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掌の幸福



 結局のところ大事にする、ということが私にはよく分からなかった。

袈裟を着た傑は目立つので、付いて来ないでと言うと寂しいな、と全く寂しくなさそうに笑っていた。一人でスーパーマーケットの中をゆっくりと歩く。今日の晩ご飯はどうしよう、明日の昼と晩の分まで買ってしまいたい。そんな世の中の食事を作る人みんなが考えているようなことを考えながら、目についた食材をカゴに入れる。仕事帰りの人々や、部活終わりの高校生で賑わっている店内では私もちょうど仕事を終えた会社員に見えているだろうか。

傑の大きな手に引かれて高専を出たあたりから、記憶が薄ぼんやりとしている。他人の人生を生きているような、画面の中の映画をみているような、そんなはっきりしない感覚で今日まで私は生きてきた。
最初はちゃんと大事にされていたし、できていたと思う。黒い制服に身を包んでいた時は、任務後に一番に顔を見せに来てくれたり、きっとバレバレだったろうけど悟と硝子に内緒で昼休みを過ごしたり、持てる全てで包んでくれた。

今も大事にしてくれていると思う。
彼の言う「家族」が増えたけれど、どうやら変わらず私は傑の彼女であり、みんなも傑の恋人だからだろう、好意的だ。それでも私は傑のやっていることに直接関わっていない。関わらせてもらえない。いつも留守番だ。愛犬にするように待っててね、と穏やかに微笑む傑を見送ると、そこからはしばらく一人になる。私が悟や硝子のところに行くかもしれないと、傑は思っていないのだろうか。一人になると時々そんなことを考える。でもそれで拘束されたり、監禁されるのは嫌だな、と自分で考えた可能性に軽く首を振る。

試しているのかもしれない。私を一人にして、出ていくかどうかを。半分にカットされたキャベツの断面を見ながら、その迷路のような葉の間を逃げ回る虫になったような気がした。

「明日の、晩ご飯を決めなくちゃ」

意識して小さく呟くと余計なことを考えないように、晩ご飯のことだけを考える。私がぼんやりと考え込んでいる間もスーパーマーケットは変わらずに賑わっていた。皆、自分や誰かのことを考えながら食材を選んでいるのだと思うと、これも大事にする行為かもしれないと思えた。


「遅くなってごめん」

二人で住む一軒家の鍵を開けると、コーヒーのいい香りがした。この家をどうやって手に入れたのかは知らないし、知ろうとも思わない。

「おかえり、たくさん買ったんだね。やっぱり私もついていけば良かった」
「私服だったらね。お坊さんは目立つから結構です」

スニーカーの靴紐を解く横で、傑の裸足の足が止まる。身長に見合った大きな足に走る真っ直ぐな骨が、屈伸する動きに合わせて浮かび上がって形を変える。私の髪をくしゃりと撫でた掌は、そのまま買い物袋を掴む。

「私服だから冷蔵庫に入れるくらいはするよ」

シャワーを浴びたのだろう、まだ少し濡れた髪を無造作に括った傑はスウェットのパンツにTシャツという、どこにでもいそうな男の格好でリビングへスーパーの袋を運んでいく。その後ろを歩きながら、晩ご飯の話をする。

「今日の晩、キャベツとあさりでワイン蒸しにしようと思うの」
「美味しそうだ。あさり、あったっけ」
「冷凍したのがまだあったはず。みみちゃんたちが潮干狩りしたやつもらったの」
「潮干狩りなんてあの子たちいつ行ったんだ…」
「傑が講演会であちこち回ってる時だったかな」
「あぁ講演会、ね」

袈裟を着ている傑の胡散臭い感じは、ある人にはとても素晴らしい教えを持った先生や、救いをもたらす救世主に見えているらしい。話し方も立ち居振る舞いも装いに見合ったものに変えて見せる傑に、そんな才能もあったのかと驚いたものだ。

「名前」

二人で袋の中の食材を取り出していた手が止まっていたらしい。私の名を呼んだ傑の声に、顔を上げると一重の冴え冴えとした黒い目が揺れた。ふと、いつも余裕のある彼の顔が、高専のあの教室で大事だと言った顔と重なった。
あの頃のわたしの想像力では傑の孤独や思想が見えていなかったけれど、今の私は少しは分かる。生涯で一番の親友を裏切ってでも、守るべき対象であった非呪術者たちを呪ってでも、そこまでしないと傑は生きてはいけなかったのだ。

「傑が一番大事だよ」

うんと背伸びをして、触れたら壊れそうな薄い陶器を両手で持つように、傑の頬に触れる。血の通う温かな肌を掌で撫でると、薄い瞼が黒い瞳を隠す。

「急にどうしたの、寂しくなっちゃった?」
「さびしんぼは傑でしょ」

悟が以前言っていた言葉を口にすると、傑が苦笑いを浮かべる。

「嫌だな、そんなの覚えていたのか」
「高校生の傑のこと大人っぽいと思ってたから、さびしんぼの方がとっつきやすいと思ったよ」
「名前はすぐ落ち込んだり、かと思えば元気になったり、子どもみたいで素直だなと思ったよ」
「今も子どもっぽいと思っているの?」
「子どもにはこんなことしないよ」

背中に手が回されるのと同時に顔を近づけてきた傑に慌てて目を瞑る。唇に二、三度軽く触れて離れた唇は、コーヒーの味がした。少し顔を離して小さく微笑みを浮かべる傑のキスがもう一度欲しくて、今度はこちらから猫のようにぺろりと薄い唇を舐める。

十分に大人になったから、大人びたという形容はおかしいのだけれど、今も傑にはその言葉がぴったりだ。決して声を荒げたりしない穏やかな彼の側で、私はずっとあの頃のまま変われない。
傑を大事にしたいけど、私は本当に大事にできているのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、少し湿った傑の長い髪に指を絡めた。


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