3rd

シネラリア

 その子は特別な男の子だった。ふわふわとした綿毛のような白い髪に、海にも空にも見える透き通った青い瞳。幼い私の指をきゅっと握り返してくれた細く小さな手は、この先なにを掴むのだろうか。初めて彼に会ったとき、私はそんなことを思ったのだ。


「ただいまぁ」
「おかえりなさいませ、悟さま」

 16才を迎えた彼にとっては、昔ながらの日本家屋の敷居はもうすっかり低いものになってしまっていた。すくすくと平均以上に伸びていった身長を屈めて玄関を潜った五条家の当主は、両手に持った紙袋を差し出す。

「土産。みんなで食べて」
「まぁ、坊っちゃまがこんな気遣いをしてくださるなんて。ばあやが泣いてしまいますね」
「俺のことなんだと思ってんの?」
「わがまま悟ぼっちゃまです」
「はいはい。それと、もう坊っちゃまはやめろって。みんなにも言っといてよ」

 ずしりと重さのある紙袋を二つ受け取って、中身をそっと伺う。大福だろうか、かすかに甘いお米の香りがする。足袋を履いた私の足が滑るように床板を撫でる後ろから、ぺたんぺたんと、大きな足音がついてくる。

「相変わらず、って感じだなー」
「いつでもお迎えできるように整えておりますよ。一先ずお茶をお入れしますね」

   彼が呪術高専に入学し寮生活をおくっている間に、少し模様替えを行ったのだが些細な変化を気にする人ではない。籐の椅子が革張りに変わろうが、白磁の花器が古伊万里になろうが、それは彼の目を楽しませることはないのだろう。ここはそういうところだ。私を含めた使用人たちは、皆悟さまにとってはそこにあるもの。ただそれだけ。五条という家のなかで、何事も嫌と言わず、嫡男であった彼を甘やかし、慈しみ、ただただ可愛がる。

   居間よりも庭先を見渡せる客間の縁側の方がお好きだろう、と予め用意しておいた低座の椅子を勧める。ありがと、と一言声を掛けてくださる悟さまにぱちり、と瞬きを零す。

「……呪術高専で随分とお優しいお心を身につけてこられたのですね」
「改まって指摘すんなよ、恥ずいだろ。同級生になった奴が、なんかやたら丁寧でさ。いちいちうるせーの」

   悟さまの同級生については少しだけ聞いている。一般の家庭の子どもたちだというが、かなり特別な術式を持っているそうだ。今まで彼には与えられなかった同い年の気のおけない友人は、きっとなによりも嬉しかっただろう。良い関係が築かれているようで、こちらまで嬉しい気持ちになる。お茶を煎れる間、二人の友人についてあれこれと話を聞かせてくれる悟さまに相槌を返しながら、その横顔を眺める。午後の柔らかな日の光を弾くように長い睫毛を瞬き、思い出し笑いをして白い頬に笑窪を作る彼の毎日が喜びに満ち溢れていることが窺い知れる。

「それはようございますね」
「だろ? あ、なまえは? なんかないの?」
「私は……、坊っちゃまの無茶なご要望もございませんので、穏やかに過ごせていますよ」
「俺がいつ無茶振りしたって?」
「あら。ご記憶にないようでしたら、五つの頃の可愛らしいおねだりから全てお聞かせしましょうか?」
「やめろ! ちょっと年上だからって調子のんな。つーか、なまえだって友達とか会ったりしてんの?」
「ご心配なく。お休みはきちんといただいておりますよ」

   呪術界は一般的な常識がまかり通る場所ではない。私たち使用人は五条の家に生涯を捧げている。友人といえるものは、きっと私には得ることは出来ないだろう。それを彼に伝えることはしない。きっといつか嫌でも知ることになるのだろう。特別な男の子だった彼の手に降り注ぐものが、幸福だけではないことを私はもう知っているから。


「お茶、入りましたよ。悟さま」
「サンキュー。あ、俺の土産も開けて。一個食べる」
「お出しします」
「てかなまえも食えよ。付き合って」
「ありがとうございます」

 当主となった彼と同席することに少し躊躇したが、顔には出さずに隣の椅子に浅く腰掛ける。悟さまのお土産はやはり大福だった。まだ柔らかな質感のそれは、今朝帰省する前に、手に入れてくれたのだろう。大きな口で咀嚼する悟さまは、打ち粉を唇の端につけていた。

「ふふっ、お口が白くなっておりますよ」
「いーの。なまえしか見てないし」

 茶目っ気を含んだ眼差しを向けられると、どうしようもなく愛おしい気持ちを溢れてくる。

 私たちの可愛い悟さま。一人でなんでも出来てしまう力を持って生まれた、現代最強の術師。私は彼の側に同じ目線で寄り添うことは出来ない。だからただただ願うのだ。彼のことを抱きしめてくれる人が現れますように、悲しみや苦しみが訪れる日にはキスを降らせてくれる人がいますように。

 どうか彼の歩む道に多くの喜びが満ち溢れていますように。

 
花言葉 よろこび
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