紙の月

脆く柔いところ

 「付き合ったんだって?」
「へぇ、もう硝子に言ったんだ。女子すげー」

 朝、教室までの廊下で見かけた五条に後ろから声をかける。白い髪は今日もふわふわと重力など関係なしに揺れている。最近かけ始めた黒いサングラスの奥で、五条はどんな目をしているのだろう。口元に浮かぶ笑みはしまりがなく、透をようやく自分のものにできたことが嬉しくてたまらないとだだ漏れだ。心なしか髪までもいつもよりも浮かれているように見えてきた。

「よく透に了承させたね。あんたの押しの強さ舐めてたわ」
「まぁゴリ押ししたことは事実だけど、本当に嫌だったらあいつは俺のこと断ってるよ。自分に嘘つけるほど器用でもないし」
「まぁでも、透が付き合うならあんたしかいないとは思ってたよ」

 透の魔眼を恐れずに向き合えるのも、透がその心を偽りではないと信じられるのも、この世には五条悟しかいないのだから。魔物の如く人を惑わす美しい透のことを、早くも呪術界最強と言われる五条ならばどんなものからも守れるだろう。
 それに、絶対に言わないが透と五条が並ぶ姿はお似合いだった。浮世離れした二人の拙い恋愛の真似事のようなやりとりが、非現実的で神聖さと滑稽さの混ざりあう神話のようにも見えたくらいだ。透と五条が二人で向かい合っていると、その姿はそのまま教会のステンドグラスに出来そうなくらい厳かでただただ綺麗だった。

「硝子に素直に褒められると照れんね」
「褒めてはない」
「ついでに教えてほしんだけどさ…あいつキスの次なにするか知ってんのかな?」

 少し落とした声で聞かれた内容を理解すると同時に、五条の膝を後ろから蹴ってやった。痛い!と騒ぐ男のことを少し見直したのは間違いだったようだ。



 五条くんと付き合うことになった。
 付き合うってなんだろうか、とよく分からないまま私と五条くんは友人とは別の関係を築き始めた。恋人という関係の正解が見えないまま、五条くんの大きくて温かい手に導かれるようにして、私は少しづつ彼の手を握り返すようになっていた。

「あれ、爪なんか塗ったの?」
「昨日、硝子がお揃いにしてくれた」
「ふぅん。あいつ器用だな。今度俺にも塗らせてよ」
「私はマニキュア持ってない…」
「まじかよ、じゃあ次の休みに買いに行くか」

 時間が合うと、五条くんの部屋に二人でいることが多くなった。任務でお互い遅い日もあるのでもちろん毎日ではないし、時間にしてみれば眠るまでのほんの1、2時間だ。それなのに今まで一人でどうやって部屋で過ごしていたのか思い出せないくらい、五条くんと一緒にいる時間がこれまでの生活を塗り替えていく。
 隣に座っていたはずなのに、気がつけば私は五条くんの足の間に抱え込むよに座らされていることが多く、大きな胸板に背中を預けてテレビの画面を見ていると心地よい微睡がやってくる。最初は体が触れると緊張してしまって、硬くなっていたのに今では背中に感じる温もりと少し甘いような五条くんの匂いを感じると強張っていた手足から力が抜けていく。
 190cmを超える恵まれた体格を持つ彼の身体は、私がもたれたところでびくりともしない。体術の訓練で嫌と言うほど投げ飛ばされて、男女の体の違いは知っているはずなのに、私は五条くんが男の子なのだとようやく心の底から感じるようになった。

 手の大きさも、足の長さも、体の厚みも、声の低さも、どれもこれも私とは違う。
 訓練で見せる呪術や体術の強さを全部その白い皮膚の下に隠すようにして、彼はとても慎重に私に接しているのだと知る。それは隣を歩く歩幅だったり、腕を掴む強さだったり、抱きしめる腕の力だったり。強引で自分勝手なところはあるけれど、初対面のような乱暴さはあの一度きりだ。意地悪はされるけれど、痛いことも本当に嫌なこともしない。むしろ付き合ってからの五条くんがあまりにそっと触れてくるから、私は自分がとても大事なもののように思ってしまう。

