紙の月

箱庭の来訪者

 「この部屋をすきに使ってくれていい」

 男の声は、その顔と同じ様に硬く恐ろしいように聞こえた。案内された部屋に一歩踏み入れると、知らない匂いがする。人の家の匂いだ。嗅ぎ慣れないこういった生活の匂いがいつの間にか全く気にならなく、気づかない様になる程長く、私はこの部屋に住むことが出来るのだろうか。

「食事や風呂は共用だ。この寮に住んでいる他の学生とも今後会うことになるだろう。透のことは伝えてあるから気にするな」

簡素だが清潔で、今までの家を思えば十分な環境だ。

「ありがとうございます」

部屋の中に数歩踏み入れて四方を見回した後、入り口のドアの前で佇む男を振り返り頭を下げる。


 夜蛾と名乗ったサングラスを掛けた男性に連れられてやってきたこの場所は呪いが一切いない。敷地内を大まかに案内してもらいながら、不思議そうな顔をしていたのだろう、彼は子供相手にも丁寧に説明してくれた。ここは学校であること、結界が張られているので基本的に呪霊は顕現しないということだそうだ。私の体質を知ってなお、ここならば安全だと言い切った男の言葉に、半信半疑だった気持ちが少し本当にそうなのかもしれないと思う。甘い期待はしない方がいいと、いやというほど知っている。知っているからこそ、すぐに信じることは出来なかったが、張り詰めていた緊張が少し緩む。

「私はここで教師をしている。君が学校に通うことができる様になるまでは、本職ではないが家庭教師もしよう」
「せんせい、ですか」
「そうだ。学業に加えて少しづつ呪術についても学びなさい。そうすれば自由な生活が出来るようになるだろう」

大きな掌が頭に乗せられた。慣れないのは彼もなのだろう、髪をぐしゃっと乱す様な撫で方は、乱暴とは程遠く、むしろ力を込めていないからこそそうなった様な、不器用なものだった。保護者となる人にそういうふうに触れられたことがなかったので、どういう顔をしてみせればいいか分からなかった。
夕食の時間になったら呼びに行く、と言い出て行った彼の背中を見送り、与えられた部屋に一人きりになると自然とため息が漏れた。

「疲れた」

 ベッドにうつ伏せで倒れ込むと、洗剤と太陽の匂いがした。目を閉じるのは少し怖かった。起きたらこれが夢かも知れないと、漠然とした恐怖を感じる。それでも長時間の移動と、知らない場所で知らない人と話したことは、確かな疲れとなって頭を鈍くし、体をぐったりと重たくしていた。
ご飯は美味しいのだろうか、温かければそれだけも嬉しい、と想像しているうちにぐっと深く眠ってしまっていた。



「ねぇ高専に何の用事なの?俺も行かなきゃダメなの?」

 前を歩く男たちに文句を言っても、へこへこするだけで誰も足を止めないところを見ると、五条家次期当主よりもさらに上の立場からの呼び出しなのだろう。ご機嫌とりか品定め、どっちにしろ大した用事ではないだろう、と決め付けて出来るだけゆっくりと歩く。

 築年数が二桁を超えているであろう萎びた日本家屋を横目に、なにか面白いことはないだろうかと倦怠を晴らす対象を探す。興味を惹かれるような、意外性があって、暇をつぶせるようななにかを。

ふわりと一つの窓から白いカーテンが靡いていた。そよそよと風を孕む様子に目を向けていると、細い腕がカーテンを掴んで室内に引き入れた。少しだけこちら側に身を乗り出した拍子に、彼女の長い髪もふわりと風に舞う。片手で髪を抑える少女の黒い目が、ふとこちらを見た。

それは、実に異様な感覚だった。

晴れた空から雨が降るような、温かな体を巡る青い血のような、言い知れない違和感を感じて足を止める。五条悟の六眼が、視界に捉えた少女を解析する。一秒、二秒と二人の目が合うと、窓際からこちらを見下ろしていた彼女は、ぱっとしゃがみ込んで小さな身体を隠してしまった。

「なんだ今の…」

前を行くお付きの男たちが角を曲がるタイミングで、勢いよく後ろに駆け出す。あの少女はこの倦怠を晴らしてくれる、恰好の相手であろう。建物に踏み入ると、後ろから慌て出した男の足音が追いかけてくる。助走をつけて一段飛ばしに階段を駆け上がり、先ほどの彼女の居場所に目星を付けて扉を引く。ビンゴ。一つ目で当てた自分の強運に自然と口角が上がる。

「静かにしてろ」

窓際に蹲った少女はこちらを見るや逃げ出そうと部屋の隅に向かって体を動かす。それを上から抑えるように馬乗りになって、彼女の口元に手を当てる。鼻も口も己の手で簡単に覆えてしまう、小柄な少女の様子を見ながら耳は部屋の外を走る男の足音に集中する。掌に浅い呼吸が当たる。白い肌に黒い髪、黒い瞳の少女はまるで作り物のように美しかった。人形めいた彼女の呼気だけが、血の巡る人間だと教えてくれる。

「行ったな、よし。お前だれっつーかなに?」
「なにって、なに?」
「質問で返すのムカつくからヤメロ」

華奢な少女の体を抑えていた姿勢から向かい合うように体を退ける。しかし絶対に逃さないと、きつくその手を握ったまま五条悟は目の前の少女をじっと観察する。透けるような白髪に空色の瞳を持つ己の容姿は、人と違っていたがそれ故に希少で美しいものだと幼いながらに理解していた。己と同じように、いやそれ以上に美しい人間を初めて見た。ただ、彼女の美しさは賛美され愛でられるだけのものではない。見た目の年齢よりも大人びた、ひっそりとした影のある眼差しには隠しきれない呪いの気配がある。

「月島透」
「ふーん、月島とか呪術師の家名で聞いたことねーわ」
「呪術師…じゃない」
「じゃあなに、お前。まさか呪い?」

そう言いながらも透が人であることは分かっている。それでも生命の気配をかき消すほどの、呪いの色が濃い。高専にいるということは誰かが許可し、ここにいるのだろうか。

「そうかもしれない」
「は?」
「君も、私の近くにいない方がいいと思う」

 真っ黒な光を吸い込む瞳がじっと六眼の青を見返す。きん、とその虹彩が縦に伸びて見えた。

「五条悟くんだね。お家の人が探しているぞ」

いつの間にそこにいたのだろうか、通常ならば誰であろうと気配に気づかないことなどない。何度かこの高専で顔を見たことのある強面の男がゆっくりと部屋に入ってくる。

「夜蛾さん」
「透、大丈夫か?」

緩んでいた自身の手の中からするりと逃げ出した透は、たたっと駆け足で男の後ろに回り込んで隠れてしまった。

「別になんもしてねーし。挨拶してただけだろ、透チャン」
「そうなのか?……五条くんは用事があるんだろう、早く戻ってあげなさい」
「はいはい。じゃあな、おっさん。透チャン、またね」

仕方がないかと膝を叩いてから入ってきたドアから廊下に出る。体格のいい男の後ろから恐々とこちらを覗く透に笑いかけると勢いよく首を引っ込められた。


目についたのは美しかったからだ。
それ以外の理由はない。きっとそうやって、彼女はたくさんのものを引き寄せるのだろう。良いものも悪いものも、何もかもを彼女はその身に寄せつける。