並行飛行

夏休み

  夏休みはその名に反して、全く休めないまま半ばに差し掛かっていた。インターハイへ出場することが決まっているため、3年はもちろん2年のレギュラーも気合が入っていた。
 そんな日々を過ごしていたので、彼女とは終業式以降会えていなかった。毎日ちょこちょことやりとりするメッセージや電話も、流石に夏の暑さと朝から晩までの練習で疲れた身体では寝落ちしてしまうことがほとんどだ。ゆるい文化部だと言う彼女にとってはその名の通り長いだろう夏休みに、どこにも遊びに連れて行ってやれないことに対して申し訳ない気持ちが日々積み重なっていた。
 ようやく与えられた休みの日を目前に、デートする?、と誘ってみた。すぐに送られてきた文面からは、喜びが伝わってくる。どこに連れ出すかと考えていると、向こうから家に行ってもいいかと聞かれた。疲れているだろうから、甘いものを持って行くと言ってくれる彼女の提案を断る理由はなかった。
 「ツム! お前明日は家帰ってくんなよ」
 2段ベッドの上でバレー雑誌を眺めているであろう片割れに忠告すると、ハイハイ、邪魔せん、俺も出かけるし、と軽い返事が返ってきた。侑が本当に出かけるのか一瞬疑ったが、とりあえず彼女にはオッケーとスタンプで返事をした。
 

 二人きりで部屋にいると、やはりそういう雰囲気になるわけで。俺はついさっきまで艶めいた声を押し殺そうと必死に唇を閉ざしていた健気な彼女の髪を撫でながら、リモコンでクーラーの温度を二つ下げた。
 はじめは母がいる予定だったのだが、友人にお茶に誘われたらしくいそいそと出掛けていった。誰もいない静かな家に招き入れた彼女は、二人きりだと知ると一気に挙動不審になった。いつもよりもさらに小さな声で頬を染める様子につい笑ってしまった。
「取って食ったりせんて」
 緊張した彼女を宥めるための言葉だったのに、そこで思わぬ反応が返ってきた。
 
「……なんもしないんですか」
「え」

 熱を持った赤い頬に潤んだ瞳。治先輩、と小さい声で呼ぶ彼女の声に吸い寄せられるように口付ける。しっとりした唇はいつもなら一度触れたら終わりだったが、今日は味わうように何度も繰り返し押し付ける。味なんてしないはずなのに、甘い気がしてくるから不思議だ。最後の確認として、ほんまにええの、と聞く。涙目で頷く彼女の腕がぎゅっと首にしがみついてきた。それに応えるようにゆっくりと押し倒して肌と肌を密着させると、もうその後は男子高校生の欲望のままだった。

 
「……身体へいき?」

 ようやく涼しくなった部屋で、身なりを整えた彼女の髪をさらさらと指先で梳く。指通りの良い柔らかな髪は、俺の指から逃げるように細い肩へ流れていく。女の子は体の隅まで繊細にできている。こんな硝子細工みたいな細っこい身体なのに、俺のんよく入ったな、と人体の不思議をぼんやり考える。
「大丈夫です、先輩優しかったし」
「そぉか」
 照れているのか視線が交わらない彼女の顔を覗き込むように、もう一度キスしようとした時、ギシッと外の廊下が鳴った。ぱっと扉に目をやるとガチャリと回るはずのないドアノブが動いた。

「あれ……治?」
「……なまえ」

 ドアを開けたままの姿勢で、なまえはこちらを見て驚いたように目を瞬かせる。その一拍後には俺と隣にいる彼女から状況を理解したのか、ごめん!と真っ赤な顔で叫ぶように謝るとバタン、と勢いよくドアを閉めた。
 二人とも服を着ていて良かった、と最悪の状況ではなかったかと思いながら、なまえの登場に心臓が変に速くなっていた。焦りのような、後ろめたい気持ちが急激に湧き上がってくる。

「ただいまぁー」

 隣の彼女へのフォローも忘れて固まっていると、間の抜けたよく知る男の声が階下から聞こえてきた。
「あれ、なまえなんで階段で固まっとるん? 部屋入っててええで」
「侑、あの、今はあかんと思う。下の部屋行こう」
「なんで?」
 扉越しに聞こえてくる会話に、焦りが吹き飛んで怒りが湧いてくる。なまえが閉めたドアを今度はこちらから勢いよく開ける。目の前には侑を階下へ押し戻そうとするなまえの姿があった。なまえを避けて、能天気な顔をした侑の前に胸ぐらを掴む。

「おい、クソツム。今日は帰ってくんなって言うたやろ! 脳みそ無いんか?!」
「あ、サムおったんやった」
「昨日の今日でなんで忘れんねん! しかもそれ俺の服や!」
「あぁもう、うっさいなぁ。 出かけるとは言ったけど、帰らんとは言うてへんやろが! なんやねん、帰ってきたらあかん理由でもあるんか」

