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黄昏に沈む終着駅



「おかえり……」

なさい、と続くはずだった言葉は、音にはならず短い呼吸とともに、肺の中に舞い戻ってきた。
鍵を回す音がして、傑が帰ってきたのだろう、と寝ぼけ眼で向かった玄関に立っていたのは、記憶よりも歳を重ねた友人だった。あの頃から変わらない白い髪に、あの頃と変わらない長い手足とやたらと高い背を少しまるめて、あの頃はしていなかった目隠しを人差し指で首元まで摺下げた。

「久しぶり、名前。なんか色っぽくなったね」
「さとる…」
「上がるよ。なにかあったかい飲み物がほしいな。できれば甘くして」

うまく回らない舌で、懐かしい名を呟く。悟は高専時代と同じくよく回る口で、あの頃よりも少し丸くなった口調で軽薄に話す。大きな足に見合った大きな革靴を踵をすり合わせるように脱ぐと、自分の家のように私のそばを横切ってリビングへと足を進める。数秒遅れてその背中を追いかけて、リビングの扉を潜ると、悟はカウンターキッチンの前でこちらを振り返る。

「綺麗な家。名前ってこういうのがすきなんだ」
「あ、うん。そうかも」

キッチンに入って、ホーローのポットを火にかける。カタカタと金属音を立てるので、なんだろうと思えば取手を握る自分の右手が震えていた。


五条悟がこの家にやってきた意味を、私は分かっている。
だけど、どうしてもそれを自分からは言葉にできなくて、悟のペースでこんな茶番のような会話をしているんだ。おかしな状況に脳がついていっていないのだろう、私はガスの青い炎を見ながら一人笑ってしまいそうになる。

「……紅茶でいい?」
「うん、悪いね」

ふつふつと沸騰する音が聞こえてきたので、火を止めてポットにティーバッグを放り込むとカップを探す。傑と二人で過ごした月日が長いので、この家のカップは自分のものか傑のものしかない。自分のものだったカップに砂糖を5、6個放り込み、傑のものだったカップには何も入れず、赤く色づいた紅茶を注ぐ。ダイニングのテーブルに勝手に座っていた悟は、カップを受け取るとありがとう、と微笑んだ。

悟の向かいに座って両手でカップを持つが、熱いのかどうかもよくわからなかった。飲む気にもなれず、悟が紅茶を飲む様子をじっと見つめる。六眼の青い空色の瞳は、夜の家の中でさえも鮮やかに光って見えて、いつも私を見つめていた傑の夜空のような瞳とは全然違う。私の夜の色。


「ねぇ、悟。私どこで間違えたんだろう…。大事にしたかったの、世界で一番、大事なのに」

気付いたらはらはらと涙の粒がテーブルに落ちていた。自分が泣いていることをどこか他人事のように感じながら目を閉じる。大きく息を吸っても、涙は止まる気配がなく、壊れた蛇口のように流れ続ける。

「どうだろうね。でも何度やり直しても俺も、あいつも、名前も、みんな同じ選択をするんじゃないかな」
「そうかな、でもそれじゃあ救いようがないよ」
「そうだね。救い方もわからないから、殺すことしかできなかった。俺を恨んでいいよ、名前」

 悟はそう言って、また一口紅茶を飲む。彼の指は震えていなかったし、私と違って泣いてなかったけれど、ひどく疲弊していることはよく分かった。傑にとって悟が唯一の友だったように、悟にとっても傑は掛け替えのない友だったのだから。それをそばで見ていた私が、悟を責められるはずがないのに。


「私がすればよかったことを、出来ないことを、代わりにやってくれたんだよ」
「名前は傑のこと愛してるんだ。そりゃ出来ないでしょ。恋人だろ」
「でも、悟は自分の恋人でも、こんなことになったら、ううん、なる前に恋人を殺してでも止めてるよ」
「…俺は五条悟だからね。でも名前はいい呪術師だったけど、傑には勝てないだろ」

現実的に出来ないよ、と言い切った悟は徐ろにこちらに手を伸ばすと、カップを握ったままの私の手の甲に大きな手を重ねる。傑の掌とは違う、とよく知る彼の硬い手を思い出して、もう二度と触れられないことが堪らなくさせる。心の中の一番柔らかいところに大きな針をゆっくり押し込まれるような痛みに眉を寄せた。悟はそんな顔を寂しそうに笑って見つめてくるから、余計に痛みが増していく。

