呪術 short story



満ちたふたつの手をとって



 花束を手に歩く人は皆幸せそうだ。色とりどりの儚い花は甘やかな愛の言葉とともに、もしくは心からの感謝としてその人の特別な誰かの胸に運ばれていく。きっと受け取った人も渡した人も満ち足りた笑顔を浮かべるのだろう。だからこそ花束は幸福というものの一つの象徴であり、愛そのものを可視化したように思うのだ。
 

「お待たせ、名前。あれ、髪巻いてる。そういうのもかわいいね」
 待ち合わせ場所に少し遅れて現れた長身の美丈夫は、その場の視線を一瞬で集める。日本人離れした体格と、神秘的とも言える白髪に碧眼の容貌は異性のみならず同性までもが思わず振り向いてしまう。そんな男が駆け寄った相手を値踏みする視線を全身に浴びながら、五条の甘い言葉に動揺した心を隠して短く返事をする。
「悟さん、そういうのいいですから」
「なんで? 可愛いと思ったから言ったんだけど」
「だから、そういうの」
「怒ってんの? 怒った顔もいいよね。色気増す感じで」
「……もう、いいです。行きましょう」
「あぁそうだよね、僕が遅れた分急がなきゃ。予約してあるから大丈夫だけど、お腹空いたよね」

 そう言って名前の右手を取ると、軽やか歩き出す五条に半歩遅れるようにして雑踏の中へと踏み出す。大きく、骨ばった五条の手に握られた名前の手は随分と小さく見える。こうし二人で出歩く時は必ず繋がれる手に毎度緊張していることを知られたくなくて、なんでもないようにそっとその硬い掌を握り返す。サイズ感があまりに違うので、手を繋いでいるというよりも包まれているようだ。そっと顔を上げて、高い位置にある横顔を覗き見ると黒いサングラス越しに青い瞳が名前を捉えた。
「なぁに?」
 口元に綺麗な三日月型の笑みを浮かべる五条の余裕のある態度に、緊張していることが恥ずかしくも、そして悔しくもあり名前は小さな声でなんでもないと返すのだった。


 男女二人が待ち合わせをして、買い物をしたり、カフェで休んだり、高そうなご飯を食べたり。これは世間一般で言うところの『デート』にあたるものだろう。特級呪術師は激務のはずだが、五条は月に二度、三度と約束を取り付けてくる。数日前に決まることもあれば、当日の夕方に急に電話が来ることある。不定期ではあるものの、途切れずに会おうと誘ってくる男は名前が知る以前の五条悟ではなかった。
 傲慢で、不遜。周りに人を寄せ付けない絶対的な強者の張り詰めた雰囲気は今の彼には見受けられない。軽口を叩き、人を揶揄うようなふざけた態度であっても、それは彼が意図して作っているものであり、平たく言えば彼は多方面で大人になっていた。「可愛いね」、「綺麗だよ」と臆面もなく褒るようになっていたし、歩幅が違う名前に合わせてくれるし、夜はマンションまでタクシーで送ってくれた。そんな彼の恋人のような態度に、会わない間に随分と女慣れしたのだな、とちくちくと胸を刺すような痛みを感じてまった。
 名前はと言えば、婚約破棄された名家の女という腫れ物扱いのおかげで、この歳まで誰とも交際したことなどない。恋愛のあれこれは小説や映画の中のことであり、フィクションでしか知らないのだ。だからいくら取り繕っていても名前が恋愛初心者であることは、すでに五条にはバレているだろう。
 五条悟に婚約破棄された女、というレッテルを剥がしたいのは確かだが、それが五条悟と復縁した女、になるのはどうなのだろうか。結局今も昔も彼に振り回されている自覚はあるが、自分から五条を拒むことはできなかった。好きじゃない、と面と向かって宣言できていたはずなのに、何度もデートを重ねるうちに彼の隣が心地よくて楽しいだなんて感じるようになってしまった。けれど何かに負けた気がするので、五条には決してそんなことは言わないようにしている。愛想のない女だと思われても仕方がない態度を取っている自覚はあるのに、それでも五条は途切れることなく会ってくれている。

