貴方のための銀の牙

花びらが散ったさき

首についた絞められた跡を、王様は私以上に気にしているようだった。眠っている間も見えないはずなのにその赤い跡の上を硬い指先がなぞっていた。

そんなはずはないのに、そうやって撫でられると王様に大切にされているような気がしてしまった。朝起きてぼんやりとその感触を思い出し心がざわざわと波立った。
思いやりや優しさなんてものとはまた違う尺度の価値観でしか接してくれない人なのに。
嬉しいだなんてどうかしているなと小さく息を吐いた。


その朝から王様は姿を見せなかった。
聖杯戦争に本格的に介入するつもりなのだろう。
英霊同士を戦わせる魔術儀式が今まさにこの地で行われていることを、果たして何人の人が知っているのだろうか。学校で淡々と授業を受けながら、いつも通りの日常が続いていることの方が不自然さを感じる。


「透、どうしたの?なんだか昨日から元気がないみたい」
「そうかな…」

つい先日、好きな人からのメールの返信に悩んでいた友人に声をかけられて、昼食の手を止める。

「いつも透には話聞いてもらってばかりだからさ。なにか悩んでるのかなって!」
「ありがとう…うん、そうなの。ちょっと悩んでる」
「えっ!マジで…ついに彼氏できた?」
「声が大きいよっ…!彼氏じゃない、そんな関係ではなくって…」

恋が絡むと途端に食いつきが良くなる彼女の反応に慌てて否定するも、男の話であるとボロを出してしまった。
のらりくらりと核心を避けながら、ギルガメッシュという男の話をしているとなんだかとても変な感じがした。

「ふぅん…何考えてるかわかんない男ねぇ…透も初彼なのに攻めるよね」
「いや、だから彼氏とかではなくって…」
「はいはい、で?その年上の最近知り合った男が気になって授業も上の空で、ご飯も喉を通らないと…もうそれは恋でしかなくない?」

にやりと指を立てて得意げに笑う友人の言葉に、恋なのだろうかと自問する。初恋もまだの私に恋などと言われても分からない。確かに恋というものの症状に当てはまっているような気もする。でも、王様とどうなりたいかなどと考えたことはないし、むしろ英霊と恋仲になる魔術師などいるのだろうか。そもそも王様に恋人という概念がない気がする。

「恋、ではないような…」
「でも知りたいんでしょ?じゃあ恋だよ!まぁ恋であろうとなかろうと、透がしたいようにすればいいんだよ」
「私のしたいように?」
「そう、前言ってくれたじゃん。素直が一番だってやつ。あれ本当にそうだったから、透も自分の直感に従ってさ、素直になればいいんだよ」

照れたように笑った彼女の言葉がすとんと胸に落ちてきた。素直に、か。確かにそれしか私には出来ないだろうし、あの頭のいい王様の裏をかくことなど出来そうにもない。

「うん、そうだね。ありがとう、少しすっきりした」

心と体は繋がっているようで自然と口角があがって、微笑むことができた。友人は丸い目を細めていいよ、と笑い返してくれた。

「でも意外だった。透ってちょっと引いたところから周り見てる感じがしたし、こんなふうに男のことで可愛く悩んだりするんだね」
「以外、かなぁ」
「なんていうか…明日から急にいなくなっちゃいそう、って時々思うんだよね」
「なにそれ。そんなわけないよ」
「まぁね。ドラマじゃあるまいし…でも、これで分かったわ。明日から学校来なかったらその謎の男と駆け落ちしたってことだね」

はは、と笑いながら友人の鋭い観察眼に称賛の視線を送る。私の毎日がいかに不安定なのか、隠していても日々の言動で何か察するものがあったのだろう。
それでも今日までそんなことを言わずにそばにいてくれたことが、とても嬉しかった。友人と呼べる人に出会えるなんて、きっと幼少期の私が知ったら驚くだろう。この喜びをしれただけでも、家を出た価値がある。
今日はなんだかとても涙腺が弱いみたいだ。
気を抜くと溢れそうな涙を押し留めるように、ぎゅっと強く瞼を閉じると午後の授業を告げる予鈴が鳴った。



その日、王様が二日ぶりに帰って来たのは真夜中を過ぎた頃だっただろうか。もしかしたら空が白んでいたのかもしれない。久しぶりにソファで浅い眠りの海を浮いたり沈んだりしていると、不意に体を引き上げられた。夢か現実か判断がつかずに瞬いていると嗅ぎ慣れた異国の香りがした。寝ぼけ眼を擦って寝室へと私を運ぶ王様を見上げると紅い双眸が暗闇に爛々と光っていた。

