紙の月

名前のない関係

 「なんでお前ばっかなんだよ」
「悪いね、透の相手を譲ってあげられなくて。悟も呪霊操術の術式獲得すれば一緒に行けるだろうにね」
「出来るわけねーだろ、お前も無下限使ってみやがれ」

 久しぶりに傑と二人きりで任務に駆り出された帰り道、高専に戻る前に街中で下ろすように言って夕闇に沈んでもなおネオンが昼間のように眩しい都内の繁華街を歩く。制服姿では飲酒も風俗も断られるので、ゲームセンターで一頻り遊んだ後にラーメンを食べることにした。カウンター席に並んで座り、注文を待っている間に厨房で働くバイトの姿を見ていると透のことを思い出し、つい僻みのように口に出してしまった。

「任務は変わってあげられないけど、デートには誘わないから安心しなよ」
「…お前がそこまで節操なしだったらまじで友達やってないわ」
「ふふふ。透は聡いようでちょっと鈍いよね。悟のわかりにくアプローチじゃ当分無理かもね」
「はあ?」
「あはは、怖い顔。透は悟の照れ隠しを可愛いと思ってくれるタイプじゃないんだから、ちゃんと言葉にしなよ」
「うっせーわ。お前は事務員から補助監督、あげくに窓まで転がしやがって…ちょっと女落とすのうまいからって上から目線うざーい。女に刺されんぞ」
「そんなことにはならないように、気をつけるよ」

 そんな不毛な言い合いをしていると、「お待たせしました」という大きな声とともにラーメンが運ばれて来た。ラーメンに、チャーハン、餃子も付けてボリューム満点である。五条の家にいる時はこういうものは食べたことがなかったので、こうして出歩く機会があるとつい寄ってみたくなるのだ。

「すみません、替え玉お願いします」
「傑まだ食うの!?」

 ラーメンを食べ終え、餃子に手を付けていると傑は既に全て完食したらしく、さらに追加を頼んでいた。けろりとした顔で食べ終える傑を見ていると、食事はあっちのなんとかを表すというのも本当のことのように思えた。


 傑が次々に女に手を出している間、透と俺があれからどうなったかというと、どうもなっていない。

 付き合えばキスしてもいいのか、という問いに答えはもらってないし、あの日以来少し避けるような態度を取られたのでなるべく今まで通りに振る舞っている。

「透、お前弱すぎ」
「う…あっ、あ」
「喘ぐなよ」
「ちっ、違う! あーーっまた落ちちゃった…」

 そのままずるずる一週間、二週間、とキスすることも抱きしめることも出来ずに悶々としているというのに、いつも通りの態度を取っていると透はすぐに警戒を解いて談話室で四人で集まっていると普通に話しかけてくるし、こうして部屋でゲームに誘っても疑いもなく付いて来る。

「マリカー何度やってもうまくならねーな」
「むずかしいんだもん、免許持ってないし」
「みんな持ってねーわ」

 最下位でゴールした透が、きょろきょろと時計を探すそぶりを見せる。

「…硝子も、夏油くんも遅いね」
 
 今日は二人は呼んでない、と言えば透はどんな顔をするのだろうか。

「俺と二人だったら嫌なわけ?」
「そんなことはないけど、五条くん、あの、ちょっと近い」

 透の手からコントローラーを抜き取って、そのままずいと体を寄せる。透は仰反るようにして後ろに下がるが、狭い寮の個室ではすぐに背中がベッドに当たる。

「俺がずっと我慢してんの分かってる?」
「わ、わかりません…」
「…あ、そう」

 考え込むような仕草を見せた後に小さな声で申し訳なさそうに答える透に、ため息が漏れる。分からないのか、彼女には。透にあれやこれやととしたいことが山ほどあるというのに。それを透の許可が出るまでは待ってやろうとしているのに。

「この前俺言ったじゃん。付き合えばしてもいいのかって。お前から返事とかもらった記憶ないんだけど」

 まるで茹でられたかのように首筋から顔まで白い肌を赤く染めた透は、恥ずかしそうに手で口元を隠している。可愛い。だが今日こそはちゃんと決着をつけなければ。生殺し状態がこれ以上続くのは耐えられない。傑の言う通りに行動してしまうことが癪に障るが、背に腹は変えられない。