 堂々と開き直る侑の態度に、今日は絶対泣かす、と拳に力を入れる。
「もう侑! 約束してたなら謝ろうよ、ね? 治、ごめん、邪魔して」
「なんで俺が謝らなあかんねん! つーか邪魔ってなに、部屋に誰かおるん?」
 なまえが間に割り込んで、なんとか仲裁しようしてくるが、目の前の男に一発入れるまで怒りが収まりそうにない。

「あー! 一年の別嬪さんやん! ほんまにサムと付き合ってんのか」
「ほんまにてなんやねん。見んな、ツム!」

 暢気に手を振る侑の肩を掴んで廊下へ押しだす。立ちあがろうとしたのか、中腰の彼女に目だけですまん、と合図して部屋に残したまま一旦ドアを閉める。顔を赤くしたなまえと、好奇心に満ちた目をした侑を前に大きな溜め息を吐く。
「なんで帰ってくんねん、ほんま」
「やってここ俺ん家やし」
「そういう話ちゃうやろが」
 開き直っている侑の足を踏みつけて鬱憤を晴らす。痛い!と騒ぐも蹴り返してこないあたり、少しは謝罪する気があるのだろうか。
 
「……彼女送ってくる」
「えーもう帰んの? 晩飯食ってったらええのに」
「うっさいボケ。今すぐハゲろ」
「なんやねん、機嫌悪ぅ」

 侑にだる絡みされる想像しかできない提案を即座に断り、ちらりとなまえに視線を向ける。こちらを見上げる黒い瞳には、俺がどう映っているのだろうか。
 少し落ち着いたが、それでもなまえに彼女といるところを、しかも明らかに二人して気怠げな状態を見られたことが心を騒がしくさせていた。今更なにを焦っているんだろう。なまえはとうに侑のもので、俺が誰かを隣に置いていようが、なまえは気にするはずもないのに。
 逃げるように視線を逸らして部屋に戻ると、話を聞いていたらしい彼女が鞄を手にして困ったように笑う。
 すまん、という俺の今日何度目かの謝罪にも大丈夫と笑ってくれるその整った横顔を眺めながら、二人で夏の夕方らしいぬるく重たい空気の中を歩いた。
 その身体を隅々まで触ったくせに、俺は彼女のことよりもなまえのことばかり何度も思い返していた。そのせいで、口を開くとまた罪悪感から逃れる為の謝罪を口にしてしまいそうで、結局黙ったままただ歩き続けた。

 駅まで彼女を送り届けてから家に戻ると、なまえの白いサンダルが大きなスニーカーに囲まれるようにしてちょこんとまだ玄関に鎮座していた。賑やかなリビングの声の様子から、どうやら母も帰宅したらしい。夕飯はなまえもここで食べることになっているんだろう。このまま玄関のドアを閉めて出て行きたい、そう思っているとリビングのドアが開いてなまえが顔を出す。

「あ、やっぱり帰ってる」
「あー、うん」
「……おかえり」
「ただいま……て、俺ん家やけど」

 気まずさを誤魔化すようにぎこちなく笑うと、なまえも見慣れた笑顔でくすくすと笑ってくれた。部屋に入るとキッチンで料理に取り掛かっていた母になまえの相手をしておけ、とソファに二人して追いやられた。

「ツムは?」
「テレビ観てたら寝落ちしちゃった」
「そぉか」

 侑のいない状況でなまえと話すのは、二人が付き合ってから初めてだ。どうしてもやましいことをしている気がしてしまうのは、やはり俺がまだなまえのことを想っているからだろうか。

「……治の彼女、はじめて見た」

 料理中の母に遠慮してなのか小さな声で話すなまえになんと返していいのか分からず、曖昧に頷く。

「お人形さんみたいに可愛い子やね」
「そぉやな」
「なにそれ、他人事みたい」

 いつも通りに会話が続いたことに安心したのか、なまえは微笑みと共に一つ大きく息を吐いた。確かに彼女は可愛いけれど、俺からすればなまえだってとても可愛い。それを口に出せない代わりに、じっと見つめておく。片頬に浮かぶ笑窪、長い睫毛の瞬き、少しだけ特別に聞こえるなまえが俺の名を口にする声。

「治」
「んー?」
「彼女大事にしぃや」
「……ん」

 例え、その唇から紡がれる言葉がどれだけ胸を抉るものでも、俺は笑ってみせるしかない。もうそういう関わり方しか、なまえとは出来ないのだ。
 偽りはないはずなのに、そこには本心もなかった。幼馴染という最後の繋がりを切らないようにすることで、精一杯だった。