 今日のデートは予約の取れない店としてテレビやSNSで話題というお寿司屋さんだった。噂通り、握りも椀物も全て美味しかった。職人気質の昔ながらの大将であったが、カウンターを挟んで一品づつ丁寧に説明してくれたので、和やかに食事が進み夜遅くまで居座ってしまった。
「ありがとうございました」
 サービス業の鏡のような笑顔を浮かべる従業員に見送られて店を出ると、後から出てきた五条の手には大きな紙袋がぶら下がっていた。名前が茶色い無地の袋に目を留めたことに気づくと、にこりと笑ってその袋を差し出す。
「今日もありがとう、名前」
 はい、と手渡された袋は見た目の割に軽く、中を覗き込めばふわりと甘い香りが漂う。アンティークピンクのローズを中心とした薄い色味が可愛らしい花束が溢れるように顔を見せる。幾重にも重なった薔薇の花弁を傷めないように指先で撫でると、大きな手が名前の頬を同じように柔らかく撫でる。こちらの表情を覗くように顔を傾げる五条は得意げな笑みを浮かべていた。
「今日のはどう?気に入ってくれた?」
「可愛いです。とても」
「よかった。こういう淡い色って名前らしいと思ってさ。また次も用意しておくよ」
「別に、なくたって怒りませんよ」
 素直に喜べば良いものを、どうしてか可愛くない言い方をしてしまう。傷まないようにそっと紙袋を持ち直すと、夜の街へと流れていく人波に逆らって大通りへと歩き出す。頬を撫でていた指を離した五条は、そのまま次は名前の手を取り指先を絡めるようにしてしっかりと繋ぐ。
「いらないの?」
「……そうは言ってません」
「だよね。名前、服とかバックあげても微妙な顔するけど花だけは可愛い顔してくれる」
 五条は夜のネオンの光を取り込んだように輝く青い瞳を細めて至極満足気に微笑んだ。
 
 初めは繊細なチェーンのブレスレットだった。可愛い、と思わず感想を漏らしたのがいけなかったのかそれから毎回ことあるごとに五条は名前に物を贈るようになった。セレクトショップの洗練された洋服だったり、誰もが知るブランドの新作バックだったり、宝石のついた華奢な腕時計だったりと、様々なものをもらった。実家から縁を切られた名前にとってはどれも高価なものであったが、五条家の財力と特級呪術師のお給料からすれば大したものでは無いのだろう。しかしこうも高価なものばかり貢がれる理由はないので、やんわりと断っているといつしかプレゼントは花束になった。

 最初の花束はトルコ桔梗とかすみ草がふんだんにあしらわれたものだった。花弁を指先で撫でては、その水分を孕んだ柔らかい感触にうっとりとしてしまった。五条がその時なにを話していたのか正直覚えていない。彼の声も耳に入らないほど、魅入っていたらしい。
 「そんなに気に入った?」
 五条は黙り込んで花束に目を奪われた名前を意外そうに見下ろしていた。彼の知る限り、女性は高価な贈り物を喜ぶ生き物だ。花を渡したところでここまできらきらとした目をしてくれた経験はなかった。名前はハッとしたように花束から目をあげると、五条を見上げて慌てたようにお礼の言葉を口にした。
「ありがとう、ございます」
「んーん。そんな顔してくれんならまた用意しておくよ」
 名前は取り繕うようにいいです、と否定の言葉を口にしたけれどその目は未だにきらきらと輝くように青い花弁に注がれていた。
 
 十代の頃に起こった婚約破棄という事件のせいで、それ以降女性と呼ばれる年頃になっても名前は花束をもらうことなどなかった。だからだろう、名前は自身でも知らぬところで花束に対して憧れがあったらしい。
 それからというもの、デートの度に五条は名前に花束を贈ってくれた。トルコ桔梗からはじまり、アイリス、ブルースター、ダリア、芍薬と数々の美しい花を受け取るうちに、名前も花の名前を調べ、出来るだけ長く咲いてくれるようにと花の生け方を学んだりした。
 
 生き物である花々は当然時間が経てば萎れて枯れてしまう。テーブルの上に水分を失った花弁が落ちる度に、名前は寂しさと不安を覚えた。人の気持ちや興味もいつしか冷めてゆくものだ。五条の気まぐれから始まったこの恋人ごっこもいつか、あの日のように唐突に終わるのでは無いだろうか。そんな不安を感じる頃に、また新しい花束が五条から贈られるのだった。何度不安になっても、それを打ち消すように渡される花束は繰り返されるうちに名前を安心させてくれるものになっていた。そうして五条からもらう花々は、いつしか名前の中に枯れない豊かな花園を作っていた。傷ついて渇いていた名前の心はまた花を咲かせるようになったのだ。疑心暗鬼だった五条への想いが、形を変えてゆくのが分かる。不安は安心へ、疑いは信頼へ。興味が愛しさに変わったのは、いつだろう。