 そんなはずはないのに、愚かな勘違いをしてしまいそうになるのだ。


「あれ、なんか音する?」

 籠もったような衝撃音がわずかに響く。ベッドの上にある窓を開けると、むわりと夏の終わりの熱気が冷房の効いた部屋に流れ込んできた。

「どっかで花火やってんのかな」
「花火…あんまりちゃんと見たことない」
「あー…俺もないかも。ちょっと行ってみるか」
「え?」

 そう言って五条くんは私を小脇に抱えるようにして抱き込み窓枠に足を掛けると、大きな体を屈めて外に踏み出す。何もないはずの暗闇の上を筋張った大きな足が確かに踏んでいる。不思議な現象を目の前で見せられて、密着した体勢であることも忘れて階段を上ように空中を少しづつ上に歩いていく五条くんの足元をまじまじと見つめる。

「…これも無下限呪術なの?」
「あ、透の前でやったことなかったっけ」
「すごい…魔法使いみたい」

 いつか本で読んだお伽話のようだ。普段から呪術は呪霊を祓うためにしか行使しないので、まさかこんな使い方ができるのかと、突然始まった空中散歩に思わず笑ってしまう。

「…もうちょいくっ付いてないと危ないから、ほら」

 胸の下に五条くんの腕が回って、もう片方の手で左手を肩の高さで繋がれる。背中を五条くんにぴたりと預けて彼の足に合わせて自分の足を運ぶと、夜の空気が硬いコンクリートのように感じる。その時、ぱっと遠くの夜空に花が咲いた。一拍遅れて響くドン、という空気を揺らす音が聞こえる。

「おーやっぱ花火だったな」
「きれい…」

 そのまま続け様にパッと咲いては散っていく夜空の花を二人で黙って見ていると、繋いだ手を解いた五条くんがそのまま私の顎に手を掛ける。真上を見るように顔を固定されて、思ったよりも近くにあった青い瞳に覗き込まれる。

「楽しい?」
「うん。きれい…こんなふうに空の上にいるの、すごく不思議」
「あそ。じゃあいい」

 またキスされるのかな、と思ったけれど五条くんは珍しく柔らかく口元に笑みを浮かべると、そのままぎゅっと体を抱きしめてきた。後ろから抱きしめられると、自分はどうすればいいのだろうかと戸惑う。同じように腕を回すことはできないので、そっと体に回る大きな腕に手を添える。触れた肌の温もりが、暑い夜にも負けないくらいの熱を持っていて、私の体もとろとろと端から溶けていくような気がした。


「ありがとう、とても楽しかった…」
「うん。また明日な、おやすみ透」
「おやすみなさい」

 廊下で繋がった女子寮の前まで送ってくれた五条くんは、大きな手で頭を撫でてからゆっくりと男子寮の方へと戻っていった。
 身支度を整えて、自室のベッドの潜り込んで薄手のタオルケットにくるまる。まだ花火の音が耳の奥に残っているようで、低い音が体の中で鳴っている。それが自分の心音なのだと気づく。閉じた瞼の裏にはまた、鮮やかな青が広がっている。特別な、青い瞳。硝子玉のような瞳は、いつしか煌めくような海のように鮮やかにみえるようなった。五条くんの一番近くにいることは、とても心地が良いものだと感じる。彼に抱き込まれると、私はこれまでの不安や恐怖をほんのしばらく忘れることが出来るようになっていた。

 人に好かれるということは、呪いだった。愛されることも、憎まれることも、全て私が呪ってしまったせいだった。だから誰にも好かれなくて良かったし、誰のことも好きになってはいけないと、そう思っていたのに。五条くんから向けられるものが、私の心の中の柔らかで一番脆い場所に入り込んでくる。それを許してしまっていいのかまだ分からない。けれど、私の中にはすでに彼からもらったものがしっかりと根を張って、芽吹いているのだと、そう思うのだった。