並行飛行

花火

「ほな俺上がります。お疲れ様ですー」

 バイト先である居酒屋のキッチンに挨拶をすると、お疲れ様、と大きな声が返ってきた。酒の入った客の賑やかな声が響く店内をそそくさと抜けようとすると、ホールスタッフの女性と目が合う。ばっちりマスカラのついた濃いアイメイクに彩られた眼差しは、明らかに不機嫌そうで、思わずぎくりとする。それを顔に出さずににこりと笑って、彼女が何か言う前にお疲れさん、と声をかけて店を出る。
 危なかった。きっと口をきいていたら最近付き合いが悪い、と責められただろう。前まではほいほいと彼女の誘いに乗っていたのは事実だが、ここのところバイトが終われば直帰するようにしているので、もうしばらく彼女とは話していない。
 むわりとした昼間の熱の名残りを孕んだ夜にしっとりと体が包まれると、深いため息が漏れた。誘われたからと簡単に関係を持つべきではなかったな、と雑踏の中を歩きながら反省する。
 バイト先変えるか。学生のうちに出来るだけいろいろなタイプの飲食店を経験しておきたいし。
 もちろんあれこれと面倒なので逃げたいとというのが一番の理由だ。自分でもそれは分かっている。いつでもそのコミュニティから逃げられるような関係しか築いていなかった。楽だったし、社会とはそういうものなのか、とも思った。
 けれど、なまえに再び会って、あの飾らない瞳で見つめられると、こんなことしていると知られたくないと思った。だから一応、あの日からは適当に関係を持つことは控えている。帳消しになるとは思ってないが、これ以上自分に幻滅したくなかった。

「治、こっち」

 考え事をしながら歩いていると、待ち合わせ場所に着いていたようで俺を見つけたなまえがひらひらと手を振ってくれた。通常よりも人出のある繁華街のなかでなまえだけがぱっと明るく見えた。ハーフパンツにひらひらとしたレースのノースリーブを着て、小さなショルダーバッグをかけたなまえの元に足早に駆け寄る。制服じゃない彼女はいつぶりだろうか。先日のコンビニへの買い出しは完全に部屋着だったし、私服姿が久しぶりで近くで見るとメイクもしているし知らない女の子のように感じた。

「やっぱり混んでるね。あ、バイトお疲れ様」
「あー、うん。ありがとお」
「なぁに、どうしたの治」
「べつに。行こか」

 不自然に目を逸らしたことを不審がるなまえは、俺と出掛けることなんかなんとも思っていないようだ。緊張する必要なんてないのだと、ふっと力が抜けた。なまえと並んで周囲の人々と同じ方向へ歩き出す。今日は毎年恒例の地元の花火大会だ。小さい頃は家の近くの高台から両家族揃って見ていたが、稲荷崎高校に入ってからは部活漬けで一度も見れなかった。

「花火なんて久しぶりや。楽しみやな」
「そうやね。高校生の頃は二人ともバレーで忙しかったもん、ね」

 侑のことを思い出したのか、なまえの言葉が不自然に途切れる。二人の間に落ちた沈黙が、浮き足だった人々の賑やかな話し声を際立てる。

「……ツムとはこういうん来んかったん?」

 ぱっと顔を上げたなまえは、俺の顔を困ったように見つめると、ゆるく首を振る。

「ツムの話、したなかった?」
「ううん。治といて侑の話せえへんなんて、変やんか」
 一度言葉を切ったなまえは、諦めたように前を向いて笑う。
「なんで別れたんか聞かんの?」
「……片割れのあれこれなんぞ知りとおない」
「確かにそっか」
「でも、なまえのことは知りたい。悲しいんやったら、はよ元気になってほしい。困っとるなら、助けたりたい」
 俺の言葉にもう一度こちらを見上げたなまえは、何かを耐えるように眉間にギュッと力を入れていた。ありがとお、と言うとくしゃりと目を細めて笑った。
「あー、ほんま治は優しいね。でもそんな悲しくないんよ。喧嘩したわけでも、浮気されたわけでもないし、ただ、やっぱりうちと侑は幼馴染が一番ええんやなって二人とも思ってん。だから円満に別れた。……そういうても、まだ侑と会うのはちょっと気まずいけどね」
 最後は茶化すように明るく言い切ったなまえは、治は?と聞いてきた。
「俺?」
「あの可愛い後輩の彼女となんで別れたん?」
  治先輩、と呼んでくれた彼女の声がふと蘇る。高校生活にバレー以外の思い出もきちんと残っているのは、傷心の俺のそばにいてくれた彼女のおかげだ。
「……俺が関係を続ける努力をせんかったから、フラれて当たり前や」
「フラれたんだ。意外」
「言わせてしまったんやろな」
「えー、なんか大人な一言やなぁ。私の知ってる治じゃないみたい」
「……それ褒めとるん?」
「ふふふ。どうやと思う?」
 こちらを見上げるなまえの顔に浮かぶ笑顔に、しんみりしていた空気が柔らかな風に流されるように消えていく。

 とん、と行き交う人と肩がぶつかるくらいに周囲に人が密集してきたのでそろそろ会場に入れたのだろうか。背は高い方だが、周りは人だらけでよく分からない。まだ明るさの残る淡い紺色の空に一度視線を向けると、ぽすりと胸元になまえの身体が倒れ込んできた。横にいた大学生の集団に押されてしまったようだ。

