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フェイクファンシー



 初めて彼の名を見た時はなんと読むのか分からなかった。黒板に並んだ真新しいクラスメイトの氏名の中で、佐久早聖臣という字面からはなんとなく正方形が並んだイメージが浮かんだ。なんと読むのだろう、とぼんやりと見つめていると、教室の扉からぬっと入ってきた背の高い黒い影が視界を遮った。
 花粉症なのだろうか、白いマスクを付けた彼は、緩やかなウェーブの黒髪から覗く気怠げな目で黒板を見た後に教室を見渡した。大きなリュックも彼が背負うと小さく見えるな、と観察しているとガタンと前の椅子に手がかかる。座る前に一瞬目が合う。目つきが良いとは言い難いものの、整った顔立ちの彼は控えめにぺこりとお辞儀をしてくれた。慌てて同じように頭を下げる。顔を上げるともう彼は前を向いてしまっていた。この大きな人が佐久早くんだ。
 その名の読み方が分かったことにすっきりしていたのはたぶん私だけで、佐久早くんは強豪バレー部に入部すると自己紹介したことによりホームルームに小さなどよめきを起こしていた。

 上半身を捻るようにして佐久早くんから回されるプリントを受け取る時に、彼の大きな手が目についた。長い指と手の甲に浮かんだ筋が男性的で、どきりとする。特に今まで手が好きだとか、そういった嗜好はなかったと思う。けれど彼の手は美しいなと思う。それからこっそりと、プリントを受け取る時やシャーペンを持った時の佐久早くんの手を見つめる趣味ができてしまった。

 新しいクラスにもようやく馴染んできた頃、テストと言う厄介なものがやってくる。毎日予習復習していればなんて事はないのだろうが、高校生活は思ったよりも誘惑が多く、新しく出来た友人たちと親交を深めることに勤しんでしまったので、しっかりと勉強しなくてはいけない。
 一番仲が良く、そして頭も良い友人と放課後の教室で自習勉強をすることにしたのだが、小難しい数式を前に解答と睨めっこすることに疲れ果てたので一旦休憩を入れることになった。部活動が盛んということもあり、テストが近いとはいえ教室に残っているのは私たち2人しかおらず静かなものだ。

「青春してるねぇ」
「ほんとだねぇ。帰宅部の我々とは違うね」

 グランドから野球部かサッカー部の声が聞こえてくるのを聞きながら、ポッキーをかりかりと齧る。きっと彼らには帰宅部の私たちには眩しいくらいの青春を過ごしているのだろう、と窓越しに青空を見上げる。

「青春といえば、気になる人とか出来た?」
「えぇぇまだ数ヶ月じゃん…そういうそっちはどうなの?」
 友人は待ってましたとばかりに顔を緩ませる。
「んふふ、実はね隣のクラスの子に連絡先教えてって言われちゃったんだー」
 すごい、もう彼女はそういう相手を見つけているのか。にこにこと彼のことを話す様子から、きっともう2人が付き合うのは時間の問題なのだろうと察しがつく。

「ねぇー本当にいないの?ちょっとでもいいなって人」
 自分が幸せだと、人は他人にも幸せでいて欲しくなるのか、彼女は私の意中の人を聞き出そうとする。残念ながら本当に彼女のよう明確な好意を持った相手が思い浮かばずに、うーん、と頭を捻る。イケメンと言われる同級生や、運動部の有名な先輩を思い浮かべるも好きとは違う気がする。その時、佐久早くんの男らしい大きな手を思い出した。
「あ、佐久早くんの手がいいなとは思う」
 たぶん、佐久早くんの手の話を人にしたのは初めてだ。口にすると少し恥ずかしくなってきて、誤魔化すように髪を触る。
「さくさぁ!? あんなん潔癖の気難しい男じゃん」
 予想外だったらしい友人から大きめの声が上がる。廊下まで聞こえてしまいそうな音量に慌ててしーっと口元に指を立てる。こんな噂話というか、彼女の口から出た半分以上悪口みたいな言葉が回り回って本人に聞かれたら大変だ。
「ごめんごめん。まぁ、顔は確かにアンニュイなイケメンか。背も高いしねぇ……」
「お顔も普通に整ってるけど、そうじゃなくて。なんか、手がね。すっとしてるけど骨っぽくて、つい見ちゃうの」
「手フェチ?」
「そんなことないと思ってたけど、そうなのかもしれない」
「でも佐久早って潔癖でしょ? そういうのはいいの?」
「だーかーら、私はただ、」

