貴方のための銀の牙

絶望には甘い喪失

以前は私のものであった王様のベッドで、恐怖心は消えなかったが魔力の享受による疲れで結局ぐっすり眠ってしまった。朝、透が目覚めると視界に王様の手が見えた。眠った時よりも身を寄せていたのは寒さのせいだと思いたい。抱き枕のように包まれた状態で背後に硬い胸板と規則的な呼吸を感じると、この人も生きているのだと不思議な心地がする。視界に映る白い手は自身の手よりもずっと大きく、指先や掌は硬そうで、美しい容姿に反して無骨な印象を受ける。
そうっとその掌に指先で触れると、予想通り硬く武器を握っていたことが窺い知れた。指先を離そうとした時、ぎゅっと強い力で指を握った王様は伏せた獅子が身を起こす様に顔を上げると、周囲に警戒の視線を巡らせる。
何もないと分かったのかまた寝具に身を戻した王様は、紅い瞳で私を捉えると不満を顔に表す。

「王の眠りを妨げるな」
「ごめんなさい」
「起きたのなら疾く支度せよ」

目を閉じて眉間に皺を寄せた王様にベッドから追い出されると、部屋の中の冷たい空気にふるりと体が粟立った。



学校で授業を受けつつも、頭の片隅で王様の事が気になっていた。
理解できないと分かっているのに、言葉の端々から彼を窺い知れないかと思ってしまう。私は王様のことを知りたいのだ。怖くて恐ろしくてこちらの言うことなど聞いてくれないのに。あの宝石のような目から魅了の魔術でも発動しているのだろうか。深入りすべき相手ではないと、理解していながらもそれでも目を逸らすことはもうできそうにない。

あの人に殺される日が来るかもしれないと漠然とした予感がする。救いになるのであれば、それもいいのかもしれない。


帰り道、コートを着ていても女子高生の制服は防寒性に乏しく、校則通りの膝丈スカートの裾から伸びる脚を外気が撫でていく。タイツを履いても寒いものは寒い。
遠坂のお嬢さんはよくあんな格好ができるものだ。彼女の肌には都合の良い温度調節の魔術でも掛かっているのだろうか。
今日は鍋にしようと買い込んだ野菜と王様のビールのお供が入ったビニール袋を片手に信号待ちをしていると、後ろから今日一日考えていた相手である王様の声がする。特徴的な話し方と、よく通る声は間違い無く彼のものだ。振り向くと向こうから声をかけられた。

「透、丁度良いところで会ったな」

人の悪い笑みを浮かべる王様の隣には、彼より頭一つ背の低い男が立っている。衛宮くんと同じ制服に身を包んだ癖っ毛の男は、あろうことか王様の肩に腕を回している。ぎょっとしてその行動を見ながら、自尊心の高いこの王がよく許しているものだと驚く。

「愉快な男であろう?道化はやはりこうでなくてはな」
「ねぇ、こいつお前の知り合いなの?可愛い顔してるじゃん」

無遠慮に顔を近づけられて嫌悪感を露わにするも、彼は気付かないようでなかなか離れてくれない。一歩後ろに下がって説明を求めるように王様に視線を向けるが、嘲笑するように「道化」と評した男を見るだけだ。

「知り合いなどと呼ぶべき人間は王たる我にはおらん。これは我の小間使いだ」
「へぇ、さすがオーサマだねぇ…宜しく、小間使いちゃん。僕はあいつのマスターなんだから、僕も君のこと小間使いにして良いってことだよね?」

マスターという言葉で、後半の不快な言葉がどうでもよくなる。

「…あなたが、マスター?」

驚きとともに胸がちくりと痛むような息苦しさが込み上げる。まさか、彼が契約したというのか。この見るからに軽薄そうな男と。決して長い時間を共にしたわけではないけれど、王様が好む人間も、好まない人間もなんとなく分かっているつもりだった。彼はおそらく後者だと思ったのに。
そして聖杯戦争には参加しないと最初に言っていたことを思い出し、どういうことなのだろうと困惑する。