「俺は透にキスしたいし抱きしめたい。ホイホイ男の部屋付いて来てんじゃねーよ」
「わ、私だって誰でも付いて行くわけじゃない…けど、五条くん普通にしてるから、もうあれはなかったことなのかなって」
「んなわけねーだろ…もっかいちゅーするぞ」
「もうしない! 私誰とも付き合ったりなんかしない。呪物なんて厄介なだけだし、またいつ迷惑かけるかも分からない」
「はぁ? 俺が付き合えっつってんのに断るわけ?」
「だって、五条くんと付き合うだなんて、そんなの…だめだよ」

透は困ったように眉を下げると、弱々しい力で肩を押し返す。そんな些細な抵抗などないのと同じだ。透は耳の淵まで赤く染めて、どう見ても完全なる拒否ではないように見える。透が自分と同じように特別だと思ってくれているのではないかと期待してしまう。今そうでなくても、そうなる可能性があるのならそれを待つ必要はあるのだろうか。

「俺のこと嫌い?」
「嫌いじゃない、けど…あの、五条くんは本当に私の魔眼が効かないんだよね…? 」
「魅了されてるかもとか思ってるんだ。俺のこと舐めすぎだろ」

初めて透と目があったあの日のことを今でも思い出す。身体中の血が沸き立つようなあの興奮を、あの時はなんと名前を付ければいいのか分からなかった。赤い瞳が驚いたように丸く見開かれる様子まではっきりと見えた。魔眼の術式は六眼の前では成立しない。ならばあの衝動は、自分だけの特別な相手に出会ったことを細胞の全てが叫ぶような、そういう類のものだ。透という存在を知ったことへの喜びだろう。

「透の術式なんか俺には関係ないね。俺は俺の意思でお前を特別だと思っているし、お前にとっても俺は特別だろ」

肩に置かれた透の手に上から自身の手を重ねて、細い指先を絡めるように握る。低い体温が滑らかな皮膚を通して掌に伝わり、触れ合ったところからお互いの熱が溶け合っていくようだ。迷うように細かく揺れる瞳を逃さないとばかりに目を逸らさずにいると、透は耐えきれなくなったのか長い睫毛を震わせてぎゅっと目を閉じてしまった。

「透」
「なぁ、透。こっち見て。俺だけはどんな時もお前の目を見ても大丈夫じゃん。なぁ、そうだろう?」

もう一方の手で頬を包むように触れると、透は薄く瞼を開く。伏し目になった透の頬に睫毛の影が落ちる。

「五条くんは、特別だよ。ずっと前からそう。意地悪だし、痛いことするし、言うこときいてくれないけど…でも助けてくれるし、時々優しい。それにたぶんこの世でたった一人、私の魔眼が効かない人だから。だから特別だよ。でも付き合うなんて、そんなの、よく分からない」

透の言葉を食い入るように聞きながら、その赤い唇から否定の言葉が飛び出すのではないかと緊張してしまった。

「じゃあ試しに付き合ってみてよ」

最後の一押しだ。透は心底困っているのだろうと思われた。恋愛などしたこともない透には、付き合うなんてレベルが高いのだろう。けれどこのまま透をふらふらとどこの男に目を付けられるかも分からない状態で放っておくことなどできない。お試しだろうがなんだろうが、一度了承したら離すつもりはない。

しばらく逡巡していた透が小さく頷いたことを、頬に触れた掌に感じる。嬉しさのあまり思わずそのままぎゅうぎゅうと抱きしめてしまう。すっぽりと包み込んでしまえる華奢な体が、カチカチに固まっていることなどお構いなしに長い髪に鼻を埋めて一つ大きく息を吸う。透のシャンプーの香りと、彼女自身の香りが混ざった甘い匂いに満たされるような気持ちになる。

「ご、五条くん、あの、苦しい」

透がちょんちょんと服を引っ張って抗議の声を上げている。もう少しだけこのままでもいいだろう。この二週間ずっと我慢していたのだから。