「あの、悟さん」
「ん?どーしたの」
 あと数歩で大通りに出る手前で、繋がれた手に力を入れる。ぎゅっと五条の手を引っ張るようにして立ち止まると、彼も足を止めて振り向いた。婚約者であった頃も、ままごとのような関係の今も名前は基本的に受け身だった。自ら五条になにかしたことなどなかった。そのせいだろうか、呼び止めただけで心臓が嫌というほど大きく脈を打つ。大きく息を吸って乾いた唇を舐める。
「許してあげます、悟さんのこと」
 見上げた先にある青い瞳が大きく見開いた。
「婚約破棄はもう、過去のことです。そもそも、あの婚約は私と貴方が結んだ約束ではないですし……だからそれを破った貴方のこと恨んでも、憎んでもいません」
 緊張で口の中まで乾いていくのが分かる。言葉を区切るように大きく息を吸い込み、下がりそうになる視線をなんとか五条の目から逸らさないようにじっと見つめる。
「だから、罪滅ぼしのつもりなら、本当にもう、大丈夫です」
 五条はじっと名前を見つめたまま、困っているようなそれでいて怒っているような複雑な表情で唇をむっと突き出した。
「俺は最初にマジだって言ったと思うんだけど。罪滅ぼしってだけで何度も何度も興味ない相手のためにクソ忙しいスケジュール調整してわざわざ京都くんだりまで来るわけないだろ」
 五条の言葉に名前は肌がむずむずするような感覚を覚える。期待と不安の天秤が揺れ動く。繋いだ手から本当の気持ちが読み取れたら良いのに、と名前は五条の大きな手の甲に浮き上がった男らしい筋に視線を落とす。
「じゃあ、その、本当に付き合ってみますか。悟さんが良ければ……」
 ここまで来ても相手に判断を委ねるようなずるさが出てしまった。ただ好きだと言えれば、もっと可愛い言い方ができたら、と次々に後悔が湧き上がり名前はじんわりと汗をかき始めた掌を五条の手の中から引き抜こうと動かす。それを許さないというように強めの力で握られた五条の手に驚きパッと俯いていた顔を上げてしまった。
「俺はもう付き合ってると思ってたんだけど。じゃあ何、今日のこれはデートじゃないわけ?毎回なんだと思ってたのよ、お前は」
 眉間に皺を寄せた五条は、今までの余裕のある大人の顔から名前が昔よく見ていた勝気な少年の顔に戻っていた。怒るというより拗ねた様子で名前を見下ろしたまま矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。
「デートだって、思ってましたけど、その……悟さん毎回タクシーで送ってくれて、手は繋ぐけど、キスだってされたことないし……」
「そういう言い方だとキスしても良いのかと思っちゃうけど、いーの?」
 冗談めかした言い方ではあったが、五条の瞳は名前をじとりと射抜いていた。獲物に狙いを定める肉食獣のような五条に名前はこくりと喉を鳴らす。体の奥から燃えていくみたいだ。燻り始めた熱で、胸が苦しい。五条の視線はなおも名前に注がれており、彼は答えを待っているのだろう。名前が頷けば、きっとこの関係は大きく変わる。以前とは全く違う熱量で、二人の世界を極彩色に染め上げる。それはきっと狂おしいほど美しく、愛おしいだろう。

「いいよ」
 雑踏の中に消えてしまいそうなほど小さ声であったが、五条は聞き逃さなかった。耐えるように星など一つも見えない都会の夜空を暫く見上げ、ため息と一緒に悪戯な微笑みを名前に向けた。
「じゃあ、今日はうち来る?」
「て、展開がはやいですね」
「何もしないって!」
「え、何もしないんですか……?」
「いやしたいんだけど、でも今日はさ、なんていうか、朝まで名前とただ一緒にいたい」
 すり、と手の甲を五条のかさついた指が撫でていく。だめ?と首を傾げる仕草は、大男と言っても過言ではない五条がするには可愛らしすぎる。名前はくすりと笑って五条と繋がれた手を緩く引く。
「コンビニ、寄ってからでも良いですか」
「もちろん」
 ゆっくりと歩き出した五条を見上げ、名前は自分でも知らぬ間に微笑んでいた。
 
 差し出されたこの手をもう一度とってよかった。途切れても、こうして結び直せるのだと教えてくれてありがとう。今度は私が花束を贈ろう。強く、しなやかに、いつでも手をひいてくれる貴方に、言葉にはできないこの愛を込めて。


『お題箱より 2022.08.25』
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