紙の月

再会は突然に

  呪術界にはとても力のある血筋がいくつかある。
代表的なものが御三家と呼ばれる、禪院、五条、賀茂であり、そのなかの五条家の嫡男が、先日透を見つけて追いかけてきたあの白髪に青い目の日本人離れした容姿を持つ少年だそうだ。五条悟という名のあの少年は五条家相伝の術式と、滅多に遺伝しないあの青い目、六眼をというギフトを持って生まれたサラブレッドらしい。いかに名家のお坊ちゃんだと言われても、透は大した理由もなく馬乗りになって力でねじ伏せてきた五条悟のことを思い出して、むっと眉間に皺が寄ってしまった。

五条悟の六眼の様に、透の瞳もまた人とは違う異質なものだった。ものを見ることも光を感じることもできたけれど、最初からこの二つの瞳は呪われていた。そのことに透が気づいたのは物心がついてからだったが、その時にはもうすでにいろいろなことが手遅れだった。子どもの周りにあるはずのものは全部、透の前にはなくなっていた。
人も呪いも引き寄せるこの眼に皆が惑わされるから、透は何も見たくなくなった。だから誰とも目を合わさずに、出来るだけ人と関わらずに生きていこうと決めたのだ。
だからこそ、平然とこの呪いの目を見返した五条悟の青い瞳は衝撃だった。

もしかしたら彼は透が唯一、何も気負うことなくその目を合わせることが出来る人間かもしれない。しかし五条悟が自分にとって唯一の存在であったとしても彼とは仲良くできる気がしない、と透は首を振ってそれ以上考えない様にした。


 「呪力をコントロールできるようにならないとな」そう言って毎日いろいろとトレーニングなるものを受けさせてくれる夜蛾に報いたいと、透は日々真面目に課題に取り組んでいた。
最初は体力をつけるためのトレーニングばかりだったが、最近はどんな時も心を乱してはいけないという彼の教えに従って、腕に抱くにはちょうどいいサイズのぬいぐるみと生活を共にし始めて二週間が経った。力が途切れたり、大幅に膨れ上がるとパチン、と静電気のような痛みが発生するこのぬいぐるみは、夜蛾が作ったものだという。透はそれだけで、このウサギともキツネとも言えない不思議なモチーフのぬいぐるみを大事にしようと決めていた。


 夜蛾のところに行こうと高専の敷地内を移動していると、「透チャーン」とわざとらしく子供めいた声で後ろから呼び掛けられ、びくりと背を硬らせる。何故また高専にいるのだ、と顔を顰めないようにして振り向くと同時に腕の中のぬいぐるみを取られてしまった。

「なにこれ? キショ・・・」
「返して」
「猫? 犬?? とにかくブッサイクだな」
「返してって」

大袈裟に鼻に皺を寄せて舌を出した五条悟に奪われたぬいぐるみに向かって手を伸ばすも、くるくると踊る様に躱されてしまう。

「透こんなん趣味なわけ?」
「それ大事だから返して」
「どうしよっかなー」

ぬいぐるみを持った腕を宙に上げて透の手が届かないようにした五条は、今し方入って来たばかりの校門を抜けて敷地の外へ出る。ぬいぐるみを返してくれと必死な様子だった透も当然追いかけてくるものだと思っていたが、彼女は門の内側でぴたりと足を止めていた。ぎゅっと両手を握りしめて困った様な泣きそうな顔で五条を見つめる透は、まるでそこから先は何かに阻まれているかの様に立ち竦んでいる。

「…なに、外出れねーわけ?」

質問には答えず、一度背後を振り返った透はそこに誰もいないことを確認してがっかりとした顔でまた数歩先にいる五条の腕に囚われているぬいぐるみを見つめる。

「取りにこいよ、ここまで来たら返してやるぜ?」
「約束だからね」
「あぁ。返してやるから透のその眼、もう一回見せろよ」

透は五条悟までの距離をじっと見つめる。歩数にして5歩もあればたどり着くだろう。行って帰って、5秒以内で戻れるはずだと算段をつけて緊張気味の心臓を落ち着ける様に息を深く吸う。
怖い。外に出たらまたいつもみたいにたくさん呪いが来るかもしれない。過去に起こった出来事を思い出してすぅと胃のあたりが冷たくなるが、この呪術高専の中は一切呪いがいなかった。数歩外に出たからと言ってもすぐに戻れば大丈夫だと自分に言い聞かせて、思い切って駆け出した。