 手が好きなだけ、と続けようとしたところで扉がガラリと開く。見慣れないスポーツウェアに身を包んだ長身の男の子が、頭上を気にしながら教室に入ってきた。佐久早くんだ。話題にしていた本人の登場に、2人して凝視してしまった。

「……なに?」

 低い声が空気を揺らす。短い言葉ではあったが、そこには嫌悪感や不満はないように思えた。
「さ、佐久早くんどうしたの?」
 席が前後というだけではあるが、向かいでにやついている友人よりは佐久早くんと話したことがある私が声をかける。それに彼女に口を開かせたら何をいうか分かったものではない。
「明日の課題、忘れたから。休憩時間に取りに来た」
「あぁ、朝一で提出しないといけないもんね」
「そう……そっちは?」
「私たちは、テストに向けて勉強中だったんだけど…おしゃべりしてたとこ」
「ふぅん」

 目当てのファイルがあったようで、佐久早くんは机を覗き込んでいた姿勢からゆっくりと背を伸ばす。いつもは制服の下に隠されている筋肉質な身体をつい見てしまう。女子のように白い肌だけど、すらりとしながらも硬い筋肉をまとった腕や足はどうみても男の人のそれだ。
「じゃあ俺もう戻るから。また明日」
「あ、うん。ばいばい」
 見過ぎだかもしれないと取り繕うように返事をしてつい友達にするように小さく手を振ってしまった。そこまで親しくないのに、変な奴だと思われていそうだ。佐久早くんは一瞬不自然に動きを止めた後、意外にも同じようにひらりとあの大きな手を振ってくれた。

 ぴしゃりと扉が閉まったことで、緊張が解ける。ほっとして息を吐くと、向かいの友人が猫のように目を細めてにやついている。
「青春、してんじゃん」
「違うって。もぉー本当にご本人登場でびっくりしちゃったよ。聞こえてなくて本当に良かった」

 休憩を終わりにして再開したテスト勉強は日が沈む頃に切り上げることにした。いつもと違う人気の少ない校舎を出ると、まだグランドからは運動部の掛け声が聞こえてきた。体育館の側を通ると、バン、とボールが跳ねる音やシューズのスキール音とともに佐久早くんの後ろ姿が見えた。肩口で汗を拭う姿は、まるで知らない人のようだ。隣を歩く友人に気付かれる前に通り過ぎよう、と彼女の話に相槌をうちながら少しだけ歩く速度を上げる。誰かに見られているような視線を感じたけれど、立ち止まらずに校門まで行くと、もう辺りはすっかり夕闇が立ち込めていた。

 
その日から、少しだけ佐久早くんと話す機会が増えたような気がする。といっても、佐久早くんは基本的に物静かなので本当に一言二言、授業の合間に雑談する程度だ。もしかしたらあの時手を振ったことで、少し仲良くなれたのかもしれない。
 
 休み時間にトイレから戻るとクラスメイトがほとんどいなくなっていた。なんだっけ、ときょろきょろしていると佐久早くんが自分の机に腰掛けていた。
「おい。次、移動教室」
「そうだった!ありがとう佐久早くん」
 慌てて教科書やよノートを準備している間も、佐久早くんは前の席に腰掛けたままこちらを見下ろしている。筆箱を持って顔を上げると、佐久早くんも立ち上がる。これは、待っていてくれたのだろうか。
「なに。行かないの」
「い、行きます」

 足が長い佐久早くんの一歩が大きいので、早足でついていく。ふと佐久早くんが立ち止まり、こちらを振り向く。癖のある髪の間から、特徴的な二つの黒子がのぞいてるのをつい見てしまう。
「悪い。そんなに走らせてると思わなかった」
「佐久早くんリーチ長いからね」
「…気をつける」
 佐久早くんは律儀な人だ。彼には彼の歩幅があるのだから、無理をせずとも良いのに。ありがとう、とお礼を言って先ほどよりも緩やかになったスピードに合わせて足を運ぶ。佐久早くんの後ろに続いて教室に入ると、その様子を見ていた友人から意味ありげな視線を送られたが気付かないふりをして席についた。