「悟、離して。触って欲しくない」
「名前、ここを出よう。明日には高専関係者の手が入る。硝子は自由がきかないから、しばらく俺のとこに来てよ」
「嫌、無理」

腕を引こうとして、手の中にある傑のカップがカタンと揺れる。中の紅茶がちゃぷ、と揺れる様子に二人で動きを止めた。なんとなく、その様子が滑稽な私の現状と重なって見えた。大事にしたいと両手で包んでいるのに、中身はどんどん溢れていく。そして、いつの間にか無くなってしまったのだ。

「なぁ、名前まで死ぬな。俺は友人を一度に二人も失いたくないよ」

悟が深いため息を吐く。疲れた彼の顔に浮かぶ、くすんだ隈や窪んだ瞼がその疲労を伝えてくる。自分も相当酷い顔だろうと、彼の六眼にぼんやりと像を結ぶ自身の顔を見る。

「傑のそばに行かせてほしい。彼は寂しがりやだから」

ずっと考えていたことを口にする。
傑と私に用意された未来は二つしかない。二人で生きるか、二人とも死ぬか、だ。傑のやろうとしたことが成功すれば、私は多くの屍の上で変わらず傑の隣で生きていた。失敗すれば彼は死に、きっとこんなふうに誰かが来るのだと知っていた。その時が来れば、私は自ら命を断つほかないのだと、分かっていた。

自然と私の顔に浮かんだ、諦観の笑みを悟はものすごく怒った顔で睨み付ける。

「名前のことが大事だってこと、、俺にとっても、お前が大事なやつだってことが分かんないの?お前も、傑も大事に決まってんだろ。お前ら二人で生きて来たわけじゃないだろ」

昔の、よく知る悟の口調で怒鳴るように言われても、もうどうしようもなくて、ただただゆるく首を振ることしかできなかった。

「……名前のこと頼むって、傑に言われたよ」
「止めて」
「生きてほしいって。傑のお願いなら、名前は聞くだろ?」
「止めてってば!もうこれ以上私に呪いをかけないで」

いつの間にか涙は止まっていた。空色の瞳を睨むと、悟は眉を下げて口元にだけニヒルな笑みを浮かべて見せた。

「やだね。どうせ俺も名前もそのうち行くんだから、少しくらいあいつを待たせておけよ」
「相変わらず性格悪い」
「名前は相変わらずの善人だね。傑がそばにおきたい気持ち分かる」
「そんなんじゃない」

善人ではない。善人は過ちを犯さない。私の最大の過ちはなんだろう。傑に私の中になにかあると思わせてしまったことだろうか。大事にすることが、出来ていなかったのだろうか。どうしても手に入らないものがあると言っていた傑に、それを与えてあげることが出来なかったことだろうか。

正解は分からない。
でも私は間違った。それだけは、真実だ。

「私が傑のそばにいたかったの。流されて連れてこられたわけじゃなくて、私は繋いだ手を解く気なんてなかったの。だから私は、このまま一人で生きていくなんて、できない」
「人なんてのは一人で生きて、一人で死ぬんだ。逃げんなよ、都合の良いやり直しなんかねーの。分かってんだろ」

悟の指が、手の甲にぎりぎりと食い込んで痛い。

「…分かんないよ、、この後なんて考えたこともないもの」
「俺のそばにいてよ。俺のたった一人の親友のこと、聞かせてよ。名前と俺しか、あいつのこと本当に分かってやれないんだから。傑のことを大事に抱えて生きていくんだから、名前も半分持ってて。重たくって沈みそうだから」

それは哀願のようで、命令のようで、耳から入り込んだ悟の悲しみや罪悪感や自責の念がどろどろに混ざったものが重たく胸の中に溜まってゆく。悟も私と同じこの澱みを抱えているのだ。
悟は目を逸らさずに片方の唇だけを器用にあげてみせた。その顔を見ていると、ふとあの懐かしい校舎が脳裏に浮かぶ。なんのてらいもなく笑っていたあの頃はこんな未来は想像だにしなかった。


自分に出来なかったことを、悟にさせてしまった、という罪の意識が、悟の手を振り解くことのできない理由だろうか。ゆっくりと強張っていた指先をカップから離して、掌を上に向けると悟の指が手首を抑えるように絡まって来た。大きな手を握りかえしてその手の温もりを感じ、自分の手がひどく冷たいことに気がついた。傑の親友と二人で傑を想いながら生きるだなんて、なんという地獄なのだろう。

それは傑のことを大事にできなかった私の行き着く先としては、ふさわしい場所なのかもしれない。

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