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湯上がりラプソディー



 合宿所の廊下でばったり鉢合わせた北は、なまえと同じく風呂上がりの風体だった。熱めのお湯で温もったのだろう、男の割には色の白い頬が、うっすらと薄紅色に染まっている。練習中や試合中に息が上がっている時とはまた違うその火照りが妙に色っぽく見え、なまえは言葉に詰まってしまった。

「みょうじ、風呂あがったんか」
「うん、き、北も今あがりなんや」

 動揺を隠すように意味もなくへらりと笑みを浮かべてみるも、じっとこちらを見下ろす北の澄んだ瞳には何もかも筒抜けているのではないかと思う。
 お風呂上がりの同級生に遭遇することなど普段の学校生活なら絶対にないシチュエーションだ。強豪である男子バレー部の合宿中でなければ、きっと北のこの妙に艶っぽい姿など見ることもなかったのだろう。思い起こせば去年も何度か泊まりの合宿はあったが、夕食やお風呂の後は先輩マネージャーといつもよりたくさん喋っていたことしか覚えていない。そもそも北をはじめバレー部員が体育館でユニフォームに着替える場面など日常茶飯事である。彼らのの鍛えられた上半身や時にはパンイチ姿も見慣れてしまった。それなのに、どうしてこんなにも北の姿に動揺してしまっているのだろう。

「……髪、まだ濡れとるで」
「あ、うん。こういうとこのドライヤーってなんかちょっと弱くて…でも結構長いことやってんで? けどもう暑なってきて、ええかなって」
「分からんでもないけど、ちゃんと乾かした方がええよ」
「そうやんなぁ」

 マネージャーと部員。なまえと北の関係はそれ以上でも以下でもない。同級生ということもあり、気楽に話はするがクラスが違うので部活以外の北を知らない。仲が悪いことはないが、なんでも話せるかというとそうではない。尾白の方がなまえのプライベートをよく知っているくらいだろう。何事もきっちりする北のことを尊敬しているが、一歩引いているのも事実だ。

「……みょうじ」
「ん?」
「髪ちゃんと乾かしてき」

 北の瞳は人よりも色素が薄く、虹彩や瞳孔がはっきりと浮かんでいる。山奥の湖みたいに神聖ななにかを宿している気がして、真っ直ぐ見つめられると謎の圧がかかるのだ。面倒、という言い訳は許してもらえるわけもなく、なまえは、はいと短い返事をして先程出て来たばかりの女湯の扉へと足早に向かった。

 確かに頭が冷たくなって来たから、乾かすかのが正解だろう。ズボラなところを指摘され、北にはだらしないと思われたことだろうと胸がずんと重くなった。
 ブォーンと低音の唸りをあげるドライヤーを片手に、暗い気持ちで乾かしているとドアの外が騒がしくなっていた。きっと2年のレギュラー陣がお風呂から上がって来たのだろう。彼らの賑やかな声音はドライヤーの音に負けずに響いていた。あー……これはきっと北にピシャリと怒られるぞ、という予感を裏付けるように、急に外のざわめきがしんと静まり返った。その後にぞろぞろと歩く足音が続き、いつも通りの光景が頭に浮かび暗い気持ちも忘れてくすりと笑ってしまった。

 鏡の中に映る自分はいつもより念入りにブローしたおかげか、艶々とした輪っかが浮かんでいた。完全に乾ききってするりとした指通りになった髪を、両手で撫ぜると満足感が湧き上がる。
 今度こそ部屋に戻ろうと外に出ると、壁際に北の姿があった。

「北?」

 もしかして、待っていてくれたのだろうか。軽い驚きがそのまま声音に乗ってしまい、いつもより大きな声を出してしまった。窓の外に向けられた視線がふい、とこちらに向く。北の元へと足早に駆け寄ると、もう彼の頬はいつも通りの陶器のような白さを取り戻していた。あの見惚れるような色気は鳴りを潜め、怜悧な眼差しは隅々まで検分するようになまえの髪へと注がれている。

