王様の小鳥

エメラルド幻想

 神が粘土から作ったと言う『彼』の噂は、外界とは断絶された、変化の少ないこのジグラットの後宮にまで飛んできていた。

「エルキドゥ様と仰るのですか」

初めて唇に乗せたその名は柔らかな響きを持っているのに、その言葉が持つ意味は真逆だった。

「そう、彼は神々のお造りになった天の鎖。今は荒野や森にいらっしゃる様だけれど、王が聖娼をお送りになったそうよ」

後宮に住う佳人たちと風通しの良い広間に集まってお茶を飲みながら、神の御使いについて耳を傾けていた。どんな方なのだろうかと、まだ見ぬその姿を想像する。獣の様だとも、美しい女だとも、戦士の様に強い男だとも言われる。

「ギルガメッシュ王も大層興味をお持ちみたい」
「えぇ、昨夜もお会いになるのを楽しみにしていらっしゃいました。お二人の出会いが良いものとなれば良いのですが…」
「そうですね…最近の王は、その、苛烈なところがありますものね」

言葉を選んで語られたギルガメッシュの様子に、ニナは瞳を陰らせる。王は思うがまま振舞われる。誰も彼を止めることはできない。ニナも同じように、王にはじめて会った日に彼の性質と、自身が彼の民であるということをはっきりと理解した。
王の腕に抱かれてきた女たちには皆、多かれ少なかれ直接言葉を交わす栄誉を与えられる。時に少年のように快活に話してくださる時もあれば、興が乗らない、と早々に出て行ってしまうこともある。後宮以外でも、彼は美しい女であればその身体を求めているそうだ。市井の人々が王を恐れていると聞くたびに、ニナは暗い気持ちになるのだった。
稀に傷を負わせることもあるそうで、ギルガメッシュの傍若無人で加虐的な素行は人々に恐怖を抱かせるには十分だった。特に後宮では彼の許しなしにはジグラットを出ることは叶わないからこそ、皆、王の機嫌を伺っていた。


それから暫く経ったある夜、空気が揺れるような轟音が響き渡った。
何事かと炎の灯った市街地に目を向けると、流れるような緑の髪を持った美しい人が、ギルガメッシュ王と相対していた。やりとりまでは聞こえないが、短い会話の後は土煙と剣戟の音が止まなかった。ジグラットからは何も見えなくなってしまい、王は無事なのだろうかとニナは一人、神に祈るようにして夜を明かした。

「あの方がエルキドゥ様なのですか」
「そうらしいね。緑の髪を持つ麗しい人だったでしょう。神々のお造りになるものは須く美しいのね」
「うん。それに遠かったけれど、あの王と対等に戦っていらっしゃるように見えたわ。とてもお強いのね」

ルルーと二人後宮の端でこっそりと昨夜の様子を語る。夜が明けると昨夜の戦いについて至る所で大騒ぎとなっていた。なるべくひっそりとしていたいニナは、慌ただしい居室を抜け出し普段友人となったルルーと歌と笛で遊んでいる場所へ避難していた。
その時、階下で大きな笑い声とともに人々を呼び出す号令が掛かった。ルルーと顔を見合わせると、急いで外の広場が見える外壁の方へ走ると、既にたくさんの後宮の女官や衛兵が窓や開口部から群衆を見下ろしていた。

「聞け、皆のもの。この者はエルキドゥ。我と対等に戦った神の作りしこの強者を、今日この日より我の真の友とする!」

珍しく土煙で汚れた体躯の王の隣で、同じように白い衣服に所々茶色の染みをつけた美しい人は薄らと微笑みを浮かべて人々を見渡した。ウルクの乾いた風がエルキドゥの長い髪を靡かせる様子に、皆が頭を垂れる。ニナは王が彼を見て心底嬉しそうに笑う姿を目にし、もしやこの美しい人は王を救ってくれるのかもしれないと、小さな希望を感じるのだった。


「なにをしているの?」

それから数日後、ニナは後宮の中庭で自身にかけられた柔らかい声に振り返る。手元を覗き込むように腰をかがめたエルキドゥの姿に慌てて身を低くすると、彼も同じように草の上に膝をつく。

「いけません、エルキドゥ様」
「どうして?君が座ったから僕も座ったのに。それより、ねぇこれはなに?」

無邪気に距離を詰めるエルキドゥにニナはおっかなびっくりしながら、手に持っている花の種子をエルキドゥに見せる。掌の上に乗った黒い小さな種子をエルキドゥの白い指が一つ摘む。

「種?」
「はい。今から植えれば、二月もすれば可憐な小さな花を咲かせます」
「へぇ、そうなんだ。僕も一緒にやってもいいかい?」

きらきらと透けるような緑の瞳を輝かせるエルキドゥにニナはどうしたものかと、中庭を囲む回廊に目をやるが生憎女官も衛士も見当たらなかった。王が高く評価される御仁に、土いじりなどさせても良いのだろうかとニナは逡巡するも、断ることも不敬に当たるのかもしれないと、おずおずと首を縦に振る。