「…おかえりなさい」

かすれた声で声をかけると無言でベッドに下ろされる。瞬きもせずに見下ろす王様の視線が冷たく、恐ろしかったけれどまだ半分眠っている頭では、ぼんやりとその目を見返すことしかできなかった。交わった視線は王様が顔を近づけた事で自然と解けてしまった。唇が合わさると、この後どうなるかはもうよく知っていた。熱の塊のような魔力が舌に絡めとられて王様の方に引きずられていく。契約を結んでいない者同士の魔力供給だと、分かっていても、王様とキスをしているのだと思うと最初の頃は感じなかった胸の高鳴りを感じる。とくとくと速くなる鼓動はきっと筒抜けていることだろう。

「随分と女の顔をするようになったな、透?」

息継ぎのように解放された唇から酸素を求めて大きく息を吸っていると、笑いを噛み殺したように囁かれた王様の言葉に頬がぶわりと熱を持つ。羞恥で顔を背け、枕に頬をつけるとゆっくりとパジャマの裾から大きな手が入り込んできた。腰の辺りを撫でられるとぞわりと肌が泡立つ。またあの日のように体を暴かれるのかと思うと手足に力が入る。
大きな手はこの前の意地の悪い揶揄いを含んだ触り方ではなく、じりじりと肌を焦がしていくような熱があった。自分の体のはずなのに、肌の上を滑る掌によって全く知らない体にされてしまうみたいだ。
息を詰める私の反応までも思い通りなのだろうか、初めて触れるはずなのに王様の手は私以上に私の、いや、女の体を知り尽くしている。
体を這う手に衣服が乱された頃に耳元に一つ、噛み殺したような吐息が落とされた。
ぎゅっと閉じていた瞼を恐る恐る開くと、いつもの怜悧な表情とは違う興奮を隠しきれない熱の浮いた目で王様が薄く笑っていた。

今夜は泣いても止めてくれないんだろうと、その目を見て理解した。それを分かった上でも「嫌」という気持ちが湧いてこなかった。

私はこの人が好きなのだろう。

素直にね、と笑った友人の言葉が鼓膜の奥で響く。この前だってこうして求められたのならきっと体を差し出していただろう。あんな風に意地悪を言われて適当に抱こうとされなければ、きっと。英霊であると分かりながらもギルガメッシュという男を受け入れていたのだろう。
この大きく力強い王の手を本気で振り払うことができないくらい、私は王様の言う「情」に絆されていたのだ。
同じものを返してもらえないと分かっていても、それでも良かった。
おずおずとその逞しい背に手を回すと、小さく名を呼ばれた。




「血…?」

微睡ながら夜明け前の澄んだ空気の空をカーテンの隙間から覗き見ていると、寝返りをうった拍子にベッドに落ちていた王様の黒いジャケットから鉄のような匂いがした。
のそのそと動くと体が痛んだけれど、気になってその衣服を掴んで確認する。すると隣で寝ていた王様が気怠げに起き上がった。

「怪我したんですか?」
「我の血ではないわ。貴様先ほどまでこの傷一つない玉体を触っておったではないか」

それはそうなのだが、そんなこと気にする余裕があるはずもない。今までの魔力供給が遊びであったかのようにごっそりと魔力を持っていかれてしまった。
これだけ摂ったということは、その分彼は魔力を使ったのだ。きっと英霊と戦った後で帰って来たのだと、ようやくいつもとは違う王様の様子に合点がいった。

「バーサーカーと言えども大英雄ヘラクレス…それなりに楽しめたぞ」

いつかの教会で垣間見た恐ろしい力を持つ不死の英雄を破ったのかと、改めて英雄王と呼ばれたギルガメッシュの力に驚く。王様の力はあの異空間らしきところから射出される武器だ。どれも黄金に輝く美しい調度品のようだが、あれは紛れもなく敵を滅する武器なのだ。

「では、これはヘラクレスの?」
「いや?マスターのホムンクルスの娘のものだ」
「…アインツベルンの魔術師ですね」

会ったことはないけれど、王様の様子からもうその魔術師はいないのだろうと想像がついた。英霊に対抗しうる魔術師などこの世にいないだろう。自身の英霊を失うとはそういうことなのだろうか。彼女にとって聖杯戦争は命を懸ける価値があったのだろうか。

「あれが作動しては我の願いは叶わぬからなぁ…」

楽しげな王様の顔をみて、胸の中に冷たい滴がぽとりと落ちた。
王様にとっては魔術師も英霊も敵と見做せば、躊躇なくその命を奪う対象だ。いや、王様だけではないのだ。聖杯戦争に参加したということは、己の願いの為に他者に力で勝つ必要があるのだ。
魔術師たちの狡猾で抜け目のない性質に合っていないのは、私の方だ。

その腕に抱かれながらも、心は遥か遠く、たとえ夜通し語り合おうともその片鱗に触れることすら出来ないような気がした。