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幸福実験



 「先輩」と私を呼ぶのは彼女だけだ。購買部へと繋がる渡り廊下に響いた名字の少し高い声に振り返ると、ぱたぱたと小走りに名字が駆け寄ってきた。金木犀の香りも、木々の紅葉も今年はまだ知らないが、先週からカーディガンを着るようになった彼女に本格的な秋の到来を教えられたように思う。

「名字も自販機?」
「はい。あったかいもの欲しくって」

 追いついた名字と並んで歩くと、自身の影に彼女がすっぽりと入っていてそこだけすでに冬のような日陰になった。先ほどよりも歩くペースを落とし、名字の様子をそっと伺う。自身の肩よりも低い位置にある小さな頭のつむじすらも、可愛らしいと思ってしまう。上向きの長い睫毛がゆるくカーブを描いて、いつでも艶々とした光を湛える眼を彩っていた。その睫毛の瞬きの合間に彼女の瞳がこちらに向けられ、目が合うと空気が小さく爆ぜたような気がした。

「ココアにはまっちゃってて」

 名字の唇がゆっくりと動く。リップクリームの輝きなのだろうか、桃色の唇の潤いが動きに合わせて艶めかしく光を反射する。
 ココアの缶を間違えて買ってしまったのは先週だっただろうか。その日もちょうど彼女と一緒になったので、よかったらと手渡したのだった。そんな出来事を思い返していると、少し赤くなった彼女の頬が物語る感情が伝播したかのように己の頬まで熱を持つ。何でもないように片手で口元を覆い、意味もなく軽く咳払いをする。

「甘いものすきでよかった」
「先輩は、あんまりすきじゃないですか?」
「うん、私はあんまり得意じゃないかな。自分で作るココアなら飲めるんだけどね」

 茶色い粉をお湯で溶いて少しだけ砂糖を加える。温めた牛乳を加えた手作りのココアは甘さが調整できるので飲みやすかった。冬になると母に頼まれて何度か作ったことを思い出す。本当は鍋でゆっくりココアをのばすらしいが、電子レンジで簡略化したものだったが。

「たしかに自分で作ると、最後にちょっとアレンジしたりもできますね」
「へぇ、何入れるの?」
「マーマレードのジャムとか、マシュマロ浮かべたりとかも美味しいですよ」
「ふうん。オレンジなら私でも飲めるかもしれないね」
「…今晩、作りますか?」

 オレンジピールの入ったチョコレートを思い浮かべながら聞いていると、最後に思いがけない言葉が返ってきた。思わずぱっと彼女に目を向けてしまう。恥じらうように両手の指先を白くなるほど握りしめる名字の様子に、聞き間違いではないのだと鼓動がどくりと大きく跳ねた。

「…そうだね。じゃあ食堂で待ち合わせにする?」
「はいっ!」

 嬉しそうに少し上擦った声で返事をしてくれた名字との初めての約束に、こちらまでこそばゆくなってくる。肌が泡立つような、小さな興奮を胸の奥に隠して大人ぶって笑ってみせる。余裕などないことを、彼女にだけは分からないようにと願いながら。




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