一歩、透の足が境界を超えたところで空気が僅かに震えた。
目の前にやって来た透の手がぬいぐるみを掴んでも、五条は自らの手を離そうとはせずに訝しげに透の顔を上から覗き込む。

「なぁ、透なんかした?」
「手、離して。返してくれるんでしょ」
「あ?あぁ…」

そんな会話をしている間にふと足元に違和感を感じて下を見た透は、地面から伸びた黒い手が今にも自分の足に絡みつきそうで慌てて避ける。飲み込めなかった短い悲鳴とともに、逃げる様に目の前の男の胸に飛び込んだ透は彼の硬い胸筋に顔を打ち付けた。

「はっ、こんなの低級もいいとこじゃん」

透の身体を軽々と抱きとめたまま、五条は手印を組んだ。地面から這い出そうとする呪いに向かって指を向けると、バチンと音を立てて呪いは跡形もなく消え去った。

「はい終わりー・・・げっ、雑魚ばっか湧いてくんじゃん。なんなのこれ」
「は、はやく、門の内側に戻らないと」
「キリねぇな、透のせいなのこれ?」

次々に姿を現す呪いに五条は嫌気が差したのか、面倒臭そうに舌打ちをする。呪霊の姿に力の抜けた透を抱える様にして呪術高専の校門まで走り、その内側に入ってしまえば背後にぞろぞろと連なっていた呪いの列は結界の壁に阻まれる様にして止まる。

「ははは、透って呪いにとってうまい餌かなんかなの?」

地面にへたり込んだ透は、対象を失った呪いたちが門の前に溜まっている様子を茫然と見つめていた。返事をしない透の顔を覗き込んだ五条は、その瞳が先ほどよりも赤みがかっていることに気づく。血の様な赤い瞳は、瞳孔が縦に伸びており、六眼を通して見ると強力な呪力を有していることが分かる。じっと見つめているとこちらを見上げた透と至近距離で目が合った。驚いた様に見開かれた瞳は水盤のように艶やかで、ずっと見ていたいと思うほどに美しい。そう思っているうちにふっと赤みが消え失せ、透の瞳はいつも通りの神秘的ともいえる黒に戻ると同時にぽろぽろと大粒の涙を零し始める。

「外出ると、大体こうなる。いっぱい呪いが集まるから、危険だって。親、とか保護センターの人も、なんかおかしくなるし、もうここしかないのに。せっかく夜蛾さんに高専で過ごしていい様にしてもらったのに。また問題起こして…追い出されるかもしれない」

ひくひくとしゃくり上げながら泣き出した透に、今度は五条がぎょっとして慌て出した。何気なく抱いていた体が急に熱を持った同世代の女の子の体だと言うことを意識させて、無遠慮に触れていたことが悪いことの様に思えてきた。しかし泣いている女の子から急に手を離して距離をとるのもおかしな話だ。

「な、泣くなよ! 悪かった、俺がからかったせいだってあの怖い顔のオッサンに言ってやるからさ!」
「…夜蛾さんは、やさしいもん」
「そこかよ! ほら泣き止めよ、もう呪いも祓ったし、なんもいねーぞ! 問題なしだ」

透は五条悟の指差した門の外に目を向けて、いつも通りのアスファルトが見えていることを確認して少し落ち着いた気分になる。すんすんと鼻をすすりながらようやく涙が止まった目元を指先で拭うと、のそのそと立ち上がる。五条もそんな透の様子にほっと息を吐き、結局返しそびれていたぬいぐるみを透の胸に押し付ける。

「ほら、悪かった」
「・・・ん」

受け取ったぬいぐるみを大事に胸に抱えた透は、そっと五条悟を伺う。

「お前、ここにずっといんの?」
「今日のことで、追い出されなかったら」
「ふーん。 あ、春から俺もここの寮に住むから」
「えっ」
「んだよ。嫌なのかよ」

自分勝手で意地悪で決していい人ではないけれど、春になったら彼も寮に住むのだと言うことがそこまで嫌だとは思わなかった。夜蛾以外に話を出来る人間がいない今、この眼で見てもなんともないこの男の存在は単調で閉ざされた毎日に差し込む光の様で、簡単に拒否してしまうことは出来なかった。


いつの間にか涙はすっかり止まっていたけれど、駆けつけた夜蛾は泣いて目元が赤くなった透の顔を見ると、躊躇なく五条悟の頭を叩いた。いてー!と叫ぶ男の様子を見て、久しぶりに小さく笑ってしまった。その笑顔を五条が見ていただなんて、透は少しも気付かなかった。