「そうだよ。僕はあいつ、ギルガメッシュのマスターだ」

自慢げに笑みを浮かべた男の口から、発せられたカタカナの単語が名前であると一白遅れて理解した。
ギルガメッシュ。それが、この王様の名前。
「シンジ」と呼ばれた男の側から私の隣にやってきた王様は、私が名を知らなかったことなど気づいていないのだろうか。特に反応せずに私の手にあるスーパーの買い物袋を目に止めて、そろそろ夕食の時間か、と見当違いのことを呟いている。

「ねぇ、お前…透だっけ?お前も俺たちに協力してくれよ。そしたら聖杯をわけてやるよ」
「…自分の願いは、自分で叶えるからいいです」

何を言っているのだろう。協力って何だ。もうこれ以上ここにいたくないと、目も合わせずに一礼して背を向ける。
王様に何も言わずに歩き出してしまったけれど、彼が今日も部屋に来るかどうかも分からないのだ。このままあの「シンジ」という人のところにずっといるのかもしれない。あの人のこと絶対にマスターだなんて思っていないことだけはすぐに分かった。マスターでないなら彼は王様の何なのだろう。私がやれば即座に「不敬」と怒るだろう振る舞いを許す理由は何だろう。


「透」

もやもやしながら地面を睨んで足を進めると、すぐに隣に黒いスラックスが追いついてきた。名前を呼ばれてゆっくり足元から目線を上げると王様が不思議そうな顔で眉を寄せていた。

「…腹でも壊したか」
「へ…?」

王様は珍しく言葉を探すようなそぶりを見せた。唐突に会話を打ち切って歩き出した私の行動が理解できなかったのだと、その時やっと分かった。王様があの「シンジ」じゃなくて私の後を追って来てくれたことは少し意外だった。仮にもマスターだというのなら、私に構うことももうないだろう。そのことを考えていると、気持ちがそのまま声になってしまっていた。

「…あの人のところに行くんじゃないんですか」

子供のような言葉に、口にしてからしまったと思う。王様は首を傾げて逡巡した後に、意地の悪い顔で笑う。

「小間使いが道化に嫉妬しておるのか、ふははは!我の関心を得たいのか?」

歩道の真ん中で腕を組んで笑う王様に指摘されると、余計に恥ずかしくなってしまう。
そうだ。王様の名を知っていた彼に、気安い振る舞いをする彼に、私は嫉妬しているのだ。男女の嫉妬ではなく、もっと幼稚な、私に一番懐いていたと持っていた野良猫がよその家の飼い猫だったときのような、そんな勝手な思いだ。猫には私の気持ちなど知ったことではないのに。

「関心…というか、もう来ないのかと思って。今日お鍋の予定だし、王様が好きなナッツも買ったのに、来なかったら、全部食べきれないなって、思っただけです」
「よい、苦しい言い訳だな。王たる我を慕うは当然の道理だ。しかし勘違いはするなよ透。我は貴様のその愚直なまでの従順さと、魔術師としての才を認めているだけであって、貴様個人の人間性には何の情もない」
「私個人に対する情…?」
「…貴様は頭がいいようでこと感情には愚鈍よな…まぁ人のことは言えないか。我にとっては人は統べるもの。同じ目線で見るものではない」

心底可笑しそうにニヒルな笑みを浮かべていたかと思えば、またその目は暗く輝く。そこには寂しさと、憎悪の炎が揺らめいているのだと唐突に気がついた。

「でも…ここはもう王様の国じゃないです、あなたの民はここにはいない」
「ほう、言うではないか。だがそれは間違いだ。この世の財は全て我のもの…例え英霊となり先の世に現界した今であっても、それは変わらない。この世の全てを我は手に入れ、同時に背負っている。己の視界に映る人間も全て我が背負い、統べるものよ。英雄王たるこの我に支配されることをむしろ喜ぶべきだ…」

王様に見下ろされると、ぞくりと背筋に恐怖と共に跪きたいと思わせるなにかがあった。

「真の王はこの我、ギルガメッシュただひとりだ」


王様の口から直接聞いた高貴なその名は呪文のようで、私は口の中で音もなくその名を一度唱えてしまった。