「この人の通り道ではない、柔らかな土の上に播きましょう。指先で少しだけ土を掘って、そこにこの種をいくつか入れて軽く土を被せます」
「ただ地面に播くだけではいけないんだね。君に優しく命を吹き込まれるこの花々はきっと美しいのだろうね」
「森の花々でしたら実が落ちれば自然に根を伸ばせましょう。ここは王宮ですので、人の手をかけてやらねばうまく育ちません」
「そういうものなのか。人はそうやって知恵を使ってこの土と煉瓦の乾いた王宮の中でも、豊かな緑を育てているんだね」

エルキドゥに次はどうするのだ、これはなんだと聞かれるがままに答えているうちに、取り寄せた種は全て播くことができた。水を少しやってから立ち上がると、エルキドゥが種子の植った地面を愛おしそうに眺めていた。

「僕は草木や動物たちがすきなんだ。瑞々しい生命力と豊かな緑の中にいるととても気分がいい」
「そうなのですね。エルキドゥ様は森や野原でお過ごしになったと伺いました。きっとお懐かしいでしょう」
「うん、この足で野原を駆けるあの爽快感と言ったら…!でも僕はギルガメッシュに会ったから、ここにいることにしたよ。そうだ、君の名前はなんていうの?」

こちらを振り向いたエルキドゥは上半身を屈めるとニナの顔を覗き込む。鼻先が触れそうな距離の近さに慌てて後ろに一歩下がると、また一歩距離が詰められてしまった。

「ニナです。エルキドゥ様、あの、少し距離が……」
「僕まだよく知らないことが多くて、君は優しくてそれにても心地のいい声だから側にいてくれると嬉しいな。…よし、ギルに言って来よう!」

笑顔のままとんでもない提案を言い出すエルキドゥを、ニナは止めたいのだが彼に触れてもいいのかわからず、行き場のない手が宙を掻いた。その時、二人の横からよく通る声が響いた。

「我がどうした、エルキドゥ」
「やぁギル!じつはニナが欲しいんだけど、だめかい?」
「ほぉ?お前にも肉欲があるのか」

感心したように腕を組むギルガメッシュ王の返答に、ニナは身を硬くする。このまま彼の後宮から追い出されてしまうのだろうかと、不安で呼吸が浅くなってきた。

「あははっ、そんなもの僕にはないよ。僕は兵器だよ、ギルガメッシュ」
「兵器であればものを知りたがったりせんであろう」
「そうかな?ねぇニナ、僕もっと人の生活のこといろいろ教えて欲しいんだ。どうだい?」

ぎゅっと握り締めた両手を、大きなすべすべした手に包み込まれた。微笑みを浮かべるエルキドゥを困った顔で見返したニナの腕を、横から伸びてきたギルガメッシュの手が強く引っ張った。

「此奴は後宮の女だ。我が財宝とまではいかぬが、我のものである故やることはできん」
「そうか…残念だ。こうきゅうといのは?」
「我に貢がれた女を住まわせている場所の名だ」

エルキドゥの前でギルガメッシュの手がニナの髪に触れる。二人の会話から自身の行末が見えず、ニナは不安げにギルガメッシュを見上げた。そんな不安を意に介さないエルキドゥは、相変わらずにこにことこちらに話しかけてくる。

「そこでニナはなにをしているんだい?」
「…お、王のお世話です」

ニナはエルキドゥの真っ直ぐな瞳に負けそうになりながら答えると、すぐ側に立ギルガメッシュが喉の奥で笑っていた。

「貴様・・・我の世話をしているつもりだったのか。いつも貴様が我の世話になっているではないか。すぐへばるわ、水も飲めずに零すわと、毎度手を焼かせておるくせに」
「そうなの?ニナは花の世話もできるのに、不思議だね」

噛み合わない会話に赤面しながら目線を落としていると、ギルガメッシュはふむ、と少し考えるように間を置いてからニナの顔を片手で掴むと視線を合わせる。

「ギルガメッシュ王…?」
「貴様の言う我の世話とやらを疎かにするのは許さんが…、友の頼みだ。エルキドゥの面倒を見てやれ」

恐れ多い指示に薄く開いた口を閉じれずに、間の抜けた顔をしている横でエルキドゥは無邪気に笑っている。人間界に不慣れな王の友の面倒など、どうやって見ていいのかも分からなかったが、このウルクで王の命は唯一絶対だ。

「ありがとう、ギル!ニナ、よろしくね」
「貸してやるだけだ。壊すなよ?」
「もちろんだ。ニナのこと大事にするよ」

そういえばこの美しい人は、戦いにおいては王と互角の力量の持ち主だった。嫋やかに笑っていても、その力でニナの体などどうにでも出来るのだ。その顔に悪意は感じられないが、内向的なニナにとっては十分に刺激的な日々が始まろうとしていることは、なんとなく察しがつくのだった。