玉で利用したのか?封印の札もなしにどうして高専内をうろついているんだ」

中年というよりも初老に差し掛かっているだろう男の顔が嫌悪に歪む。その醜い唇から透に向かって唾が飛ぶ様を見ていると、頭の奥で炎がちりちりと焼ける様に苛立ちが湧き上がってきた。

「透、お前どこほっつき歩いてんの。探したんだけど」

 口角を上げてなるべく落ち着いた声で話かけると、真っ白な顔で透が振り向いた。そのまま透の後ろから肩を抱いて見知らぬ男に向かって首を傾げると、目に見えて男の顔が強張った。片腕で抱き寄せた小さな体を男から隠す様に自分の胸元に引き寄せる。透は呼吸していないのではないかと思うほど顔を白くして小さく震えていた。

「オッサンだれ? こいつになんかした? なんかしてたら俺もおっさんになんかしちゃうかもしれない。俺のこと知ってるって顔だよな。ははっ、そんな風に怯えられると俺が悪いみたいじゃん」

空いた片手で手印を組んで構えれば、男の喉からひゅ、と細く空気を吸い込む音がした。

「なんでも、ない。道を聞いただけだ。俺はもう帰る! お前など知らん!」

真っ赤にした顔で一息に怒鳴り散らした男が足早に去っていく。その背中に向けてやはり一発食らわせてやろうかと標準を合わせようすると、指先に透の手が掛かる。

「それは、だめ。あの人先生より、えらい人みたいだったから」
「はぁ? やられっぱなしでいいわけねーだろ、全治半年の怪我くらいさせても罰あたんねーよ」
「だめ。五条くんが来てくれたから、もう大丈夫だから」

そう言って両手で指を握られると、それ以上どうにもできなくなる。自身の手を縋る様に握る細い指先と、丸い小さな爪があまりに頼りなく見えた。片腕で簡単に引き寄せられる透の細い身体は、力加減を間違えれば壊してしまいそうだ。

「分かったよ、もういい。寮戻ろうぜ」

いつまでも掴んでいるわけにはいかないので透から身体を離してもと来た道を戻る。言葉少なに隣を小走りで付いてくる彼女に、少し歩くペースを落とす。

「…呪物だって自分でも知ってたわけ?」
「うん」
「あそ。呪力コントロールも出来るようになったんだし、呪物扱いもやめさせれば?」

そして呪術師をやればいいのにと思う。そうすれば、もっとーー…
もっと、の先がなんなのか心の中に思い浮かんだ言葉の先がふっと見えなくなる。

「いいの、別に。ここにいれるだけで十分だから。ずっと、ここで過ごせたらもうそれでいいの」
「は?」
「…どこにもいけなくてもいい。拘束の封印だってかけられてもいいの、誰にも迷惑かけずに、ただここで」
「マジで言ってんの?こんなとこに死ぬまでいてもいいって?」

透はキツイ言い方をしたせいか、困った様に眉を下げてこちらを見上げる。黒い瞳が揺れているのを見ながら、どうして自分がこんなに怒っているのかよく分からないまま、湧き上がって来る怒りのまま言葉が口から飛び出していく。

「じゃあお前は俺や硝子が出てっても、ずっとここにいるんだ。こんななんもねーとこで一生過ごしたいって?馬鹿だろ。呪物扱いされて受け入れてんじゃねーよ、自分の術式ものにしてちゃんと顔あげて生きろよ」

透の目を見ていられなくなって、ぱっと視線を逸らすと逃げる様にその場から去る。ふつふつとした怒りがまだ胸の奥で燻っている。もっと言ってやりたかった。こんなところでひっそりと生きて死ぬことを望むなんて愚かだと。
どうして彼女はもっと求めてくれないのだろう。

もっと、一緒にいたいと思ってくれないのだろう。

先ほどの「もっと」に続く言葉がようやく見つかったけれど、気分は晴れることはなく結局渡せなかった紙袋を力任せにゴミ箱に投げ入れた。すっきりするどころかその残骸を見ていると余計に苛立ちが増していくようで、胸の奥が痛いくらいだった。