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甘い匂いに誘われて



 お弁当を食べ終え、満腹になった幸福感に包まれると、次は眠たくなってくる。昼休みが終わるまでいつものように一眠りするかと自身の腕を枕にし、顔を埋める。少し硬いが、クラスメイトの立てる騒めきが徐々に遠ざかってゆき、心地よく微睡みに沈んでゆく。
 うつらうつらと浅い眠りに浸っていると、ふわりと香る甘い匂いに包まれる。香水やシャンプーとは違う、花の蜜のようなそれはすぐ近くにあるようだ。何か分からないがとても良い匂いだ、もっと近づきたい、と半ば無意識で香りの強い方へと手が伸びていた。

「ひゃっ!」

 治の手が何かを掴んだ瞬間、驚いたような悲鳴が上がる。ぱちり、と覚醒した頭で顔を上げると前の席の女子生徒がこちらを振り返っていた。彼女の背中にかかる髪を掴むように握り込まれていた己の手を慌てて解く。

「すまん。寝ぼけとった」
「ううん、びっくりしただけ。よく寝てたね、治くん」

 先週行われた席替え以来、治の前に座る彼女はクラスでも大人しい方で、これまであまり話したことはなかったのだが、近くで見るとなかなか可愛らしい顔立ちをしている。肌が白く、餅のようにつるりとした頬が治は特に良いと思っている。
 ぐぐ、と固まっていた体を伸ばしながら、夢の中で漂っていた香りのことを思い出す。甘い蜜の香り、なんだったのだろうか。植物のような、瑞々しささえ感じたような気がする。

「あー、なんや寝たからまた腹減った気がする」
「…お菓子食べる?」
「食う!」
 ねだったわけではないのだが、魅力的な言葉に食い気味に返事をしてしまった。背中を丸めて鞄の中に手を伸ばす彼女を期待に満ちた目で前のめりに見つめる。振り向いた彼女の手には、チョコチップのクッキーが乗せられていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとぉ」
 
 自分では量の問題で買わないが、洋菓子も好きだ。バターとチョコの濃厚な味わいは、昼食を食べもまだあまりまる治の胃袋の隙間を満たしていく。焼き菓子特有の甘い香りを楽しみながら、先ほどの夢うつつで嗅いだ香りを思い出した。このお菓子の香りだったのだろうか、いやもっと違う種類だったような気がする。まぁ、夢か現か曖昧なのだから考えても仕方がないかと治は半分の大きさになったクッキーを大きな口で飲み込んだ。
 
「…治くん、お昼食べた後やのにいい食べっぷりやね」
「え、あと10枚は余裕やで」
「えぇ…そんなん女子の憧れやで。こんなカロリー高いの食べても太らへんねんなぁ」
「まぁ今はバレーやっとぉからなぁ。すーぐ腹減るんよ」
「そうやね、バレー部の練習きついて聞くもん。あ、もうすぐ大会あるんやんな。頑張ってな…ってなんかバレーのことよく知らないのに軽い応援してごめん」
「ははっ、ええで、全然。なんや真面目やなぁ」

 謝られたが、嫌な気はしない。むしろちゃんと応援してもらってる感じがして少しこそばゆくなる。ふっくらとした頬に笑窪を浮かべて笑う彼女につられるように治も笑うと、彼女の白い頬が薄らと赤くなってゆく。照れたように視線を逸らす様子は、高校入学以来それなりにもてはやされてきた治にとっては見慣れたもののはずなのに、どこか違って見える。

「…また、なんか余ってたらちょーだい」
 
 指についた甘いかけらを舐め取りながらそう言えば、彼女はさらに顔を赤くして頷いた。

 それから治がねだると、彼女はいつもお菓子をくれた。飴だったり、チョコだったり、たった一口のはずなのに甘いものを口に含むと満たされる心地がした。休み時間に話すことが多くなり、それに比例するよう2人の関係を勘繰る視線が増えていった。治にとっては外野の視線も言葉もどうでも良かったが、彼女にとってはそうではないようで、ここのところ時折少し硬い表情を見せていた。こういう風に困らせるのは本意では無いので、どうしたものかと原因と思われる女子の集団へと視線を投げる。

「面倒やなぁ」
「ん?」
 横向きに座った彼女が、小さく呟いた治の言葉に首を傾げる。揺れた髪から香る甘い匂いに惹かれるように少し身体を前に倒す。近づいた距離に比例して白い頬が赤くなる様子に、治のざらついていた気分がフラットに戻る。
「んー、見せつけよかなって話」
「どういうこと?」
 理解していない彼女の頬に手を伸ばすと、周りからの視線が一気に集まったのが分かる。そのまますり、と餅のようだと常々思っていた白い皮膚を撫でる。想像よりも遥かに柔らかく温い人肌は指先で愛でるのも良いが、かぷりと齧りたくなるような衝動が芽生える。人がいなかったら、味見したいくらいだ。

「真っ赤」

 治の指摘に更に頬を染めた彼女は、大きな黒目を所在無さ気に彷徨わせる。可愛い、そう思うと同時にもっと凶暴な感情が治の身体に宿る。
「今日、部活終わるん待っててくれん?」
 泣きそうな顔でこちらを見る彼女は、微かに頷いてくれた。
「ん。一緒に帰ろ」
 
 満足してふにり、と柔らかな頬をつまんでから手を離した治と彼女の一連の一挙手一投足に、尾ひれが長くついた噂話が稲荷崎高校を駆け巡っていくことだろう。放課後には、二人で帰る姿を見ても誰も何も言わないはずだ。
 赤い頬を必死で冷やそうと小さな指先を押し当てる彼女からは、やはり甘い香りがする。微睡を吹き飛ばすほどの、瑞々しくも甘美なそれは間違いなく彼女の香りだ。一緒にいるとより強く感じるようになったそれに、またも空腹感に似た渇きを感じる。はっきりと分かるようになったその渇きが、食欲に似てはいるもののそれ以外の欲望であると、今の治には理解できた。

「ほんま自分ええ匂いするなぁ」
「えっなんか匂いする?」
「んー、なんやろなぁ」

 困惑したように自分の手首やシャツを嗅ぐ彼女をにこやかに眺めながら、治は身のうちに芽生えた凶暴な欲に支配されないようにぺろりと唇を舐める。本能的に惹かれる相手からは良い匂いがするらしい、というあれは恐らく本当なのだろう。はやくその味を確かめたい。それはきっとなによりも甘く、治を充してくれるだろうから。
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