 そうして佐久早くんと顔見知り程度に少しは仲良くなれたかな、という頃に席替えがあった。私は窓側の一番前、佐久早くんは廊下側の後ろ方の席と、対角線を描くように離れることになった。これであの美しい手もしばらく見れないだろう。
 机の中身を空っぽにして席を移動することになるのだが、佐久早くんは誰かの使った机が嫌なようでそそくさと除菌の準備をしていた。彼の潔癖は皆の知るところなので、除菌作業に勤しむ彼のことを生暖かく見守るクラスメイトに混じってそっと後ろを振り返る。あんなに近かった背中がずいぶん離れてしまったなと改めて距離を感じていると、隣の席の男子生徒に声をかけられる。
「しばらくよろしく」
「あ、うん。よろしく」
 人好きのする気さくな笑顔を浮かべた彼につられて笑みを浮かべる。良かった、新しい席も前だけど居心地良さそうだと安心して教科書を新しい机に収納していく。見える景色が変わったこともあり、その日は教室中が少し浮き足だったような雰囲気だった。
 
 新しい席になって1週間ほど経った頃、英語の授業でペアワークがあった。隣の席同士で、現在完了形の会話を繰り返すものだ。初日に声をかけてくれた彼は、授業であっても真面目に取り組んでくれる。二人でアメリカに行ったことはありますか、と聞き合っているとチャイムが鳴る。教師の号令に合わせて礼をした後、そのまま隣の彼にお礼を言う。
「俺、アメリカ本当に行ったことあるよ」
「そうなの? いいなぁ、どこに行ったの?」
「ニューヨーク。父親が向こうで仕事しててさ」
 行ったことのない異国の話は興味深く、ついつい休み時間をそのまま彼と話し込んでしまった。話し上手で明るい彼はけっこうモテるらしいと女子の間でそこそこ人気だったことを思い出し、納得だなと思う。彼のように明るい人を嫌う人は少ないだろう。委員長とかやればクラスを上手くまとめてくれるだろうと容易に想像がついた。
 そんな彼と毎日ちょっとしたことを話すようになると、気のせいか後ろから刺さるような視線を感じる。振り返ると、真っ黒な瞳がこちらを見ている。佐久早くんだ。以前は自分が彼の背中や手を盗み見る側だったのに、席の位置が完全に入れ替わってしまうと、どうも落ち着かない気分になる。じとりとした視線は、口数の少ない彼よりも雄弁だ。ちくちく刺すような視線から逃げるように前を向く。もう気のせいではない背中の違和感に、振り向いたら負けだと言い聞かせて、毎日を過ごすようになった。

「ごめん、今日彼氏と帰ってもいい?」

 友人が申し訳なさそうに、けれど同時に隠しきれない幸せを撒き散らしながら両手を合わす。もちろん、と隣のクラスに走っていく彼女を見送って自分も帰ろうと鞄に教科書を詰めていく。一部始終を隣の席から見ていたらしい彼が同じように帰る用意をしながら話しかけてきた。
「今日は一人で帰るの?」
「あー、うん。あの子彼氏できたから」
「そっか。俺も今日一人だし、駅まで一緒に帰る?」
 普段通りの彼の声だったが、少し日に焼けた健康そうな頬がいつもより赤い。あ、これはそういうことかもしれない、と気付いてしまうとなんと返すべきなのか分からなくなる。嫌ではないけど、彼のこと好きでもないのに期待させるようなことしちゃダメだよね、でも自意識過剰なだけで彼は単純に一人で寂しそうだから声かけてくれたのかも……などともんもんとしていると、突然ぬっと二人の間に影が差す。驚いてそちらを見上げると、眉間にいつもよりも深い皺を作った佐久早くんだった。マスクの下の表情は分からないけれど、にこやかであるはずがない。突然の第三者の登場に呆気に取られている彼を押しのけるようにして、佐久早くんがくん、と制服の袖を引く。

