並行飛行

幼馴染

 俺には幼馴染がいる。同じ町内に住んでいる同い年の女の子。よたよたと歩く幼児の時に出会ってから、高校生の今に至るまで付かず離れずそばにいる。
 おかん同士の仲が良いので、休日に一緒に出掛けることも多かった。お花見、プール、夏祭り、運動会の弁当は二家族一緒に食べた。冬になればスケートやスキーに連れってもらったこともある。そんなわけで宮家にあるたくさんのアルバムに納められた思い出の中の隅々にまで、彼女、みょうじなまえは溶け込んでいた。
 
 そして俺にとっての幼馴染ということは、それはもちろん俺の双子の片割れである侑にとっても彼女は幼馴染なのである。性格に難のある侑のことを、いつの間にか俺よりもうまく懐柔したなまえは、あいつの宥め方や、持ち上げ方をよく分かっている。
 今は喧嘩になるたびに、バレー部の主将である北さんが召喚されるが、中学までその役割は彼女であった。
 
「侑、治! もう、二人とも血出てるやん」
「なまえ、邪魔すんな。向こう行っとけ」
「そんな顔しても怖ないで侑。ほら、保健室行こ」
「行かへん!」
「はいはい。手繋いだげるから行くよ」
「ちょっ! 待ち、そんな恥ずかしいことすんな!」
 おっとりとしたなまえの柔らかな声を聞いていると、いつの間にか喧嘩の熱が冷めていく。胸元までしかない小柄ななまえに手を引かれる侑を見送りながら、ゆっくりと立ち上がる。
 いつからか彼女は侑を優先するようになった気がする。治より手がかかるだけ、と言っていたけどたぶんそれは違う。
「治も後で保健室やからね」
 振り向いた彼女は、呆れたような怒った顔をしながら俺をびしっと指差す。軽く手を挙げて返事をすると、彼女は隣にいる侑を見上げて何か話しては、困ったように目を細めて笑っていた。

 その眼差しが自分に向けられるものとは違うことに気づいていても、理由を問えるほど中学生の俺はもう単純ではなかった。怖かったのだ。確信を得ることが。
 15歳。男女という性の違いを意識する年齢になっていたはずなのに、彼女だけは幼い頃からの距離感のままだった。いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。だから俺は出遅れたのだと思う。
 
 
「サム、俺ら付き合ってん」

 稲荷崎高校に入学して半年が経った頃だった。にんまりと唇に弧を浮かべた侑がその右手に握っている携帯電話の待受画面には、今まで見たことのない女の顔をしたなまえがいた。自分と同じ顔の男に頬を寄せて写る二人の姿に、一瞬言葉が出てこなかった。一拍遅れていつもと同じ声で良かったな、と口に出来たことに我ながら驚く。こちらの動揺など少しも気づいていない侑がぺらぺらと話す告白についての流れを聞いていると、その言葉にどんどん自分の中身が空っぽになっていくような心地がした。

 

「あ、治」
「……なまえ。鼻、赤なっとる」

 体育館の前の植え込みに座っていたなまえは、防寒具を身につけていても露出した顔や骨ばった膝小僧が寒さで赤くなっていた。侑の自主練が終わるのを待っているのであろう彼女の横に座ると、ふわりと懐かしい彼女の香りがした

「お疲れ様」
「ん。ツム、まだかかると思うし、中入っとり」
「でも、なんや急かしてるようで悪いし」
「こんな寒いとこで待たす方が悪いわ。二階席なら部員もおらんし、気楽に待てるで」
 
 手を引こうとして、この子はもう侑の彼女なんだと思い出す。なにも考えずに触れていた今までとは違う。同じ扱いをしてはいけない。まだ渋る様子を見せる彼女の背中をコートの上から軽く押して、出てきたばかりの体育館の入り口を潜らせる。二階席へと続く階段の手前まで付き添ってやった。

「ほら、他にも人もおるし」
「ほんまや。端で見とこうかな」
「おん。今度からちゃんと中入り」
「……治、ありがとう。ほんまはめっちゃ寒くてどないしよか思っててん」
 
 小さく手を振って階段を登っていくなまえの後ろ髪が弾むように揺れる。それについ手を伸ばしたくなった。掴んでるつもりで、はじめから俺のもんではなかったことを痛いほど思い知る。

「治、あがったんじゃなかったの?」
 帰り支度をはじめた角名が、体育館の入り口から訝しげにこちらを見ていた。その声に弾かれたように、なまえが登って行った階段へ背を向ける。
「……おん。忘れもん」
「ふぅん。お疲れ」
 まだコートの中で自主練に励むチームメイトにお疲れさん、と軽く手をあげて急ぎ足で体育館を出る。すれ違い様に角名から向けられたどこか気遣わしげな視線を避けるように下を向く。
 すっかり夕方から夜になった藍色の空気を吸い込むと、後ろから聞こえるスパイクの音に急き立てられるように、一気に校門を抜けた。

 駅へと向かう道を歩きながら、腹の中に溜まった重たい何かに吐きそうになった。部活の後だというのに、食欲が湧かないどころか、むしろ胃の中のものを吐き出したくてたまらなかった。体の中から全て出してしまえたら、なまえとも侑とも何もなかったように出来るのだろうか。
 
「……もったいない」

 立ち止まってえずきそうになる口元を拳でぐっと抑える。俺の中にあるうまかったものまで出ていくのは違う。何もかも飲み下す、それが俺に出来ることだ。昼に食べた母の弁当も、部活前に食べた購買のおにぎりも、全部腹の中を満たしてくれた。なまえと侑との今までの日々は、同じように俺を充していたものだ。それを吐き出して捨てることは、違う。
 ゆっくりと見上げた青みを帯びた夜空には、どうしてか星が一つも見当たらなかった。けれど大きく息を吸い込むと少しだけ気分がマシになった。早く帰ろう。母の作ってくれている晩飯を腹一杯食って、言葉に出来ないこの気持ちも一緒に消化してやろう。そう思うと、自然に足が前に出た。