紙の月

春の嵐

 「透ー!」
「五条くん、声大きい…」

昼休みのチャイムが校舎に響くと、食堂に向かう。もともと在校生の数が多くないので食堂といってもこじんまりとしたスペースではあるが昼も夜も時間内であれば食事が提供されている。透はカウンターの内側でその美しく整った顔を僅かに顰めた。五条は表情のあまり変わらない彼女の変化に無意識に口角が上がっていた。呪術高専の入学前から見つけたお気に入りは、本当に呪術師ではなかったらしく同級生にはならなかったが、こうして食堂の婆さんの手伝いをしているらしく毎日顔を合わすことになった。

「今日のおまかせは?」
「天津飯」
「なぁこの食堂、たまには中華以外ださないわけ?」
「…嫌なら自炊してください」

そう言いながらも調理担当の婆さんに「天津飯ひとつ」と声を掛けた透にお金を渡す。後ろからやってきた同級生の夏油傑はそんなやりとりにうさんくさい笑顔で割って入ってきた。

「透、私も天津飯で」
「はい、夏油くん。300円です」
「ありがとう、今日もがんばってるね」
「…はい」

傑の言葉に困った様な顔をして小さく頷いた透の様子に面白くないと思う。その不快感の理由はよく分からないがとりあえず透から天津飯の皿を受け取るときにむにとその頬を摘んでおく。伏し目がちな目線がぱっと上げられ、ようやく黒い瞳と目が合うと少し気分が良くなる。

「ばーか。傑なんかに騙されてんじゃーねーよ」
「いひゃい・・・」
「悟、女の子いじめるのはやめな。みっともないよ」
「いじめてねーし、つーか関係ないだろ」
「・・・透、ごめんね。あとでもう一度叱っておくよ」

同じ様に天津飯を受け取った傑に背中を押されて席につく。透は左の頬を押さえていたが、もう一度目が合うとべっと小さく赤い舌を出してぷいと厨房を向いてしまった。つねったといってもかなり手加減したし、そもそも透が傑には丁寧に接するからいけないのだと自分でも無茶苦茶な理由をつけて黄色い卵を蓮華で掬う。
せっかく入学したというのに顔を合わせても、あの、とかすいません、としか呼びかけてこない透に五条くんと呼ばせるのさえ手こずったというのに、何故か傑は初対面から夏油くんと呼ばれていることも腹が立つ。ちなみに硝子はいつのまにか家入さんから硝子と呼び捨てである。女子の結託は早い上にいつのまに会話したのだと謎が深まるばかりだ。


「透のこと気に入ってるならもう少し優しくしないと嫌われるぞ」
「あ? 構ってるだけだし。てか俺の方が前からあいつのこと知ってるし」
「そういう問題じゃないだろ・・・」

傑が呪具を貸してくれというので、五条家のものならばどれでも使っていいと校内の蔵に連れていく道すがら文句を言われた。傑はため息を吐いて大人びた顔をして見せるが、そういう顔はポーズであってこいつはただのかっこつけヤローだと知っている。塩顔の三白眼のくせに任務で少しでも放っておけばいつの間にか女といるようなやつだ。だからこそ、透も傑の毒牙に掛かるんじゃないかと心配してやっているというのに、どうしてか周りの人間には通じていないらしい。

「悟が透にフられようがどうでもいいけどさ、あれだけ可愛い子だし高専から出たら優しい顔した男にどんどん手出されるよ」
「アイツはここから出れねーの。前に無理やり外引っ張り出したら呪いだらけになったし」
「…彼女、祓えないの?」
「たぶん。体術はまぁ、悪くねーけど」

担任になった夜蛾が透に個別指導しているところを何度か見たことがある。透は教わったことを忠実に守っていたし、筋は悪くなさそうだった。呪力はあの目があるから豊富で、それに加えて今では彼女は呪力のコントロールを完璧にこなしていると思うが、それでも結界の外には出ることはできないのだろうか。