「帰るよ」

 まるで約束していたかのような佐久早くんの口ぶりに、ぱちぱちと瞬きを繰り返していると隣の席の彼が口早にそういう感じなんだ、ごめんな、と私と佐久早くんに謝ると足早に教室を出て行った。彼に誤解されていることが気になってその背中を目で追っていると、背を屈めた佐久早くんが視界を遮る。

「……なに見てんの」
「え、あ、誤解しただろうなって…」
 私の答えが気に食わなかったのか佐久早くんは苛つきを隠そうともせずに溜息を吐く。
「一緒に帰りたかったわけ」
「そうじゃないけど」
「じゃあもういいだろ。行くぞ」
「さ、佐久早くん、部活は?」
「設備点検で休み」
 強豪といえど休みの日もあるのか、なんて考えていると佐久早くんは教室から出るとついて来ていない私を見咎めるように振り返る。急いで帰り支度を終えた鞄を肩にかけて彼の元に駆け寄ると、ようやく佐久早くんの纏う不機嫌なオーラが和らいだ気がする。

「本当に一緒に帰るの?」
「そのつもりだけど」
 この前の経験からか、佐久早くんは私のペースに合わせて歩いてくれているようだ。なんで一緒に帰るんだろう、困ってるように見えたから助けてくれた感じなのかな、と佐久早くんを見上げるも表情の乏しい彼の横顔からは何も読み取れない。静かに隣を歩く彼の考えがよく分からなくて、頭に疑問符を浮かべながら下駄箱からローファーを取り出す。地面に置いた革のそれに足を入れていると、隣にものすごく大きなローファーが置かれた。佐久早くん足のサイズいくつなんだろうか、巨人だもんな、とまじまじとその靴を見てしまう。
「……俺と一緒に帰るの嫌なの?」
「へっ! ううん、そうじゃないけどなんか今日は色々あってびっくりしすぎてて…」
 ぼうっとしているとまた佐久早くんが不機嫌になってしまいそうで、取り繕うようにへらりと笑みを浮かべる。

「……あのさ、他のやつに誘われからって、ふらふらしないで欲しい」
 佐久早くんはローファーを履き終え、私の前に直立したま険しい顔でそんなことを言う。ふらふらしてるように見えたのか、けれどそもそも私はどうして怒られてるんだっけ。私たちは席の近いクラスメイトだっただけなのに。疑問がそのまま顔に出ていたのだろう、佐久早くんが除菌したくてたまらない時のようにイライラした顔をしている。
「あの、佐久早くん、」
「だからさ、お前が好きなのは俺だろ」

 言葉の意味を理解すると、身体中が発熱したように熱くなる。やっぱりあの日、佐久早くんは私の話を聞いていたんだ。大事なところが抜け落ちたまま。私は佐久早くんの手が好きなのだ、嫌いじゃないけど付き合って欲しいとかそういうのとはまた別なのだ。真っ赤な顔で口を閉じたり開いたりしていると、佐久早くんは不可解な顔をしたものの話はついたとばかりに校舎の外へとさっさと行ってしまう。
 あぁ誤解だ、今日は誤解ばっかりだ。どうやって訂正しようかと悩んでいると、佐久早くんが教室でしたように早く来いとこちらを振り返る。柔らかな午後の陽射しの下で、黒い瞳を鬱陶しそうに細めた佐久早くんが、私を待っている。

「ねぇ、はやく」

 誰にも興味がなさそうな、あの佐久早くんと一緒に帰るのか。はやくしろと靴の先を小刻みに揺らす彼は、私が好意を持っていたとしてそれが嫌ではないらしい。むしろ、受け入れているようだ。教室で向けられていた背中に刺さるような視線の理由がやっと分かった。

「佐久早くんて、私のこと好きなんだね」
 言われた言葉を同じようにして返すと、佐久早くんは眉を寄せて何を言ってるんだという顔をする。
「そっちが俺を好きなんでしょ」
 だからそれは誤解なんでけどなぁと思ったけれど、隣を歩く佐久早くんがいつもより少しだけ機嫌が良さそうなのでまぁそういことでもいいような気になってしまった。
 
return