「わっ、ごめん、治」
「ん……大丈夫か」

 支えるために触れたなまえの細い肩を少しだけ引き寄せると、ぶつかってきた騒がしい集団を睨む。あからさまに引き攣った顔をしてそそくさと脇の方へ逃げて行った男たちの姿が見えなくなると、なまえの肩から手を離す。柔らかなレースの質感が掌をくすぐるように撫でていった。
 
 そのまま人波に任せてゆっくりと進んでいくと、見慣れたお祭りの屋台が道の両側にひしめいていた。子どもの頃に感じたような高揚感にうずうずと左右を見回してしまう。
「ええ匂いすんなぁ。炭火焼き鳥、あー、焼きそばも食いたい」
「さすが治、鼻が効くなぁ」
「何個か買ってから観る場所探そか。なまえなに食いたい?」
「えー、どうしようかな、どれも美味しそうやなぁ」
「ほな俺が好きなもん買ってちょっとづつ食うか?」
 きょろよきょろと周りを見回すなまえに提案すれば、ぱっと顔が輝いた。
「ええの? 治いっぱい食べるし、いろいろ味見できるん嬉しい!あ、でもお金は払うから」
「でもどうせ俺の方が食べるしなぁ。あ、せやったらデザートにかき氷欲しい。帰りに買ってや」
「……それ割り勘にならへんやん」
「俺の方がぎょうさんバイト入っとるし、今日くらいおごらせて。言うても大したことない金額やけど」
 なまえはまだ何か言いたげであったが、じゃあ、ご馳走になります、と律儀に頭を下げる。屋台の中から手際の良いおっちゃんを選んで気になったものを買っていると、あっという間に両手がビニール袋で塞がってしまった。自分も持つと言うなまえに一つだけ袋を渡して、だんだんと暗くなりつつある夕闇を赤く照らす提灯の間を歩く。屋台から少し離れると、すでにレジャーシートを敷いている人たちを見つけて二人で顔を見合わす。
 
「ここらへん見やすいっちゅーことやんな?」
「たぶん……あ、あそこの端、ちょびっと空いてる。」
 なまえが指差した縁石のスペースは腰掛けるのにちょうど良さそうだった。少しずつ距離を空けて座るカップルの後ろを通って、目をつけたスペースに辿り着くと二人で腰を下ろす。

「座れて良かったなぁ」
「ほんまやね。こんなに食べ物買ってしまったし、立ち見やとちょっと大変やったかも」
「あー腹減った。はよ食べよ」
 
 花火が始まる前に、さっそく買ったばかりの屋台飯を開けていく。輪ゴムを外してプラスチックの蓋を開けるとふわりと食欲をそそるソースの香りが広がる。割り箸を一膳づつ持つと、いただきます、と自然と二人の声が重なった。
 
「うま。焼きそば食べてみ」
「こっちのルーロン飯も美味しい!」
 なまえとお互いの手に持った食べ物を交換する。
「ほんまや、美味しい。なんでお祭りの焼きそばって家で食べるより美味しく感じるんやろ」
「火力かなぁ。外で食べるんがうまいんかな」
 
 その後もたこ焼き、焼き鳥、ポテト、と普段はあまり食べないジャンクフードを堪能する。なまえもどれも美味しい、とにこにこと嬉しそうに小さい口で頬張っていた。俺の一口との差に、そう言えば小さい頃アイスを一口交換した際に食い過ぎだと泣かれたことを思い出した。
 
「ほんまに腹膨れたん?」
「うん。だって治いっぱい買ってくれたし、ちょっとづつ全部食べたしもうお腹いっぱい。ありがとお、治」
 目を合わせてにっこり満足そうに笑ったなまえに、こちらまでつられて笑ってしまう。
 あぁ、やっぱり飯は良い。こんなふうに人を柔らかく満ち足りた顔をさせてあげられるのだから。自分の進んだ道への肯定感がまた少し高まったような気がする。出来るなら、いつかは自身の手で作った料理でなまえを笑顔にさせてみたい。そんな夢と呼ぶには小さな目標がふわりと胸の内に浮かんできた。

 どん、と重い破裂音が夜空に響く。少し離れた場所から開会を告げるアナウンスが夜風に乗って聞こえてきた。
「あ、はじまるみたい」
 濃い藍色の空を見上げるなまえと同じように、上を向くとひゅるるる、と長い光の尾を引きながら花火が上がった。どん、と皮膚の表面を波立たせるような低い音とともにぱっと光の花が咲く。わぁっ、と周りから歓声が上がり、なまえもきれい、とため息をつくように零す。一つ目の花火の後は、次々に打ち上げが続いていく。はじめて間近で見る花火は、今まで見てきたそれよりもいくらか迫力があり、なによりこの肌を撫でていく打ち上げ音がライブ感があって良い。ちらりと横を見ると、なまえの黒い瞳にきらきらと光の粒が反射していて、目を奪われてしまった。

「治、連れてきてくれてありがとう。ほんまは落ち込んでるん分かってたんやんな。昔っから、治はそういうのちゃんと気づいてくれるもん」
 
 打ち上げの合間に夜空を見上げたままのなまえが小さく呟く。肯定するのも否定するのも違う気がして、何も言わずになまえと同じようにただ夜空を見上げていた。
 こうやってなまえが見つめる先にもう侑はいない。なまえはまた、誰かを見つめるようになるんだろうか。侑ではない誰かを、花火を見ていたみたいに、きらきらと輝くような瞳で。

 俺はまたそんななまえを側で見ているんだろうか。