「少し調べてみてもいいかい?」
「早くしろよ。寮戻ったらマリカーしようぜ」

傑は蔵の中で目録を手に取ると、ぱらぱらとめくっていく。無下限呪術を使う自分は呪具を使うことはまずないので、ずらりと並んだ五条家の呪具の山もただの見栄の塊でしかないように思う。傑は呪霊操術というレアな術式を持っているが、呪霊を取り込めるまで弱らるために時折呪具を使っていた。刀、槍、飛び道具、なんでも使いこなす同級生に器用なものだと少し感心しているが、絶対に本人には言わない。

「…透の名字は?」
「月島」
「呪物だって」
「なにが」
「透だよ。呪物で登録されてるよ…」

眉を寄せた傑が差し出した分厚い紙の束を受け取って、長い指が指す箇所を読む。

『魅了の魔眼 月島 透
保有者 夜蛾正道』

「…あいつこれ知ってんのか」
「さぁ…こういった非人道的なところはやはり受け入れられないな。きっと透の目だけ残しておきたいって声もあったんじゃない?」
「はぁ? そんなことしたらあいつ目抉られんじゃん…」
「管理の問題だよ。この能力、呪術師にも効くなら厄介だと判断したんだろう」

『視界に入れた物・人に対して発動する術式。対象と目を合わせると効果は飛躍的に増す。効果は魅了の他、暗示・幻惑なども確認されているが詳細は不明。前回出現時の回収済みの魔眼は江戸時代末期の遊女のもの(管理No,XXXX-XXX)』

読み終えた後の後味の悪さはなんとも言えず、傑と二人で黙り込んでしまう。常に俯きがちな透の目は長い睫毛が視線を遮る様に綺麗に並んでいる。その瞳が赤く色づく様子を一度だけ見たことがあることを思い出す。縦に伸びた瞳孔の放つ毒々しい呪力を六眼を通して覗き込んだ時、あれは術式の発動中だったのだろうか。透が五条とだけは時折目を合わせてくれることは、好意からだと勝手に思っていたが透にとっては術式にかからない珍しい対象を観察していただけなのかもしれない。


「つーかあんな術式じゃそりゃ呪いも祓えねーわな」
「そうだね。まぁ使い道はなくはないと思うけど、彼女がここから出る気がないなら必要はないか」

寮へと向かう途中、傑は少し考える素振りをする。その横顔に碌なことじゃないだろうと予想がつくので質問するのはやめた。

「あ、五条くん」

前から食材を抱えた透がやって来ると、先生が探していると言う。

「えーー・・・めんどくせぇ」
「ちゃんと行きな」
「先生に迷惑かけないで」

透にも傑にも釘を刺されて仕方がなく校舎へと足を向ける。同じく食堂に向かうのだろう彼女の荷物を一つ奪って歩き出すと、慌てた様に後ろを追いかけてきた。

「持てる…」
「いーよ、そこまでだし。今日の晩飯は?」
「四川麻婆」
「げっ、あの激辛…」
「おいしいよ?」
「うまいとかまずいとかじゃないだろあれ。婆さん味覚あんのか?」

透は歩きながら、彼女の制服となりつつある白いコックコートの詰まった首元を緩める。確かにもう暑いと感じる季節だと、梅雨が近づいてきた初夏の空を仰ぎ見る。桜の木が枝を伸ばし緑の葉をたくさんつけている。青を遮る様な緑のカーテンの隙間からちらちらと夕方の光が差し込み、透の白い顔に次々に模様を描く。

透が高専に来る前、どうしていたのか聞いたことはない。
はじめて彼女を見かけた日から入学するまでも何度か話したが、どれも自分の話で透のことをちゃんと聞いたのは、泣かせてしまったあの日だけだ。きっと聞いたところで、胸糞悪い話なのだろうと予想はついた。透は魔眼だと言われるその目で見た人間を惑わせてしまったのだろう。きっと透を一番愛していた人間が、一番の被害者になったはずだ。

「…なに?」

見つめすぎたのだろうか、透は少しだけ視線を上げてこちらを見る。目はちゃんとは合わせてくれない。首元のあたりで止まっている。それでも前よりは顔を上げてくれる様にった方だ。

「なんでもない。…透もマリカーやる?」
「まりかー?」


魅了などされないからちゃんとこちらの目を見て欲しいと思ったのは、どうしてだろうか。流石にそれを口にすることは恥ずかしく感じて言葉にできなかった。