「うん。ちゃんと乾いたな」

 まるで小さい子を褒めるような北の言い方に、むず痒い感覚に陥る。

「うん」
「みょうじは髪綺麗なんやから、面倒くさがったらあかん」

 自分自身も綺麗にまとまったと自画自賛していたが、こうも正面から異性に褒められるのとは訳が違う。北の視線を遮るように、意味もなく指先で軽く髪を梳く。この人はこういう時でもバレーをしている時と変わらず真っ直ぐなのだと知ると、顔に熱が集まっていく。あぁ、きっと頬が赤くなっているだろう、上せたように見えるだろうか、とどうにかこの熱を誤魔化すべく片手で顔に風を送る。

「そういえば、2年のみんなももうお風呂上がったんだね」
「聞こえとったか。相変わらずどこでも騒がしい奴らや」
「うん、いつも元気有り余ってる」
「腹へった言うて夕食前にコンビニ行くて出てったわ」

 あれだけ練習で動いたらむしろ疲れすぎて食欲減退しそうなのに、と男の子ってすごいなと改めて思う。北からコンビニの話を聞いたせいか、なまえも冷たい飲み物が欲しくなってきた。

「コンビニ、私も行こうかな」
「え」

 窓際から一歩離れるようにして足を動かすと、隣に立つ北が遮るように前に立つ。

「ん?北も行く?」
「……あかん」
「へ?」
「やめとき。ジュースやったら入口の自販機で買うたる」
「んん??北?」

 行くで、とさり気無く手首を引かれて階段の方へと北に連れられる。握られた手首には北の掌が触れているはずなのに、自分の体温の方が高く彼の温度は感じられないくらいだ。頭の中にはまだ疑問符がたくさん浮かんでいて、どうしてこうなっているのか理解が追いつかない。無駄なことや、不合理なことはしないはずの北が、どうしたのだろう。私をコンビニに行かせたくない理由ってなんだろう、と考えるもそれらしい答えは思い浮かばない。

「なんで、あかんの?別に自販機でもいいけど……」

 チャリ、と小銭を自販機に投入する北の横顔を見上げて恐る恐る聞いてみる。じい、っと効果音がつきそうな目つきで見つめられるも、北は答えてくれる気はないようだ。水面のような北の目を見つめ続けることはできなくて、結局こちらが視線を逸らしてしまった。

「どれがええの」
「えっと、じゃあカルピス」

 がこん、と取り出し口に落ちてきた白い缶を少し屈んで手に取った北は、何も言わずにこちらに差し出した。お礼を言って受け取ろうと手を差し出すも、その冷たさが指先に触れることはない。おかしい、なんか今日の北は変だ。どうしたのかと顔を上げると珍しく困ったような表情で佇む北と目が合う。

「北?」
「……嫌やってん。みょうじの風呂上がりの格好、あいつらに見られんの。濡れた髪も、赤なった顔も、なんや女の子らしいてな。堪忍」

 その言葉の意味を理解する前に、手のひらに冷たい感触が伝わって思考が中断される。

「ちゃんといつものみょうじに戻ってから食堂来るんやで」

 くるりと背を向けた北は、何事もなかったかのように廊下を進んでいく。どうして、という疑問は解消されたものの、今度は北の言葉で動けなくなってしまった。その背中を追いかけて、もっとちゃんとした言葉を言って欲しいと縋りたいような、とにかく一人になって叫びたいような、相反する感情で心臓が不整脈を起こしている。

「いつもの、って、どんな顔して会えばいいの……」

 上がり続ける頬の熱を冷まそうと、カルピスの缶を頬に当てる。きんとした冷たさが心地良いのに、その冷たさにも北を思い出してしまい更に体温が上がってしまった。いつもの自分に戻るなんて無理なような気がして、呻く様に小さく息を吐いた。


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